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【レポート】吉田都引退公演「Last Dance ―ラストダンス―」

阿部さや子 Sayako ABE

2019年8月8日。
とうとう、この日が来てしまった。

上から下まで観客で埋め尽くされた、新国立劇場オペラパレスの客席。
オーケストラが楽器の音色を確かめる音を聞くともなしに聞きながら、これが“引退公演”だということがうまく実感できないような、不思議な気持ちだった。

あの幕の向こうで、吉田都さんはいま、何を思っているのだろうか?

18時30分。
吉田都引退公演「Last Dance ―ラストダンス―」の幕が、ついに上がった。

***

オープニング。
プロコフィエフ「シンデレラ」の音楽が流れるなか、スクリーンに公演タイトルが浮かび上がる。

そして次に映し出されたのは、花かんむりをつけてごきげんな様子の、小さな女の子の写真。
バレエと出会った頃の、都さんだ。
そこから、ほっそりとしたバレエ少女に成長し、美しいバレリーナとなり、輝かしいプリンシパルへと駆け上がっていく姿が、アルバムをめくるように次々と映し出されていく。

スクリーンが上がると、広い舞台に、都さんがひとり静かに佇んでいた。
最初の演目は、フレデリック・アシュトン振付『シンデレラ』第3幕のソロだった。

「シンデレラ」吉田都

ゆっくりと顔を上げ、立ち上がり、「舞踏会は、夢だったの……?」と小刻みにパ・ド・ブーレを踏んでいく。
そして音楽がワルツに変わると、ふわっと笑顔になって踊り出す。

ひとつのフレーズのなかで素早く動くところは素早く動き、最後の一瞬はピタリとポーズを見せる。

そう、都さんはいつもこんな風に美しい“余白”を作り、観客にもちゃんと呼吸をさせてくれる。
そういう踊り方が、私はずっと大好きだった。

公演プログラムに記された内容によると、都さんはこの「トウシューズを手に舞踏会を思い出すソロ」を、「自分のバレエ人生を振り返るイメージで選」んだという。

踊り終え、ガラスの靴―キラキラ光るトウシューズ―の片方を胸に抱き、目を閉じた都さん。
以前ご本人を取材した際、「12歳で初めてトウシューズをいただいた時、先生から『次のお稽古まで履いてはいけませんよ』と言われていたにもかかわらず、嬉しくて何度も試し履きをして、1週間後にはすっかり汚してしまっていたんです」と笑って話してくれたエピソードを思い出した。

「シンデレラ」吉田都

***

早くも感傷的になりかけていた気分を、勢いのある快活な踊りで心地よく切り替えてくれたのが、次の演目『Flowers of the Forest』から“Scottish Dances”(デヴィッド・ビントレー振付)だった。踊ったのはスターダンサーズ・バレエ団の6名のダンサー(池田武志、渡辺恭子、石川聖人、石山沙央理、塩谷綾菜、髙谷遼)。

「Flowers of the Forest」池田武志、渡辺恭子、石川聖人、石山沙央理、塩谷綾菜、髙谷遼

続く『タランテラ』(ジョージ・バランシン振付)ももちろん文句なしの楽しさで、英国ロイヤル・バレエのミーガン・グレース・ヒンキスとヴァレンティーノ・ズケッティが、まるで音楽や自分自身の身体と戯れるかのように活き活きと踊った。

「タランテラ」ミーガン・グレース・ヒンキス

「タランテラ」ヴァレンティーノ・ズケッティ

次はケネス・マクミラン振付『アナスタシア』から第2幕のパ・ド・ドゥ。これは皇女アナスタシアの父、ニコライ2世の愛人であったマチルダ・クシェシンスカヤがパートナーと踊る場面で、英国バーミンガム・ロイヤル・バレエ プリンシパルの平田桃子と、英国ロイヤル・バレエ ファースト・ソリストのジェームズ・ヘイが踊った。平田の揺るぎないポワントワーク、パートナーの手の中にピタッと吸い付いていくような動きの精度の高さが何といっても印象に残る。

「アナスタシア」平田桃子、ジェームズ・ヘイ

第1部の最後は、フレデリック・アシュトン振付『誕生日の贈り物』から抜粋。
これは豪華! 本当に、息を呑む豪華さだった。

7組の男女、計14人による踊りで、そのメンバーというのが、吉田都、フェデリコ・ボネッリ/島添亮子、福岡雄大/米沢唯、井澤駿/渡辺恭子、池田武志/永橋あゆみ、三木雄馬/沖香菜子、秋元康臣/阿部裕恵、水井駿介。
つまり、吉田都とそのパートナーを務める英国ロイヤル・バレエプリンシパルのボネッリ、その他も全員が日本の主要カンパニーのトップダンサーたち、という構成。
やはり、主役級のダンサーたちには相応の力強さがある。
そしてその中央に、吉田都が圧倒的な華で立つ。これは凄い光景だった。

「誕生日の贈り物」写真左からカップルごとに:渡辺恭子、池田武志/阿部裕恵、水井駿介/島添亮子、福岡雄大/吉田都、フェデリコ・ボネッリ/沖香菜子、秋元康臣/永橋あゆみ、三木雄馬/米沢唯、井澤駿

「誕生日の贈り物」吉田都

最初に7組全員が揃って踊り、次に男性7名による大迫力のマズルカ、そのあとは女性たちがひとりずつヴァリエーションを披露した。
入れ替わり立ち替わり登場するバレリーナたち、それぞれの持ち味に胸がときめく。
とくに3番目に踊った島添亮子(小林紀子バレエ・シアター)の匂い立つようなポール・ド・ブラには痺れた。

「誕生日の贈り物」渡辺恭子(スターダンサーズ・バレエ団)

「誕生日の贈り物」阿部裕恵(牧阿佐美バレヱ団)

「誕生日の贈り物」島添亮子(小林紀子バレエ・シアター)

「誕生日の贈り物」沖香菜子(東京バレエ団)

「誕生日の贈り物」永橋あゆみ(谷桃子バレエ団)

「誕生日の贈り物」米沢唯(新国立劇場バレエ団)

そしてラストの7番目、吉田都の登場である。

「誕生日の贈り物」吉田都

マーゴ・フォンテインのために振付けられたこのパートを踊るのは初めてだという都さん。
かねてより、「最後の舞台でもなお新たなチャレンジができることを、とても幸せに思う」と話していた。

低い位置にふわりと収めるアームスの品の良さ。
ソロのヴァイオリンとハープが奏でる弦の音を、トウシューズの先で爪弾くように、ステップを積み重ねていく。
羽根のように軽いスモール・ジャンプ、精密なバットゥリー、愛らしく打ち合わされる華奢な足先。
終盤で音楽が急激にスピードアップしていくが、絶対に遅れない。一音たりとも外さない。
圧巻だった。

でも何よりも感動したのは、都さんがあまりにも嬉しそうに、心の底から楽しそうな笑顔で踊っていたことだ。
大好きな踊りを踊ることの喜びを、全身が歌っている。
ああ、そんなにもバレエを踊ることが大好きなのだな……と、その磨き抜かれたクリーンなパの一つひとつを観ながらホロリときた。

都さんは踊り終わると、ほっそりとした腕を慎ましくまとめて手を胸に当て、プリンセスのように上手袖へと入っていった。
そうだ、こんな風に手を胸に当ててレヴェランスをしたり歩いたりするのも、ずっと変わらない、とても都さんらしい仕草のひとつだ。

吉田都、フェデリコ・ボネッリ

***

20分の休憩を挟んで、第2部が始まった。

まずは、都さんとフェデリコ・ボネッリによる『白鳥の湖』第4幕のパ・ド・ドゥ
最後にもう一度、都さんの“白鳥”を観られるとはーーこの作品を選んでくれたことは、ファンにとって、本当に嬉しく、そして思いがけない贈り物だったと思う。

この引退公演の発表が行われた記者会見で、都さんはこう語っていた:

「『白鳥の湖』は、私がいちばん最初に主役をいただいた作品です。ロイヤル・バレエ団に移籍した時も、いちばん最初に踊ったものが『白鳥の湖』でした。私はオデット/オディールが似合うタイプのダンサーではないという思いはずっとあるのですが、それでもこの作品でたくさんの舞台を踏んできましたので、すごく思い入れのある作品です。また、やはりバレエといったら『白鳥の湖』ですので、“原点に帰る”という意味もあります」

しかも踊るのは、都さんがサドラーズ・ウェルズ・バレエに所属していた当時に芸術監督を務めていたピーター・ライトの版。ライトこそは、まだロイヤル・バレエ・スクールの生徒だった都さんを同バレエ団に採用し、入団間もない彼女を初めて『白鳥の湖』の主役に抜擢した人だ。

周りの空気を波立たせない、とても静かな踊り方。
濁りなどいっさいない、澄みきったステップ。儚げな佇まい。

都さんは「自分は白鳥タイプのダンサーではない」としばしば語ってきたが、こちらの目線から言うならば、純白のクラシック・チュチュに身を包んだその姿は、清らかで温かな血の通う、とても美しい“白鳥”だった。

「白鳥の湖」吉田都、フェデリコ・ボネッリ

ちなみにこの公演の初日(8月7日)、新国立劇場バレエ団から「吉田都の芸術監督就任第一作目は、ピーター・ライト版“『白鳥の湖』(2020年10月公演)」と発表された。
自身のバレエ人生の次なる幕も、やはり“原点”である『白鳥の湖』から始めたいということだろうか。
とても都さんらしいスタートの切り方だと思う。

***

第2部は、他の出演者たちの素晴らしいパフォーマンスも劇場内の空気を沸騰させた。

新国立劇場バレエ団プリンシパルの米沢唯と、東京バレエ団プリンシパルの秋元康臣がパートナーを組んだ『ドン・キホーテ』第3幕のグラン・パ・ド・ドゥ(マリウス・プティパ、アレクサンドル・ゴルスキー振付)は、目の覚めるようなテクニックを次々に披露しながらもとても音楽的。米沢の高速フェッテやシェネ、秋元の弾性に富む美しいジャンプなど、会場から「ヒュー!」と声が飛ぶほどの大喝采だった。

「ドン・キホーテ」米沢唯、秋元康臣

また同じく新国立劇場バレエ団を代表するプリンシパルのふたり、小野絢子と福岡雄大が踊ったデヴィッド・ビントレー振付『シルヴィア』のグラン・パ・ド・ドゥは、青い空を吹き渡る爽風のよう。どう見てもテクニック的に難易度の高いアダージオやソロを、涼やかな表情で踊り紡いでいく小野と福岡。ドリーブの流麗な音楽を、心地よく身体に巻きつけていく感じ、とでも表現すれば良いだろうか。こちらも絶品のパフォーマンスだった。

「シルヴィア」小野絢子、福岡雄大

そして、英国ロイヤル・バレエからのゲストたちが踊った『リーズの結婚』第2幕のパ・ド・ドゥ(フレデリック・アシュトン振付/ミーガン・グレース・ヒンキス&ヴァレンティーノ・ズケッティ)と、『くるみ割り人形』のグラン・パ・ド・ドゥ(ピーターラ・ライト振付/ヤスミン・ナグディ&平野亮一)。

「リーズの結婚」ミーガン・グレース・ヒンキス、ヴァレンティーノ・ズケッティ

「くるみ割り人形」ヤスミン・ナグディ、平野亮一

ロイヤル・バレエの“いま”を担うダンサーたちによる、正統的“ロイヤル・スタイル”の踊り。

しかし、いや、だからこそ、これらの踊りを観ていると、どうしたって都さんを思い出してしまう。

優しくて愛らしいリーズの仕草を観ていると、ボディにクロスを効かせ、頬を薔薇色に染めて本当に愛くるしくこの役を踊っていた都さんを思い出してしまう。

舞台上手奥から下手前方へ向けて、キラキラと星を撒き散らすようにフェッテをしながら進み出てくる金平糖の精を観ていると、都さんのあのリリカルな輝きを思い出してしまう。

自分自身の心の中にある都さんの思い出が溢れ出てきて、涙が止まらなかった。

***

ナグディ&平野のレヴェランスが終わり、幕が開くと、ふたたびスクリーンが舞台を覆っていた。
4人の人物から都さんへのビデオメッセージ。それぞれ、下記のような内容のメッセージだった:

●新国立劇場バレエ団芸術監督 大原永子氏
「都さん、あなたが2020年の秋から私の後任として芸術監督を務めてくださることになり、本当に嬉しく、心強く思っています。都さんの才能と、長年積み重ねてきた経験を、新国立劇場バレエ団のダンサーたちにぜひ伝えてください」

●バーミンガム・ロイヤル・バレエ元芸術監督 デビット・ビントレー氏
「かつて私があなたのために振付けた作品をラストステージで踊りたいと言ってくれて、大変誇りに思い、嬉しくなりました。都はずば抜けたレジェンドです。観客のみなさん、彼女の公演をぜひお楽しみください」

●英国ロイヤル・バレエ芸術監督 ケヴィン・オヘア氏
「都、僕も東京に行きたかったけど、一緒にいられなくてごめんなさい。一緒には踊れなくても、せめて最後にもう一度あなたの踊りを見たかった。あなたと一緒に歩めたこと、ロイヤル・オペラハウスや東京はもちろん世界中の舞台で一緒に踊れたことは、僕のキャリアの中でも最も大切な思い出です。あなたは何もかも乗り越えて、素晴らしいプリンシパルになりました。僕はあなたの友達であることを誇りに思います」

●ピーター・ライト氏
「都、これがあなたの最後の公演になるなんて信じられません。芸術監督としての人生も、きっとうまくいくと確信しています。タフに、愛情を持って務めてください。あなたほど素晴らしいバレリーナはいませんよ。本当にありがとう。幸運を祈っています」

ライト氏のメッセージが終わる頃には、客席のあちらこちらからすすり泣く声が聞こえてきた。

そして映像が消え、最後の演目、『ミラー・ウォーカーズ』(ピーター・ライト振付)が始まった。

都さんの“ラストダンス”をエスコートしたのは、ロイヤル時代の名パートナー、イレク・ムハメドフだった。

「ミラー・ウォーカーズ」吉田都、イレク・ムハメドフ

「私は(中略)とりわけトウシューズで踊ることが好きでした。『最後もやはりトウシューズで』と英国ロイヤル・バレエ団時代からの大切なパートナーであるイレク・ムハメドフと話し合い、ライトの若い頃の作品『ミラー・ウォーカーズ』のしっとりとしたパ・ド・ドゥを、4つ目の演目に選びました」(公演プログラムより)

都さんは、真珠のように白いドレスを着ていた。
ムハメドフが優しく、丁寧にリフトをするたびに、トウシューズを履いた足の美しいアーチが際立つ。

最後の1曲を踊る都さんは、とても優しく、穏やかで、振付の一つひとつをじっくりと味わっているように見えた。
曲想とともに、表情が移り変わっていく。

そしてバレリーナ吉田都は、ほっそりとした脚をゆっくりと前に伸ばした叙情的なポーズを舞台上に残し、ステージを去った。

「ミラー・ウォーカーズ」吉田都、イレク・ムハメドフ

***

最後の幕が、下りてしまった。

満場のスタンディングオベーション。
拍手は鳴り止みそうな気配すらなく、長い、長い、長いカーテンコールが続いた。

都さんはずっと華やかな笑顔のままで、泣いていた。
そして最後は「バイバイ!」と、私たちに大きく手を振った。

とても正直な気持ちを言えば、やっぱり淋しい。
でも、公演としてのプログラム構成も、出演者たちの気迫すら感じる演技も、すべてが素晴らしかった。

吉田都というバレリーナは、私たちに、“日本人にはこういうバレエの極め方がある”ということを教えてくれた人だと思う。
例えばロシア人のような体型とは違うかもしれないけれど、すみずみまで精確に、緻密に基礎を積み重ねていくことが、こんなにも美しい踊りと、唯一無二の感動を生み出せるのだということ。

都さんが観せ続けてくれた踊りを、私たちは絶対に忘れない。

 

衣裳展示
劇場ホワイエには、都さんがこれまでに着て踊った衣裳の一部やトウシューズなどを展示。間近で見たり写真を撮ったりしたいファンたちが長蛇の列を作っていた。

いちばん左は「タランテラ」の衣裳。その他の2点は黒鳥

手前から、「眠れる森の美女」第1幕、第2幕、第3幕のオーロラの衣裳

いちばん手前は「真夏の夜の夢」タイターニア、その隣は「ロミオとジュリエット」ジュリエット

 

放送予定

この公演のもようは下記のスケジュールで放送されることが決まっている。

プレミアムシアター「吉田都引退公演 Last Dance」

BS4K:2019年10月7日(月)午後8時〜/10月14日(月)午前10時〜(再放送)
BSプレミアム:日時未定

※放送日時・内容などは変更になる場合があるとのこと。
詳細は必ずNHKの公式情報をご確認ください。

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