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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第56回〉オペラ座のダンサーたちはどこに住んでいた?

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

世界を代表する大都市であるパリ。その面積自体は、実は東京の山手線の内側の約1.5倍(もっと近いところでは猪苗代湖とほぼ同じ広さ)だというのをご存知でしょうか。現在のパリ市の領域は、19世紀を通して市域が拡大していく中で定まりましたが、中心エリアはとてもコンパクトでした。その中に沢山の人がひしめく、人工過密な街が19世紀のパリでした。

当時のオペラ座の本拠地である、ル・ペルティエ通りの劇場は、中心エリアの一大繁華街に位置しています。レストランやカフェ、他の劇場が立ち並び、道幅は大きく、常に人が行き来する騒がしさは、現代の都市中心部の様子とさほど変わりなかったでしょう。いっぽうで、こうした地域は家賃が高かったり部屋が狭かったり、音がうるさいなど、住むには向いていません。

では、19世紀末のパリ・オペラ座バレエ、そしてその付属バレエ学校に通う生徒たちは、どのような地域で暮らしていたのでしょうか? この連載でも、ロマンティック・バレエのスターダンサーとなったカルロッタ・グリジが、劇場の近くに住んでいたことをご紹介しましたが(本連載の第24回を参照)、他のダンサーたちも同様だったのでしょうか? 当時の多くのダンサーたち、特に群舞メンバーや学校の生徒たちについては、これまでの研究においても、当時のパリ市の中でも最も貧しい地域に住んでいることが多いと指摘されています。今回は、特にバレエ学校所属の生徒たちが住んでいたパリ市内の地域について、フランス国立公文書館所蔵の資料をもとにご紹介します。

史料について

今回取り上げるのは、フランス国立公文書館の「AJ/13/479」というナンバリングがされている文書箱に保管されている3点の史料、「1860年4月の女子初級クラス」、「ご祝儀付きの女性ダンサー(第3カドリーユ)」(この場合の「ご祝儀」とは、出演に応じて支払われる報酬を指す)、そして「男子生徒」の名簿です。1860年という特定の年に限られてはいるものの、この名簿には生徒やダンサーの氏名、生年月日、そして「父母あるいは保護者の住所」などが記載されており、おおかたのバレエ史では「その他大勢」として括られてしまいがちな、群舞のダンサーやプロ予備軍のジュニア世代ダンサーを、個人として知るための、貴重な情報を提供してくれます。これら3つの名簿(計77名分)に記載された住所を分析すると、興味深い傾向が見えてきます。

初級クラス(Classe élémentaire)の女子生徒の住所リスト

傾向その1:近親者とともに劇場徒歩圏内に住む

まず、記載されている住所は「父母宅」や「伯母宅」などが多く、生徒たちは基本的には親族と同居していたことがわかります。バレエ学校の入学審査の際には、パリ市の市民権を証明する書類の提出が必要でした(本連載の第27回参照)。したがって、史料の名簿にあるのは、入学審査の際に生徒たちが住民登録された住所であると考えられます。ただし、これらの中には地方都市出身で、バレエ学校への入学に際して、パリ市に住む近親者や保護者となる人物を頼って上京したダンサーも含まれた可能性もあります。

そして、当時の生徒たちは、おそらくこの住所を自宅として、オペラ座での仕事や練習に通っていたと考えられます。というのも、名簿に記載された住所のいずれもが、圧倒的にパリの右岸、特に劇場からそれほど離れていないエリアに位置するためです。これらの住所を、1860年当時の地図と照らし合わせると、多くの生徒やダンサーはオペラ座より北あるいは東に居住しており、劇場まではおよそ徒歩30分圏内の地域に住んでいたことがわかります。セーヌ川を超えたパリ左岸の通りを登録住所とする者はほぼ皆無です。東京の位置関係でこの距離感をイメージすると、皇居をルーヴル美術館とした場合、オペラ座があるのは御茶ノ水や神田、水道橋のあたりで、生徒たちが住んでいたのは上野や日暮里、「谷根千」のエリア、といった感じです。

セーヌ川の北側である右岸において、19世紀当時のル・ペルティエ通りの劇場周辺は、事業主や労働者が多く居住するエリアでした。生徒たちの中には、現在のパリ2区にあるルーヴォワ広場サン=タンヌ通りのように、劇場まで徒歩10〜15分という至近距離に住む者もいました。一方で、現在のバスティーユ広場のほうにあるフォーブール・サン=タントワーヌ通りのように、大人の足でも徒歩50分ほどかかる遠方に住むケースも。そうした距離の地域に住む生徒は、当時のタクシーである乗合馬車などを利用して、レッスン場に来ていた可能性もあります。劇場は徒歩でも通えるけれど、毎日だとちょっと大変、という距離感の場所が、労働者としてのダンサーたちの居住区域だったのですね。

傾向その2:特定の通りにダンサーがいっぱい

また、もう一つの特徴として、特定の通りや地域に生徒たちが集中して住んでいることが挙げられます。名簿を見てみると、登録住所が判明した77名のうち、2名以上の生徒やダンサーが、同じ通りに住んでいる例を、複数見つけることが出来るのです。6名もの生徒やダンサーが住んでいたショッセ・クリニャンクール通りをはじめとして、フォーブール・サン=ドニ通り、フォーブール・ポワソニエール通りといった通りにも、複数の居住者が確認できます。

ショッセ・クリニャンクール通りがあるクリニャンクール地区や、ポワソニエール通りなどがあるモンマルトル地区は、1860年に行われたパリ市の市域拡大によって市内に組み入れられた地域です。この時期、当時のセーヌ県知事であるオスマンは、ナポレオン3世の命を受け、パリ市の大改造を行いました。中世以来のゴミゴミした中心部は、建物をバンバン取っ払われ、道路の位置や区域を大幅に変更されたのです。この一大公共工事は、今に至るパリの景観を決定づけるのですが、その際、元々はパリの中心地に住んでいた労働者階級は立ち退きを迫られました。彼らの移転先となったのが、クリニャンクールやモンマルトルといった、パリの北側で新しく市区域内に編入されたエリアです。今日ではパリの最も北側である 18 区に位置するクリニャンクールは、元々は市の境界だった「徴税請負人の壁」の外に位置する城外区でした。また、モンマルトルも、1860年の市域拡大によってその一部がパリ市域に組み込まれた地域です。

19世紀のオペラ座バレエやバレエ学校に通う生徒たちは、その大半が下層階級の出身です。家が狭苦しく立ち並び、細く入り組んだ狭い道の中心部に暮らすダンサーやその家族もまた、都市改造の波に押されて、こうした地域へ移り住んだのかもしれません。

華やかな舞台の裏側で、過酷なスケジュールをこなしながら、劇場の周辺や新興の労働者街から通っていた若いダンサーたち。地下鉄やバス、トラムといった交通手段が発達した現在のパリとは違い、19 世紀のパリでは、移動手段の基本は徒歩。必然的に、生徒やダンサーたちは、その活動の中心地であるル・ペルティエ通りのオペラ座や、リシェ通りにあったバレエ学校校舎の近辺に住んでいる場合が多かったと考えられます。つまり、当時のバレエ学校の生徒やダンサーたちは、職住接近の暮らしをしていたのですね。彼ら彼女らが歩いたパリの街並みを想像すると、19世紀のバレエの歴史がより身近に見えてくるのではないでしょうか。

参考資料

AN: AJ/13/479. Jeunes éléves de la Classe élémentaire au mois d’Avril 1860, Jeunes Demoiselles des Feux (3e quadrille), Jeunes Garçons 1860. AN: AJ/13/479 Règlement pour le service du corps des ballets et du conservatoire de danse de l’Opéra, 1860.

AN: AJ/13/1886. Arrêt du conseil d’état du Roi contenant Règlement pour l’Académie Royale de Musique. 1784.

F-Pn : IFN-53085514. Plan de Paris en 1860 divisé en 20 arrondissements [Document cartographique] / gravé… par J.-N. Henriot. https://gallica.bnf. fr/ark:/12148/btv1b53085514h

Delattre, Emmanuelle. 2013. « L’École de Danse (Ancien régime, révolution, empire) » dans Auclair, Mathias et Ghristi, Christophe (dir.) 2013. Le Ballet de l’Opéra, Trois siècles de suprématie depuis Louis XIV. Paris, Albin Michel, p.95–99.

Jacq-Mioche, Sylvie. 2013. « L’École de Danse (Ancien régime, révolution, empire) » dans Auclair, Mathias et Ghristi, Christophe (dir.) 2013. Le Ballet de l’Opéra, Trois siècles de suprématie depuis Louis XIV. Paris, Albin Michel, p.35–37.

永井玉藻、「1860年のパリ・オペラ座バレエ学校の生徒の居住地の傾向―19世紀後半のパリにおける都市空間と子どもに関する一考察―」『哲學』第153集、三田哲學會、2024年3月、pp.101〜120。

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1984年生まれ。パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。専門は西洋音楽史、舞踊史。現在、音楽と舞踊動作の関係をテーマとした研究を行うほか、慶應義塾大学、白百合女子大学他で非常勤講師を勤めている。

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