
ダンスユニット・シャリマー「オズの魔法使い」第1部〈バレエコンサート〉より「眠れる森の美女」第3幕のグラン・パ・ド・ドゥ(甲斐みち穂、陶山湘(東京バレエ団)) ©Hidemi Seto
バレエを習う人なら誰もが知る衣裳レンタル会社、アトリエヨシノ。神奈川県相模原市、相模湖の湖畔に本社を構え、10万着以上の衣裳を取り揃えて、全国の教室やバレエ団の舞台を支えています。
近年は衣裳レンタル事業だけでなく、ダンサーの自立支援や、新たな観客を育てるためのプロジェクトなど、舞台芸術の発展のための活動も次々と実施しています。
2024年10月には〈地域子供舞台芸術普及啓発公演〉として新作バレエ『オズの魔法使い』(振付・演出:三浦太紀)を上演し、相模原市在住の親子250名を無料招待。2025年2月には上野水香と厚地康雄の主演でウラジーミル・マラーホフ版『白鳥の湖』を上演して、話題を呼びました。
1997年の創業以来、衣裳を通じて日本のバレエ界を見つめてきた同社の代表取締役副社長、吉野絢子(よしの・じゅんこ)さんにお話を聞きました。

相模湖のほとりに建つ株式会社アトリエヨシノの本社。フレームに収まりきれないほど大きな社屋の中には、広くて天井の高いバレエスタジオも。現在放送中のテレビドラマ「バレエ男子!」の撮影もここで行われました ©Ballet Channel
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拠点の相模湖エリアを「バレエのまち」に
- アトリエヨシノは2024年10月、〈地域子供舞台芸術普及啓発公演〉としてダンスユニット・シャリマーの新作バレエ『オズの魔法使い』(振付・演出:三浦太紀)を上演。世界中で親しまれている児童文学作品をコンパクトな1幕物にまとめた楽しいバレエで、本番当日の劇場は、小さな子どもたちから大人までたくさんの観客で大賑わいでした。まず、この〈地域子供舞台芸術普及啓発公演〉とはどのような取り組みですか?
- 吉野 私たちは2022年から〈Ballet for Peace〉というプロジェクトを続けています。コロナ禍や戦争など社会情勢の悪化で活動中断を余儀なくされた、たくさんのバレエダンサーや生徒のみなさんを支援するためのチャリティ公演を主催したのが始まりで、徐々に「ダンサーの自立を助けたい」「子どもたちの身近なところに本物の芸術を」等々、いろいろな課題意識をもちながらプロジェクトを展開してきました。そこから派生して、地元・相模原の行政と一緒になって動き始めたのが、この〈地域子供舞台芸術普及啓発公演〉という取り組みです。地域のみなさんを無料で招待し、チケット料金もできる限り安く設定して、気軽に本格的なバレエを楽しんでもらうことを目的にしています。
- 実施してみて、手応えを感じていますか?
- 吉野 「自分の身近にあるお話がバレエになっていてすごく楽しい」「踊りで物語や感情を表現するのがおもしろかった」「とても良かった、バレエのファンになった」「こんなに近くで芸術が観られて嬉しい」「また観たい!」等の声を本当にたくさんいただきました。私たちなりのかたちで、バレエの入り口をひとつ作れたのではないかと感じています。

「オズの魔法使い」に登場する、勇気のない(おくびょうな)ライオン(横山茉美)が幕開きから大活躍。作品やダンサーをわかりやすく紹介するなど、公演を楽しくナビゲートしていました ©Hidemi Seto

ダンスユニット・シャリマー「オズの魔法使い」写真中央から時計回りに:山田琴音(少女ドロシー)、横山茉美(勇気のない(おくびょうな)ライオン)、星なつみ(心臓(心)のないブリキの木こり)、山本達史(脳みそのないかかし)、酒井友美(愛犬トト)©Hidemi Seto
- 同公演の観客の中で、「バレエを初めて観た」という人はどのくらいいたのでしょうか?
- 吉野 『オズの魔法使い』は昼夜2回公演を行って、両回ともアンケートを配布、回収できた回答数は合計115件でした。そのうち「はじめてバレエを観た」という人は全体の12%。前年9月にダンスユニット・シャリマーの誕生公演として『ピーターパン』を上演したのですが、そこからリピーターになってくださったお客様が今回はかなり多かったという印象をもっています。
- 新たな観客の開拓はバレエ業界の悲願で、「地域の子どもたちを無料招待する」というのもその施策のひとつかと思いますが、バレエを知らない人に劇場に来てもらうため、他にはどんな工夫をしていますか?
- 吉野 県下の小学校や児童館などに広くチラシやポスターを配布して周知に協力していただく、等のことはかなり注力しています。そして私たちがぜひ公演を観ていただきたいと思っているのが、神奈川県や相模原市などの行政の方々なんです。私たちがどれだけ頑張ったとしても、行政のみなさんが実際にバレエを観て、その素晴らしさを認識してくださらないと、公立の学校や施設などの要所には情報が届かないのが現実です。幸いなことに、黒岩祐治神奈川県知事はもともとバレエがとてもお好きですし、『オズの魔法使い』の際は本村賢太郎相模原市長が観に来てくださいました。たくさんの子どもたちにバレエを観てもらいたいというのが第一ですけれど、そのためにも、バレエに触れる機会がないまま大人になってしまった方々にもぜひ観ていただきたいと思っています。

「オズの魔法使い」には子どもたちも多数出演。マンチキンの人びとを元気いっぱいに演じていました ©Hidemi Seto
- そうした考えの根底には、「子どもたちが舞台芸術に触れる機会が減っている」等、何か具体的な実感があるということでしょうか?
- 吉野 「日本のバレエ業界はどんどんシュリンク(縮小)してきている」という話をよく聞きますけれど、衣裳レンタルの事業を通して日本全国のお教室やバレエ団のみなさまと日々やりとりしている肌感覚からすると、私はあまりそういうふうには感じていないんです。むしろバレエは以前よりも確実に広がってきているし、まだまだ伸びしろもある。弊社の売上が伸びていることも、バレエのポテンシャルを示す証左のひとつではないでしょうか。
だからこそ私たちも、バレエの業界をもっと広げていくことや、まだバレエに出会っていない人たちにこの素晴らしい芸術を知っていただく機会を創出したい、と思っているんですね。とくに弊社は衣裳が専門ですから、小さな子どもたちが「バレエの衣裳ってすてきだな」「あのきれいなチュチュを着てみたいな」と興味をもつところからバレエの世界へ足を踏み出してくれたら、こんなに嬉しいことはありません。
- 『オズの魔法使い』の際にも劇場ロビーにたくさんのバレエ衣裳が置かれていて、「ぜひ近くで見て、触って、いろいろな発見をお楽しみください」という言葉が添えられていました。公演の前後や幕間にたくさんの子どもたちが集まってきて、触ってみたり身体に当ててみたりする様子を見て、まさに衣裳が楽しい「バレエの入り口」になっていると感じました。
- 吉野 ありがとうございます。先ほど〈地域子供舞台芸術普及啓発公演〉は行政と一緒に取り組んでいるとお伝えしましたけれど、現在は神奈川県や相模原市と連携して、弊社の所在地でもある相模湖地域を「バレエのまち」にしていこうという地域活動も始まっています。大きな目標のひとつは、相模湖の湖畔に、バレエの野外劇場を建設すること。まだ具体的な青写真を描けているわけではありませんが、「ここを芸術の町にしたい、『バレエのまち』にしたい」というのは、弊社の代表(創業者である吉野勝恵代表取締役社長)がもう10年以上前から言い続けてきたことなんです。ようやく実現に向けて動き始めたとはいえ、バレエはまだまだ広く認知されていく必要がある。ですからまずは私たちの手が確実に届く相模湖地域・相模原市のみなさんに、バレエに気軽に触れていただける公演やイベントなどをどんどん企画していきたいと思っています。例えば今年の10月18日・19日には、行政や地域と連携を図り、「さがみ湖 野外バレエフェスティバル2025」を開催することが決まっています。

「オズの魔法使い」の劇場ロビーに置かれていたアトリエヨシノの衣裳 ©Ballet Channel

幕間にはたくさんの子どもたちが集まって、じっくり見たり触ったり写真を撮ったりと大賑わいでした ©Ballet Channel
- まずは現実的に訴求できる半径内から始めて、その円を少しずつ大きくしていくというやり方で、着実に目標に向かっていくということですね。
- 吉野 例えば、弊社には十万着以上の衣裳を保管している倉庫があります。そこに、小学校、中学校、高校、専門学校などの社会見学を広く受け入れたり、相模原市版の「小学生のためのお仕事ノート」や「中学生のためのお仕事ブック」に掲載していただいたりもしているんですよ。他にもバレエを広めていく方法はないか? 業界をどう盛り上げていくか? と、いつも考えています。
- さらにアトリエヨシノは、数年前から社員として「所属ダンサー」も雇用していますね。
- 吉野 はい、一昨年から募集・採用を始めました。所属ダンサーと言っても、私たちが募集しているのは「踊ることだけで生計を立てたい」という人たちではなくて、「舞台裏に関わる仕事をしながら、ダンサーとしても踊りたい」と考えている、いわばパラレルキャリアを志望する人たちです。
- なぜ、そうした人材を採用することにしたのですか?
- 吉野 衣裳レンタルで繋がりのあるお教室の先生方の多くが、生徒さんたちの将来を心配していることに気づいたからです。プロのダンサーになれる人、踊ることを中心とした仕事に就ける人は、本当に一握りです。それでもバレエが大好きで、一生懸命レッスンを続けてきた人たちの希望が少しでも叶う道を作れないか……そんな思いから、アトリエヨシノの社員として衣裳等の裏方仕事をしながらダンサー活動もできる、という採用枠を設けることにしました。そして実際に募集を始めてみると、やはりダンサーとしての将来性を見据えて志望する人や、「ダンサーになることは諦めようと思っていたけれど、バレエの業界で働きたくて」と言って応募してくる人が少なくないんですね。“バレエを仕事にする”ということの選択肢のひとつとして、今後も採用を続けていけたらと思っています。

同じくロビーに展示されていた「オズの魔法使い」の衣裳 ©Ballet Channel
企業として絶対にやること・やらないこと
- アトリエヨシノが、企業として絶対的に大切にしていることはありますか?
- 吉野 弊社には、ずっと昔から「ヨシノ流」と呼んでいる企業文化があります。それは、「自分たちの利益よりもお客様の利益になることをまずやろう」という奉仕の精神。もちろん私企業ですから、利益を出したり資本を用意したりすることも重要です。でもアトリエヨシノという会社の一番の根っこは、お客様に衣裳を使っていただくことや、舞台を観ていただくことです。そのためには無償でも動きますし、マイナスからのスタートであってもいい。企業努力を積み重ねて、お客様に喜んでいただいた先で、最終的にゼロになっていれば大丈夫。そのくらいの気持ちで、バレエ界に貢献していきたいと思っています。
- 逆に、企業として絶対にこれはやらないと決めていることはありますか?
- 吉野 「絶対に潰れないこと」。これは、コロナ禍を経て思ったことです。アトリエヨシノには、何千ものお客様がいらっしゃいます。もしも私たちが何か努力を怠ったり、コロナ禍等の事情で資金繰りがうまくいかなくなったりして、ここにある10万着のレンタル衣裳が使えなくなってしまったら、誰よりも困るのはお客様なんです。だからどんなことがあっても、アトリエヨシノを潰してはいけない。従業員を路頭に迷わせるわけにもいきませんが、それ以上に、お客様を困らせたくないというのが一番です。
もうひとつは、先ほどの話と重なりますが、「お客様の利益に反することは絶対にしない」。この業界ではたくさんの団体様がそれぞれのやり方で努力していらっしゃいますけれど、中にはあまりにも商売主義ではないかと感じるものもあります。そうした事業には、深くは関与しないようにしています。逆に言えば、それが間違いなくバレエ業界に貢献したり、良いインパクトを与えたりするものならば、私たちはいくらでもご協力しますし、投資も惜しみません。
- 長年にわたり衣裳レンタルの事業を続けてきて、バレエ界の変化を感じることはありますか?
- 吉野 最大の変化は、バレエを習う大人の方がすごく増えたことでしょうか。大人向けのお教室が増えた、大人向けのコンクールができた、といったことだけでなく、親子3代、4代でバレエレッスンを楽しんでいらっしゃるご家庭がどんどん増えているんです。先ほど「この業界がシュリンクしてきているとは思わない」と言ったのは、こういう状況を実感しているからでもあります。たくさんの大人の方々が、美のため、健康のため、あるいは夢を叶えるために、バレエを選んでいる。時々、素敵なマダムから「今度の舞台で、ピンク色のキラキラのチュチュを着たいの」とご注文をいただいたりすると、本当に嬉しい気持ちになります。
- 日々一生懸命働いて生きてきた大人のみなさんが、そうやって自らの手で夢を叶えるのは、素敵なことですよね。
- 吉野 本当にそう思います。少女の頃からの夢をようやく叶える方、少女の頃の気持ちをいつまでも忘れない方……みなさんが嬉しそうにチュチュを着てくださる時、「衣裳屋冥利に尽きるな」としみじみ思うんですよ。もちろん地球に住んでいる以上は重力に抗えない部分もありますから、そうした大人の身体をより美しく見せる衣裳も開発しています。

2024年度アトリエヨシノ専属大人リーナモデル 中嶋由紀 ©Koujiro Yoshikawa
- これから先の、さらに大きな目標や夢があれば聞かせてください。
- 吉野 「バレエのまち 相模湖」構想のさらに先のこととして――遠い未来になるかもしれませんが、世界各国の若いダンサーたちが日本にバレエ留学に来るような施設を作りたい、というのが大きな夢のひとつです。時代が変わりつつあるとはいえ、まだまだ、どんなに努力をしても身長や体型など身体的な理由でバレエの世界から弾かれてしまう人たちがたくさんいます。そうした価値基準ではなく、日本人だからこそ生み出せる技術力や繊細な表現を基盤にしたダンススタイル、いわば「ジャパニーズ・バレエ」「ジャパニーズ・メソッド」がそろそろ確立されてもいいくらい、日本はもう充分に“バレエ大国”だと思うんですね。そんな日本ならではのバレエをしっかり学べる施設を作れたら。私たちはこれからもダンサーたちの自立につながる企画や事業を模索していきますので、ダンサーのみなさん自身にも、「自分がこの先の芸術を作り、残していくんだ」という誇りと気概をもって取り組んでいただけたらいいなと思っています。
公演情報

行政と地域が連携して開催されるイベント

「地域子供舞台芸術普及啓発公演」の第3弾として、今年はオペレッタを開催
【詳細・問合せ】
アトリエヨシノ「Ballet for Peace」公演WEBサイト