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【ロングインタビュー】吉田 都「引退までの日々のこと。そしていま、これからのこと。」

阿部さや子 Sayako ABE

『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演「Last Dance」カーテンコールより ©︎Kiyonori Hasegawa

「こんにちは、お久しぶりです」

明るい陽が差し込む新国立劇場の応接室。扉の向こうで待っていてくれた吉田都さんはそう言って、春のような笑顔で迎えてくれた。

バレリーナとして踊り続けた半生。踊りの精度をひたすらに磨き上げ、その表現力はキャリアを重ねれば重ねるほど豊かに、そして澄みわたっていった。

ひたむきに歩み続けた道のりの集大成として迎えた、2019年8月7・8日の引退公演「Last Dance」――吉田都というバレリーナの人生そのものをかたちにしたような舞台を私たちの記憶に永遠に残して、都さんは現役ダンサーとしてのキャリアに幕を引いた。

2019年8月7・8日に上演された『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演「Last Dance」の公演直後レポートはこちら

あれから3ヵ月あまり。

じつはそのラストステージの10カ月前からNHKがカメラを回し続けていたというドキュメンタリー番組「LAST DANCE ~バレリーナ吉田都 引退までの闘いの日々~」が、間もなく放送されるという。

放送を前に、引退を迎えるまでの日々のことや、引退公演のこと、そしていま、これからについて思うことなどについて、話を聞いた。

***

 ようやく迎える、“遅い夏休み”

今日は最初にお祝いを言わせてください。先月に発表された67回菊池寛賞受賞、おめでとうございます。
吉田 ありがとうございます。こんなにも歴史のある素晴らしい賞をいただけるなんて、身に余る光栄です。
授賞理由は「22年間にわたり英国の2つのロイヤルバレエ団において最高位のプリンシパルを務めるなど、世界的に活躍。確かなテクニックと高い音楽性により、今年8月の引退まで多くのファンを魅了した」こと。都さんのこれまでの人生そのものが評価されたような賞ですね。
吉田 この賞を主宰されているのは日本文学振興会ということで、選考委員の方々が私のことを知ってくださっているということに、まず驚きました。
都さんは、都さん自身が思っていらっしゃるよりもずっと有名な存在です(笑)。
吉田 今年は引退を含めて本当にいろいろなことがありました。そのような節目の年に評価をいただけたというのは大きな励みになりますし、とてもありがたいことだと思っています。
節目の年という言葉が出ましたが、あの素晴らしかった引退公演から3ヵ月あまりが経ちました。みなさんから言われるのではと思いますが、本当にひとつ肩の荷が下りたような、素敵な表情をされていますね。
吉田 踊っていた頃とは、やはり気分が全然違います。ああ、もう自分の身体のケアを心配しなくていいんだ、と。確かに、肩の荷が下りた感じはしますね。その時はそれほど意識していなかったのですが、いまこうして現役生活を離れてみてはじめて、自分がどれほど身体に対して神経を使ってきたのかを実感していますし、そこから解放されて、とてもほっとしています。

『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演「Last Dance」カーテンコールより ©︎Kiyonori Hasegawa

都さんというと、本当に一つひとつの舞台に向けて誰よりもストイックに身体と踊りを研ぎ澄ませていた姿をまず思い出します。その集中力には、凄まじいまでの迫力がありました。
吉田 思い返すと、いつもどこで何をしていても、頭のどこかでは「今日はこれとこれをしておかないと……」と、身体のケアのことや踊りのことを考えていたように思います。毎日バーのエクササイズから始まってひと通りのことをやっておかないと、あとが大変だということが身にしみてわかっていますから。ですから引退公演が終わって、9月に2週間くらいまったくレッスンをせずにお休みした時は、本当にはじめて、心身ともに真に休めた気がしました。次の舞台の心配をしなくていいし、休んだらそのぶんまた身体を作り直さなくては……などと思う必要もない。また、朝のクラスがないと午前中の時間をこんなにも有意義に使えるのか、というのも新鮮な発見でした(笑)。とても心地よくて快適でしたね。
そういうお話を聞くと、こちらも何だかほっとします。
吉田 いまはまたお稽古は始めていて、毎朝のクラスで1日を始めるようにはしています。そのほうが体も楽ですし、朝そうやって自分に集中できる時間があるのは嬉しいことです。ただ、仕事のなかでの優先順位は大きく変わって、例えば午前中にミーティングが入れば、心配も罪悪感も感じることなくお稽古のほうを休みます。また、年末年始には少しだけ休暇を取って、のんびりと旅行にでも出かけてみようかなとも思っているんですよ。そういうことも、これまでは本当にしたことがなかったので。ずいぶん遅い夏休み、という感じですが、楽しみにしているところです。

引退公演までの日々

あらためまして、都さん、長い間本当にお疲れさまでした。8月7日・8日の引退公演は、本当に素晴らしいラストステージでした。
吉田 ありがとうございます。まず何よりも、あの舞台にたどり着けたことじたいに、心からほっとしました。昨年の夏頃に引退公演を決めてからというもの、あまりにもいろいろなことがありましたので。本当に、いままでなかったようなことが、次つぎと起きた1年でした。ですから本番まであと1週間というところまで来た時に感じたのは、「よかった、これで舞台に立てる」という安堵。そこからようやく、当日までのプロセスを楽しめるようになりました。
じつは今日都さんにお会いする前に、NHK BS1でまもなく放送となるドキュメンタリー「BS1スペシャル LAST DANCE~バレリーナ吉田都 引退までの闘いの日々」(2019年11月24日午後10時〜)を担当した番組ディレクターの方に少しだけお話を聞いてきました。そこで伺った話によると、まさにこの番組の取材・撮影がスタートした頃から、その「あまりにもいろいろなことがあった1年間」が始まったそうですね。
吉田 波乱の始まりは、昨年の夏から続いていた股関節の痛みが、じつは疲労骨折を起こしていたのだと判明したことでした。その時の私は、年明けの1月にひとつ、大事な公演を控えていました。これはずっとお世話になっている先生が主催する舞台であった上に、引退公演に向けて自分の身体をコントロールしていくという意味でも重要なものだったのです。けれども若い頃とは違って、いちど怪我をするとなかなか治りません。またしっかりと治りきらないうちに踊るということは、ダンサーにとって致命傷となるリスクがあります。いまここで踊るべきか、それとも諦めるべきか。そのせめぎ合いには本当に悩みましたし、厳しい決断でした。

©︎NHK

そんなことがあったのですね……。
吉田 また、冬には体調を崩して、ロンドンで緊急入院を余儀なくされたこともありました。最初はただの風邪だったのですが、そこから胃腸炎を併発してしまい、とにかく物がまったく食べられなくなってしまって。入院なんて生まれてはじめてのことでしたし、向こうの病院というのは、食事もインディアンカレーだとかフィッシュ&チップスだとか、ヘビーなものばかり。自分の喉を通りそうなものがなくて、点滴と、友人が差し入れてくれる日本食で、ようやく栄養を摂れるような状態でした。そんなふうでしたから、体力も筋力もすっかり落ちてしまい、退院した頃にはもう歩くこともままならなくなってしまったんです。いまだから言えますが、この時はさすがにもう、引退公演の舞台に立つことは不可能だろうと考えました。日常生活を送ることすら厳しい状況なのに、トウシューズで踊るというのは、さらに別次元の段階ですから。
そういったお話を伺うと、あの引退公演は文字通り“奇跡の舞台”だったのだなと感じます。
吉田 他にも、大切な家族との別れがあったり……本当に、これまでの人生では経験のないようなことが一気に押し寄せた1年でした。それでも最後にあの舞台に立てたのは、ダンサー、スタッフ、友人、家族、みなさんのサポートがあったおかげです。誰かひとりでも、あるいは何かひとつでも欠けていたら、あのラストステージには決してたどり着けなかったと思います。

「白鳥の湖」のリハーサル風景 ©︎NHK

都さんがそのように過ごしていらした過酷な時期を、ドキュメンタリーのカメラがずっと追っていたということですね。
吉田 そうです。取材・撮影は昨年の秋から始まって、8月の引退公演当日、終演後の舞台裏、そして公演が終わって数日後まで撮影が続きました。私は本番に向けて完全に集中したいタイプですので、本来であれば、ここまでカメラに見つめられ続けるというのは難しかったと思います。けれども、自分のバレエ人生の集大成である1年間を記録に残していただくことには意味があるとも感じましたし、何よりも今回の撮影・編集チームというのが、12年前のNHK「プロフェッショナル仕事の流儀」に出演した時からずっと私のことを取材してくださっている方々だというのが大きかったですね。素晴らしいチームですので、私自身も安心して、普段よりもずっとオープンになれたという面はあります。でも、最終的にどんな番組になっているのか……私も放送で初めて見ることになるので、少し心配ではありますけれども(笑)。

引退公演、その日のこと

先日、引退公演(『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演 Last Dance)の舞台映像が放送されて話題になったばかりですが、まさにその公演の舞台裏も、11月24日放送のドキュメンタリーで拝見できるのですね。あのラストステージ当日、都さんはどんな思いでいらしたのでしょうか?
吉田 公演の数日前から劇場での舞台稽古が始まったのですが、楽屋に入った1日目はやはり、これで本当に最後なのだという寂しさが胸にこみ上げてきました。でも本番の2日間は、本当に心から幸せな気持ちで過ごすことできたんです。とにかく、周りのみなさんのサポートというか、パワーが凄かった。一緒に出演してくれたダンサーたちも、本当に頑張ってくれて……私自身、あれほど他のダンサーたちの踊りに癒されたことはありませんでした。これまでに踊ってきた作品を、これからの時代を担うダンサーたちが踊ってくれている。その姿を見ながら、自分がそれを踊っていた頃のことを思い出したり、あんなことがあった、こんなこともあったと懐かしい記憶がふとよみがえったりーーそれは本当に温かくて幸せな時間でした。うまく言葉が見つかりませんが、ダンサー人生の最後に、もう望むべくもないほど素晴らしい贈り物をいただいたような気がします。あのようなかたちで終われるなんて、想像もしませんでした。

©︎NHK

都さんは全部で4つの作品を踊りました。なかでも最後の最後、“ラストダンス”の演目として選ばれたのは、英国で都さんの才能をいち早く抜擢した恩師ピーター・ライト振付の『ミラー・ウォーカーズ』。そのパートナーを務めたのはイレク・ムハメドフでしたね。
吉田 これもドキュメンタリーのなかに出てくるかもしれませんが、じつは私自身は当初、最後の演目は『誕生日の贈り物』にして、みんなで華やかに終わりたいと希望しました。でも、最終的には『ミラー・ウォーカーズ』にして良かったと思っています。あの作品にしたことで、自分のバレエ人生の円がきれいに繋がって、きちんと完結できた気がします。
舞台裏の一部始終を見届けたその番組ディレクターさんによると、公演最終日、ラストダンスの舞台へと出ていく直前に、都さんがイレクさんにかけた小さなひと言が、とても素敵だったと。
吉田 もう自分ではあまり記憶がないくらいなのですが、気がついたらその言葉を口にしていましたね。イレクに対して、そしてこれまでのすべてに対して浮かんできた、本当に自然で素直な気持ちだったと思います。

『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演「Last Dance」より「ミラー・ウォーカーズ」イレク・ムハメドフと ©︎Kiyonori Hasegawa

『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演「Last Dance」より「ミラー・ウォーカーズ」イレク・ムハメドフと ©︎Kiyonori Hasegawa

もうひとつ、ディレクターさんから聞いたなかで印象的だったのは、「これまでどんなに大成功をおさめた舞台でも、終演後は『反省点ばかりだ』と言っていた都さんが、このラストステージの後だけは、『本当に幸せな時間でした』と満面の笑みでおっしゃったのが心に残っている」というエピソードでした。
吉田 私の最後の舞台を最高の演技で飾ろうと、「自分をよく見せたい」という当たり前の欲さえ持たずにただ一生懸命踊ってくれた出演ダンサーたち。何があっても私たちが安心して踊れるようにと、全力で支えてくださったスタッフのみなさん。そして舞台を完成させる最後のピースであるお客様。みなさまが、あの温かく、熱い空気を作ってくださいました。あんなにも幸せに満ちた気持ちで舞台を終えられたのは、長年にわたるダンサー生活のなかで、本当にはじめてのことだった気がします。
ひたすらに、ひたむきに、どんな時も100%以上の力を尽くし続けてきたバレリーナ人生の最後に、最高のご褒美が待っていたのですね。
吉田 じつは、新国立劇場バレエ団の芸術監督就任が決まり、それを機に現役引退を心に決めた当初は、こんなふうに“引退公演”はせず、静かにフェイドアウトしようと考えていました。2010年、ロイヤル・バレエの退団公演として最後にロンドンで『シンデレラ』を踊った時ですら大変なプレッシャーだったのに、今回は踊ることじたいをやめるわけですから、そのような舞台に耐えられるわけがないと思ったのです。でも、本当にやって良かった。心からそう思います。繰り返しになってしまいますが、すべては私の背中を押し、サポートしてくださったみなさんのおかげです。

©︎NHK

次のチャレンジは、もう始まっている

そしていよいよ来年9月から、「新国立劇場バレエ団芸術監督」という新たな人生の幕が上がりますね。
吉田 2018年に新国立劇場舞踊次期芸術監督予定者として芸術参与に任じられて以来、ほぼ毎日のように劇場に出勤していろいろなことを学んだりお仕事をさせていただいたりしているのですが、いまはとにかく、新国立劇場バレエ団の舞台を見ていてもわくわくするんです。素晴らしいダンサーたちが揃っていて、「来年からはこんなふうにしていきたいな」等とアイディアが次つぎと浮かんできますし、ヴィジョンもさらにクリアになってきています。そんな楽しみがあるからこそ、舞台を降りてからもあまり寂しさを感じずに過ごせているのかもしれません。次のチャレンジが、もう始まっていますので。
その言葉を聞いて、私たちファンも本当に嬉しいです! 芸術監督就任後、最初の公演はピーター・ライト版『白鳥の湖』ですね。
吉田 サー・ピーター・ライトの『白鳥の湖』からスタートできるということじたいがまず嬉しいのですが、この版を選んだ最大の理由は、演劇性がとても高いバージョンだからです。まずはダンサーたちに、「演じる楽しみ」というものをもっと伝えたいと思っています。団員たちはすでにとてもレベルが高く、例えばロイヤル・バレエにも引けを取らないようなプロポーションを持つダンサーも山ほどいます。ですから細かいところを少し変えていくだけで、まだまだ大きく進化できると感じています。
具体的には、ダンサーたちをどのように導いていきたいと考えていますか?
吉田 私の夢は、「アーティスト」を育てることです。バレエにおいてステップの精確さはとても重要ですが、機械的に踊ってほしくはありません。群舞であっても、コール・ド・バレエの一人ひとりが個々の人間として、自分はアーティストだという自覚とプライドを持って舞台に立ってほしい。それはソリストでも、プリンシパルでも同じことです。美しくて完璧なだけでは足りなくて、それぞれの個性をもっともっと輝かせてほしいと思います。そのためにまず必要なことは、ダンサーを成長させ、バレエ団にとっても財産になるような作品を制作していくという芸術面の充実。そしてもちろん、ダンサーたちが「自分はプロである」という意識を持てるような環境を整えていくための、実務的な努力もしていかねばなりません。これらは非常に時間のかかることで、もしかしたら私が生きている間には実現できないかもしれない。それでもバレエの未来を創っていくためには、私なりにできる一歩を、いますぐに踏み出すことが大切だと思っています。

放送予定

『NHKバレエの饗宴』特別企画 吉田都引退公演 「Last Dance」関連ドキュメンタリー番組 「LAST DANCE ~バレリーナ吉田都 引退までの闘いの日々~」

●NHK BS1: 2019年11月24日(日)午後10時~(途中ニュース挟む)※完全ノーカット版(99分)
●NHK 総合テレビ: 2019年12月14日(土)午後3時05分~
●NHK BS4K: 2019年12月29日(日)午後3時45分~

番組HP: https://www4.nhk.or.jp/bs1sp/x/2019-11-24/11/10512/3115725/

©︎NHK

吉田都さん著書

『吉田都 永遠のプリンシパル』



●吉田都・著
●2019年8月9日発売
●本体:3150円(税別)
●B5変/ハードカバー/オールカラー/128頁

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