ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。
“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく連載エッセイ。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、読者のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。
更新は隔月(基本的に偶数月)です。美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。
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ウィーンで『椿姫』が初演されました
2024年3月24日、ウィーン国立歌劇場に、ジョン・ノイマイヤーの『椿姫』が晴れてレパートリー入りしました。シュツットガルト・バレエ、ハンブルク・バレエ、ボリショイ・バレエ、パリ・オペラ座バレエ、バイエルン国立バレエ、ミラノ・スカラ座バレエ、ポーランド国立バレエ等々、世界中で愛されている傑作。私の大好きな作品をウィーンにお迎えすることの喜びをかみしめています。
『椿姫』が初演された前年の1977年、ノイマイヤー氏はウィーン国立歌劇場で『ヨーゼフの伝説』を世界初演しています。以来、ウィーンではノイマイヤー作品を多く上演してきましたが(私が弾いたのは『ヨーゼフの伝説』『アルミードの館』『春の祭典』『バッハ組曲』)、『ヨーゼフの伝説』初演から47年が経ち、満を持して、氏はウィーンに彼の美しい宝石を授けてくださいました。
初演はライブストリーミングされ、世界中に配信されました。
初演後の舞台にて。ノイマイヤー氏を囲んで。
ウィーン国立バレエ次期芸術監督のアレッサンドラ・フェリさんもいらっしゃいました。彼女はミラノ・スカラ座での引退公演でこの作品を踊られました。
ピアニストから見た『椿姫』の魅力
一晩かけても語り尽くせないほどの作品ですが、音楽面の魅力をピアニスト目線で書いてみたいと思います。なんといってもショパンの音楽と、ストーリーを音楽で語る力、ドラマトゥルギーが圧倒的で、数多あるバレエ作品の中でも音楽との一体感が傑出していると感じます。たとえば、第1幕はショパンのピアノ協奏曲2番全楽章がそのまま使われているのですが、あたかもショパンがノイマイヤーと細かくプロットを練り、話し合いながら、このバレエに楽曲を書き下ろしたかのように、音楽がぴたりと寄り添うのです。本来はストーリーを持たない音楽なのに、このようなことが起こるなんて、まるで魔法のよう。でもそれがバレエの面白いところだなと思います。この音楽をよく知っている人も「ピアノ協奏曲2番を聴いている」気持ちにはならず、ただ物語に引き込まれるのではないでしょうか。
1楽章では、様々な人間関係が見え隠れするパリのサロン文化の華やぎが。劇中劇のマノンとデ・グリューの登場シーンにはピアノソロ冒頭部が印象的に使われます。2楽章では病に冒された体を憂うマルグリットが、アルマンとの対話によってしだいに心動かされてゆくさまが繊細な音楽で語られます。3楽章で描かれるのは、きらびやかな舞踏会で享楽的な生活に身を任せるマルグリットと社交界の人々の様子。3楽章は3つの主題によって音楽が構成されているのですが、それぞれ違うシーンになっているのも見事で、田舎の別荘地に向かう、浮き立つような軽やかな旋律にのせて、あっという間に第1幕の幕が下ります。
第2幕では、シンプルで繊細なピアノソロ曲によって、より近しく深く、マルグリットの心に迫っていきます。時に音楽は言葉より雄弁ですが、ピアノ独奏とはなんと個人的な世界だろうと思います。この第2幕は稽古で弾いていていつも胸に迫ってくるものがありました。
白のパ・ド・ドゥ。エレナ・ボッタロとダヴィデ・ダト。
ショパンが生きた19世紀前半のパリ。同じ場所、同じ時代に原作者のアレクサンドル・デュマが自らの実体験にもとづいて「椿姫」を書き、椿姫のモデルとなったマリー・デュプレシもそこに生きていました。ショパンの恋人であったジョルジュ・サンドもこの小説を興味深く読み、手紙に感想をしたためていたそうです。全編を通して演奏される作品のテーマとも言えるピアノソナタ第3番が作曲されたのは1844年、マルグリットが亡くなったのは1847年、ショパンが亡くなったのは1849年。また、時を同じくしてロマンティック・バレエがパリで開花し、発展していきました(ジゼル初演は1841年)。当時のパリで起こっていた出来事が時を超えて、点がひとつの線になって繋がり、昇華された芸術として、ジョン・ノイマイヤー氏のもとに降りてきた……。
ノイマイヤー氏は、間違いなく後世に名を残すレジェンダリーな振付家ですが、詩人であり、デザイナーであり、思想家であり、哲学者でもあるのだと思います。この作品では、現在と過去、そして、現実とフィクション(または幻想)が絶え間なく交錯する様も見事ですよね。
ちなみにマルグリットのお衣裳は11着。初演からモデルチェンジせずに受け継がれているデザイン。マルグリットの衣裳だけで数百万円するそうです。
舞台の幕が上がるまで
じつは今回、出演が予定されていたゲストピアニストが手を痛めてしまい、初演を誰が弾くか分からないという事態に陥っていました。明日どういう状況になるのか分からないなか、初演発表マチネ(初演を迎える1週間ほど前に、振付家のトークショーや公開リハーサルを行って作品を紹介する催し)やピアノによる舞台稽古で、ソリストのシーンはすべて私が弾くことになりました。公演にジャンプインする可能性があるとも言われていましたが、急遽、ハンブルク・バレエの公演で弾いているミヒャル・ビアルクさんが演奏することになりました。彼は突然のオファーにも関わらず、素晴らしい演奏でウィーン初演を彩ってくださいました。じつは昔、彼が直前にキャンセルしたピアノ協奏曲に私がジャンプインした経験があり、その時以来の再会でした。ご縁とはおもしろいものですね。
舞台稽古では、黒のパ・ド・ドゥを3キャスト分連続で弾いたり(バラード1番を全力で3回はなかなかです)、何度もやり直したり、なかなかハードでしたが、この作品とノイマイヤー氏とケヴィン・ヘイゲン氏との時間に全身全霊で集中したいと思っていました。この時間が永遠に続かないことに悲しみを覚えるほどに、大切な大切な時間でした。
ノイマイヤーさんから学んだこと
ウィーンの主役キャストは全3組。まったくタイプの違うマルグリット役が3人、それがウィーン版の面白さかもしれません。初演を踊ったケテヴァンの、女優ダンサーとして、そして人としての深みと説得力。バレエ団の看板プリンシパルであるオルガ・エシナの高貴でノーブルな美しさ。そして、原作の20歳のマルグリットを彷彿させる20代半ばのエレナ・ボッタロは、可憐な花が散りゆくような、若さゆえの哀しい生き様。皆、それぞれのマルグリットを舞台上で魅せてくれました。「踊らないでください。ただ、マルグリットとしてそこに生きていてほしい」ーーノイマイヤー氏の言葉が忘れられません。
初演前日のゲネプロを終え、彼はすべてのダンサーの前でこう語りました。
「あなたは過去をどう生きてきて、今なぜここにいて、何を言いたいのか、どうしてこの動きをするのか、全員がよく掘り下げて考えてください。主体性を持ち、心の底から感じてください。成長してください。自らをコントロールしてください」
ソリスト組もそうですが、群舞もこの作品を通して、数ヵ月でバレエ団がみるみる成長したのを奇跡のような思いで見ていました。これが一人の一流アーティスト、リーダーの力なのだと。かつて、ルグリ時代にも同じことを感じていました。
お別れの前日、『椿姫』の楽譜にサインしていただきました。宝物にします。
ノイマイヤー氏は、新たなバレエ団でこの作品を上演するごとに少しずつ手を加えているのだそうです。ウィーン版ではマノンの3人の従者たちの振付が新しいものになっています。公演プログラムに彼の言葉が記されています。
「生きている限り、私は自分の作品を批判的に見ます。年齢を重ねるにつれ、記憶から学び、45年間言いたかったことをより明確に表現できるようにならなくてはいけません」
そして、初演公演後のパーティーでのスピーチで力強く語ってくれたメッセージはこちら。
「成長してください。その先の未来を、私はとてもとても楽しみにしています」
光のような存在、ノイマイヤーさんの言葉の重さを受け止め、希望を持って自ら成長を課して生きていきたいと思います。
お知らせ
2022年にリリースしたバレエレッスンCD「Dear Chopin ミュージック・フォー・バレエ・クラス」のオンライン配信が始まりました。最高に美しいショパンのピアノ曲を集めたロマンティックな一枚で、『椿姫』からも10曲も選曲しています! こちらからダウンロードできますので、レッスンのお供に、またBGMに、聴いていただけると嬉しいです。
今月の1曲
『椿姫』より、第2幕の白のパ・ド・ドゥを弾きます。ショパンのピアノソナタ 作品58 より第3楽章。『椿姫』全編を通して何度も繰り返し演奏されるこのメロディーは、作品のテーマ曲と言えるでしょう。マルグリットがそれまで所属していた社会を捨て、アルマンとの愛に生きることに決めた、幸せよりも深い愛のパ・ド・ドゥ。そこには二人しかいない、静かで真っ白な世界。バレエ史上に残る名シーンだと思います。今日は抜粋でお聴きください。
★次回更新は2024年6月20日(木)の予定です
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Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き
滝澤志野による、珠玉の作品を1枚に収めたピアノソロアルバム。
<収録曲>
1.『眠れる森の美女』第3幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
2.『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』よりアダージオ(チャイコフスキー)
3.『ジュエルズ』ダイヤモンドよりアンダンテ/交響曲第3番第3楽章(チャイコフスキー)
4.『瀕死の白鳥』/「動物の謝肉祭」第13番「白鳥」(サン=サーンス)
5.『マノン』第3幕 沼地のパ・ド・ドゥ/宗教劇「聖母」より(マスネ)
6.『椿姫』第2幕/前奏曲第15番「雨だれ」変ニ長調(ショパン)
7.『椿姫』第3幕 黒のパ・ド・ドゥ/バラード第1番 ト短調(ショパン)
8.『ロミオとジュリエット』第1幕 バルコニーのパ・ド・ドゥ(プロコフィエフ)
9.『くるみ割り人形』第1幕 情景「松林の踊り」(チャイコフスキー)
10.『くるみ割り人形』第2幕 葦笛の踊り(チャイコフスキー)
11.『くるみ割り人形』第2幕 花のワルツ(チャイコフスキー)
12.『くるみ割り人形』第2幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
●演奏:滝澤志野
●発売元:株式会社 新書館
●販売価格:3,300円(税込)
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Dear Chopin(ディア・ショパン)〜Music for Ballet Class
滝澤志野さんの5枚目となる新譜レッスンCDがリリースされました!
志野さんがこよなく愛する「ピアノの詩人」ショパンのピアノ曲で全曲を綴った一枚。
誰もがよく知るショパンの名曲や、『レ・シルフィード』『椿姫』などバレエ作品に用いられている曲等々を、すべて志野さんの選曲により収録しています。
それぞれのエクササイズに適したテンポ感や曲の長さ、正しい動きを引き出すアレンジなど、レッスンでの使いやすさを徹底重視しながら、原曲の美しさを決して損なわない繊細な演奏。
滝澤志野さんのピアノで踊る格別な心地よさを、ぜひご体感ください。
♪ドキュメンタリー風のトレイラーや全収録曲リストなど、詳細はこちらのページでぜひご覧ください
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●CD、52曲、78分 ●価格:3,960円(税込)
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Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class
バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)
★収録曲など詳細はこちらをご覧ください
- ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野 Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
- バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
- ●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)
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現在発売されている滝澤志野さんのベストセラー・CDを配信版でもお買い求めいただけます。
下記の各リンクからどうぞ。
★作曲家シリーズ
♪Dear Tchaikovsky https://linkco.re/pEHd0G2A?lang=ja
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