『マダム・バタフライ』世界初演の開幕をおよそ2週間後に控えた9月11日、東京・文京区のKバレエカンパニーのスタジオで、プレス向けの公開リハーサルが行われた。
集まった各種メディアの記者たちの目の前にまず現れたのは、熊川哲也その人だった。
「今日はこのあと2つの踊りをご覧いただきますが、その前に少し説明をしたい」
熊川はそう言って、この作品を創作していくにあたって大きな鍵となったいくつかの出来事や気付きについて、私たちに話してくれた。
オペラとその原作となった小説「蝶々夫人」の舞台・長崎までみずから出向き、「『マダム・バタフライ』はフィクションではなくノンフィクションだ」と実感したこと。
その時代、生きていくために外国人の“相手”をしたり結婚したりした女性たちが、確かに存在したこと。
その女性たちは、”悲しい境遇”に見えるかもしれない。けれども実は、彼女たちはあくまでも凛として、その境遇を生き抜いたのではないか……と、そんな風に考えるに至ったこと。
マダム・バタフライの面影を探す旅の中で、熊川は1枚の写真を見たという。
ひとりのアメリカ人男性と、その傍に立つふたりの日本人女性。
明るく笑う男性とは対照的に、彼女たちは笑顔を作ることもなく、寂しげに佇んでいるーーそう感じたすぐ後に、熊川はこのように思い直したそうだ。
「でも、同じ日本人である僕が、彼女たちを“その境遇に致し方なく落ちていった悲しい存在”として見てはいけないと思った。違うんだ。彼女たちはあくまでも凛として、自分の信念を貫いて生き抜いたのだ、と」
そしてそのことに気づいた時、あらためて、こう思ったという。
「日本女性は美しい」
この日に見せてくれるのは、結婚の宴を終えたバタフライとピンカートンが踊る“初夜のパ・ド・ドゥ”と、オペラには出てこない熊川オリジナルの場面“花魁道中”。
いよいよダンサーたちが登場するというところで、熊川は私たちにこう言った。
「プレスのみなさん。今日はとにかく、これからお見せする踊りを見てください。カメラは置いて、写真は撮らずに、まずは観て、音楽を聴いて、感じてほしい」
このあとに掲載する写真は、実演後に別途設けられた時間に撮影したものである。
私たち記者はみなカメラを置き、背筋を伸ばし、静かに目の前を見つめた。
Photos:Ballet Channel
初夜のパ・ド・ドゥ
バタフライ役は矢内千夏、ピンカートン役は堀内將平。
この場面の実演が始まり、最初に感じたこと。
それは、音楽がとても詩的で美しい、ということだった。
静かだけれど切々と胸の奥に響いてきて、少し泣きそうな気持ちになる。
舞台でいえば上手前方に当たる場所に、静かに正座をした矢内。
その表情を見て、はっとした。
熊川が見たという、アメリカ人男性の傍に立っていた日本女性ふたりの写真。
笑顔も作らず、少し寂しげながら凛として見えたというそのイメージと、矢内の姿がぴたりと重なる。
静かに前に向けられた、切れ長の目。
そっと閉じられた唇。
ほっそりと伸びた、うなじのライン。
その“静”なる佇まいとは対照的に、“動”のエネルギーを湛えたピンカートンの手が、バタフライに触れる。
そして、ふたりのデュエットが始まった。
熊川哲也の創る振付は、しばしば「ステップの数がとても多い」と言われる。
あるフレーズに対して一般的に振付けられるステップの数の2〜3倍くらいあるのではないかと、かつてダンサーたちが語っていたことがある。
しかし、このパ・ド・ドゥは違う。
バタフライの感情と、感情未満の情緒を静かに伝えてくる、プッチーニの美しい調べ。
その音楽をゆったりと受け止めながら、ふたりの体が愛を育んでいく。
矢内の表情は、ずっと静かに凪いだままだ。
けれども踊りが進むにつれ、悲しげだった目が本当に微かだけれど、嬉しそうにほころんでくる。
そしてピンカートンの腕に包まれた時、あるいは高々とリフトされた時、彼女の細い指先がひらひらと羽ばたいた。
まるでサナギから出てきたばかりの柔らかな羽を震わせる、小さな蝶々のように。
そうか。
バタフライは、嬉しかったのだ。
旧時代的な価値観からすれば責められる結婚であろうとも、そしてその愛の行き着く先が悲劇であろうとも、この時、バタフライは幸せだったのだ。
そしてこの時彼女は、自分のなかに生まれた幸福の芽を信じて、自分の人生を歩みだしたのだ。
ふたりの踊りを観ながら、そんなことを考えた。
きっとこの場面は、全幕のなかでも最も好きなシーンのひとつになるだろうと思う。
花魁道中
もうこれは、誰もが楽しみにしているシーンではなかろうか?
私も個人的に本当に楽しみにしていて、非常に勝手ながら自分の頭の中でこのシーンの舞台セットも照明も衣裳も音楽もそして振付も、かなり具体的に想像を作り上げていた。
しかしその想像は、今回の公開リハーサルで完全に打ち砕かれた。もちろん、この上なく良い意味で。
意外だったのはまず、音楽だ。
「この音楽があったから『マダム・バタフライ』を創ろうと思ったくらい、素晴らしい曲」と熊川。
その曲は、とても優しく、温かい。そして中盤で音符が煌めきだす。
音楽だけの印象でいえば、妖艶さよりもむしろ清らかさを感じた。
そしてKバレエが誇る美しきバレリーナたちが現れる。
艶やかに咲く、遊女たちの扇の花。
その奥から、しゃなり、しゃなりと脚をインとアウトにくねらせながら、花魁(山田蘭)が練り歩いてくる。
表情はやはり、とても静か。そしてあくまでも凛として、天に向かって毅然と立つ。
そうきたか、と思った。
そして最後の瞬間にスッと流してみせる目線の艶っぽさに、どきりとした。
***
このあと、記者たちとの質疑応答(後日詳報します)を経て、公開リハーサルは終了。
最後に熊川は、こう語った。
「例えば味噌汁を飲んで、『ああ、日本人でよかったなあ』と思うこと、ありますよね。それと同じ感覚を、必ずや得られる作品だと思います。日本人の心を豊かにする、清い水のような感覚をぜひ劇場で味わってください」
Kバレエカンパニー『マダム・バタフライ』は2019年9月27日(金)、東京・Bunkamuraオーチャードホールで開幕。
その後劇場を上野の東京文化会館に移し、10月14日(月祝)まで上演される。
★バレエチャンネルでは、この公開リハーサルのもようを後日あらためて動画でレポートします