第49回ハンブルク・バレエ週間「ニジンスキー・ガラ」カーテンコールより(2024年7月14日 ハンブルク歌劇場)©Kiran West
ハンブルク・バレエの芸術監督として1973年より同団を率い、2023/2024シーズンをもって退任したジョン・ノイマイヤー。その51年間を締めくくる〈第49回ハンブルク・バレエ週間〉(Hamburger Ballett-Tage)が、2024年6月30日〜7月14日、ハンブルク歌劇場で開催されました。
“ハンブルク・バレエのノイマイヤー”として振付けた最後の新作『エピローグ』世界初演で幕を開け、「第49回ニジンスキー・ガラ」で閉幕した今夏の〈ハンブルク・バレエ週間〉。
そのうちの最後の5日間(7月10日〜14日)・5演目を観るためにハンブルクへ飛んだ舞踊評論家の長野由紀さんによる特別寄稿を、全4回の短期集中連載でお届けします。
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「第49回ニジンスキー・ガラ」
2024年7月14日(日)、あっという間にその日がやってきた。“ノイマイヤーのハンブルク・バレエ”の本拠地最後の公演となる、「第49回ニジンスキー・ガラ」。思い返せば、ここ数日通い詰めたハンブルク州立歌劇場は、連日すでに独特の高揚感に包まれていた。
ハンブルク州立歌劇場 ©Ballet Channel
ゲスト・カンパニー公演の終わった後のバレエ・ウィーク最終盤はどの日も、客席が暗くなる直前に舞台エリアに通じるドアからノイマイヤーが姿を現すと、誰からともなく立ち上がり場内一斉のスタンディング・オベーションが起こる。それに応えて静かに1階最前列右端の“指定席”に着くまでが、一種のセレモニーのようだった。
それだけでも、かくも深く敬愛される巨匠の姿を脳裏に焼きつけるには充分だったのだが、この日はさらに特別な空気が場内を満たしていた。祝祭感と感謝、上演される演目それぞれへの観客の感慨が混じりあい、そこに一抹の寂しさが流れ込みながら、5時間半という長い公演が、今始まる。まさしく一つの時代の幕切れであり、そこに自分が居合わせていることに、眩暈のするような感動を覚えた。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「ヨンダーリング」©Kiran West
全体は、2回の休憩をはさんだ3部構成である(以下、上演はすべて抜粋)。第1部はいわば若さと生命力への賛美ともいうべき『ヨンダーリング』(付属バレエ学校の年少から年長までの生徒たちによる)『スプリング・アンド・フォール』に始まり、『プレリュードCV』『ベートーヴェン・プロジェクトII』と、比較的最近の作が並ぶ。また、2022年にロシアの侵攻を受けて難民となりドイツに移住したウクライナ人ダンサーたちの受け皿として結成されたハンブルク室内バレエが、同団の芸術監督でもあるエドウィン・レヴァツォフによる『アンバウンド』を上演。ノイマイヤー以外の振付作品としてはこの日唯一の演目で、『マタイ受難曲』にはじまり『ドナ・ノービス・パーチェム』へと至る一連の“宗教的”作品にも顕著な、ノイマイヤーの平和への確固たる想いがその選択にも現れているように感じた。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「ベートーヴェン・プロジェクトⅡ」©Kiran West
第1部で特に印象に残ったひとつが、8月の世界バレエフェスティバルでも披露された菅井円加とアレクサンドル・トルーシュによる『ハロー』(1996年)である。出演者二人の名前やタイトルから明るく屈託のない内容をつい想像してしまうが、それとは裏腹の、不条理劇のような世界。ひとりピアノの前に座る男と、壁の向こうに見え隠れし、やがてこちら側に姿を現す女。どこかプティの『若者と死』を思い起こさせるような二人の力関係と、ミステリアスさ、荒廃した雰囲気。そしてジョージ・クルボス(『オデュッセイア』の作曲家でもある)の音楽の合間に執拗に繰り返されるノックの音(まさに訪問を告げる「ハロー」である。後に付くのは「!」ではなく不穏な余韻だが……)に、目も心も吸い寄せられた。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「ハロー」菅井円加、アレクサンドル・トルーシュ ©Kiran West
第2部は『大地の歌』(2015)。スー・リン、アレクサンドル・トルーシュ、カレン・アザチャンが中心となる男女3人を踊り、今をときめく名歌手フロリアン・クラウス・フォークトがテノール独唱を受け持つという豪華な配役である。李白他の唐詩に拠るマーラーのこの曲を、ノイマイヤーは音楽とダンスとの永遠の関係にも等しい深淵な“謎”と感じたという。その謎を解き明かすために、詠まれた四季の移ろいや人生の儚さ、愛や友情や美について語る手法は、白い衣裳の女性とTシャツのジーンズの青年の踊る半ばリアルで半ば幻想的なパ・ド・ドゥであったり、アンサンブルを記号のように扱う抽象度の高い踊りであったりと全編を通して多彩だが、今回の上演ではわけても、坂になった草地に人々が集い、心地よい自然に抱かれるようにして楽しむ写実画のような場面が、人生と季節の巡らす永遠のサイクルの一瞬を輝かしく描き出していたのが印象に残った。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「大地の歌」スー・リン、アレクサンドル・トルーシュ ©Kiran West
ノイマイヤーはこれまでにマーラーの15曲に振付けているが、この振付家と作曲家との結びつきは、プティパとチャイコフスキー、バランシンとストラヴィンスキーのそれにも匹敵するものなのではないだろうか。もちろん、後の2組はそれぞれ同時代の芸術家として緊密なコラボレーションをおこなった(つまり、バレエのために新たに曲を書いてもらった)のに対し、ノイマイヤーはすでに完成され厳然としてそこにある楽曲に振付けたという違いはある。とはいえ、この『大地の歌』についても「マーラーとの長い対話から生まれた」と自身が語っているし、また、単に動きと音楽が合っているといったレベルを遥かに超えて、両者が緊密に対応し対照しあいながら、作品全体として一つの全き世界が作り上げられているという点で、歴史の中の巨匠たちと同じ域に達していると感じるのである。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「大地の歌」アレクサンドル・トルーシュ、カレン・アザチャン ©Kiran West
第3部は、かなり早い時期の作品や特別な機会のためのパ・ド・ドゥも含まれており、恥ずかしながら『イン・ザ・ブルー・ガーデン』(1994)や『兵士の歌(子供の魔法の角笛)』(1989)のように作品名を初めて目にするもの、チェーホフ原作の『かもめ』(2002)のように日本では観る機会がなかったものも少なからずあった。半世紀を超える創作活動の蓄積とは、追いかけるほうが息切れするほどの数であり、豊穣というべきか。『椿姫』や『ニジンスキー』、『夏の夜の夢』などの有名作品の名場面を並べて華やかに盛り上げるのとはまったく趣向の違う、けれどもじつに(最後は本人が登場するのも含めて)ノイマイヤーらしいと感じる構成であり、新鮮な感動にも事欠かない。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「兵士の歌(子供の魔法の角笛)」アンナ・ラウデール、エドウィン・レヴァツォフ ©Kiran West
“コロナの時代のバレエ”として、あらゆる困難に抗うようにして作られた美しい『ゴーストライト』(2020)からは、シューベルトのひそやかな「楽興の時」D780-6に乗せての、シルヴィア・アッツォーニとアレクサンドル・リアブコ、マティアス・オベルリンとアレッサンドロ・フローラの2つのパ・ド・ドゥ。人は確かに繋がり、いたわりあい、時に仲違いしてはまた寄り添って、同じ時代をともに生きていたのだ。遠く離れて配信の映像だけを観ていたのであっても、私たちは彼らと共にあったーー人気(ひとけ)のない劇場にぽつんと一つともり続ける灯りの暖かな光とともに、私たちはそのことを、命ある限り思い出すに違いない。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「ゴースト・ライト」シルヴィア・アッツォーニ、アレクサンドル・リアブコ ©Kiran West
さりげないようでいてノイマイヤーの関心のあらゆるジャンルをカバーするような選択だが、そもそもこのガラのタイトルにも象徴されているニジンスキーへの彼の愛着と探究心を凝縮したのが、『薔薇の精』(1989)である。といっても、踊られるのはフォーキン振付のあの同名の作品ではなく、描かれるのも時代の寵児としての彼ではない。いうなれば、ノイマイヤーその人の手になる『ニジンスキー』第2幕に描かれた、傷つき怯え、引きこもって縮こまる姿。アレイズ・マルティネスの不意に弾かれたような跳躍と膝を抱えて震えるさまの交錯。その背後に、匂い立つばかりに美しい薔薇の精としての彼(マティアス・オベリン)ーーおそらくは“過去の”彼ーーが現れる。妄想と現実。あるいは天才の栄光と悲惨。ドラマティックに盛り上げるのではなく淡々とした描写だが、それだけに目が吸い寄せられ、心に深く突き刺さる。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「薔薇の精」イダ・プレトリウス、アレイズ・マルティネス、マティアス・オベリン ©Kiran West
現在のカンパニーの団員たちの、作品の真髄を経験則としても知り抜いた上での名演に加え、厳選されたゲスト・バレリーナの存在感にもまた、目を見張るものがあった。
オランダ国立バレエのオリガ・スミルノワがヤコポ・べルーシとともに踊ったのは『レント』。ショスタコーヴィチの音楽を吸い込むようにしてどこまでも伸びていく長身には鋼の強さとしなやかさがともに備わってもいて、造形の華やかさにも比類がない。1999年、ロンドンのロイヤル・オペラハウスの新装開場記念ガラの際にダーシー・バッセルのために作られたパ・ド・ドゥと聞けば(共演はオットー・ブベニチェク)、なるほど作品とは初演者の個性によってこそその風合いを決定づけられながらも、時代を超えて新しく輝く踊り手とともに蘇るものなのだと感じ入った。(昨年予定されていた彼女の『ニジンスキー』への出演が叶わなかったのを、あらためて残念に思う)
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「レント」オリガ・スミルノワ、ヤコポ・ベルーシ ©Kiran West
もう一人のアリーナ・コジョカルは、ゲストとはいえ自身のための創作を含めて過去何シーズンにもわたっていくつもの公演に主演している、もはやノイマイヤーの最高の理解者の一人とも言えるだろう。この日は最後の演目である『マーラー交響曲第3番』最終楽章のソリストとして出演し、先の『ガラスの動物園』とはまったく違った一面を見せた。あの小柄な身体で高揚する音楽を一身に受け止め、いよいよのフィナーレで上手から下手へとゆっくりと歩み去っていく愛の象徴としての姿は穏やかな威厳に満ち、音楽の祝福を受けているかのように荘厳だった。
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「マーラー交響曲第3番」アリーナ・コジョカル、エドウィン・レヴァツォフ ©Kiran West
「第49回ニジンスキー・ガラ」より「マーラー交響曲第3番」ジョン・ノイマイヤー ©Kiran West
「第49回ニジンスキー・ガラ」カーテンコール ©Kiran West
「第49回ニジンスキー・ガラ」カーテンコール ©Kiran West
輝く紙吹雪に包まれたノイマイヤーの姿、周りではしゃぐ団員たち。数えきれないほど繰り返されたカーテンコールの後、人々は名残惜しげに客席を立っていく。
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東京での日常から完全に切り離された日々も終わってしまった。同行の友人たちとほとんど夜が白むまで語り合い短い眠りをむさぼった後は、クララのように、あるいはタチヤーナのように現実の朝の中に目を覚まし、帰国の途に就く。
『ドナ・ノービス・パーチェム』の日に聖ヤコビ教会でバッハのオルガンの音色に触れたことを先に記したが、旅の最後に訪れたのも信仰の場だった。ストップ・オーバーで一泊したヘルシンキの、カンピ礼拝堂。独特の曲線を描く木造りの小さな堂内は、差し込む日の光さえどこかモダンに明るく、どこまでも静かだった。このまま溶けてなくなってしまいたい。しばらくベンチに座ってそんなことを思っていたから、記憶と語彙の一部をなくしてしまったのだろうか。本稿を書き上げるのにこんなにも時間がかかってしまったことを、恥じ入るばかりである。