©️Hirotsugu Okamura
バレエチャンネル開設記念 Special ロングインタビュー
1999年――英国から日本に帰ってきたひとりのスターによって、バレエの歴史は新たな時代の幕を開けた。
Kバレエカンパニー創設から20年。
真実だけを語り、本質だけを見つめ、他の誰とも違うやり方でバレエ芸術の頂を目指し続ける熊川哲也氏が、率直な言葉で話を聞かせてくれた。
- プロフィール
-
©︎Hirotsugu Okamura
- 熊川哲也(くまかわ・てつや)
- 北海道生まれ。10歳よりバレエを始める。1987年、英国ロイヤル・バレエ学校に入学。89年、ローザンヌ国際バレエ・コンクールで日本人初のゴールド・メダルを受賞。同年、東洋人として初めて英国ロイヤル・バレエ団に入団し、同団史上最年少でソリストに昇格。93年、プリンシパルに任命された。98年に英国ロイヤル・バレエ団を退団し、99年、Kバレエ カンパニーを創立。2012年1月、Bunkamuraオーチャードホール芸術監督に就任。2013年、紫綬褒章受章。
若者は城も鎧も捨て、未踏の地へと乗り込んだ
- 新たなバレエ専門WEBメディア《バレエチャンネル》のオープニングにご登場いただき本当にありがとうございます。熊川さんは間もなく(2019年5月下旬)、じつに21年ぶりとなるご著書「完璧という領域」(講談社)を上梓されますね。
- 熊川 「本を出しませんか」とお話をいただいた当初は少し迷いましたが、いまは出版を決めてよかったと思っています。自分自身の足跡(そくせき)をこのあたりでいちど総括してみるのは悪くないし、やはり記憶というのはどうしてもしだいに薄れてきたり、歪曲してきたりするものですからね。舞台に立っていた頃のこと――その時にどんな気持ちを抱き、どんな感覚で踊り、演じ、生きていたのかということを、できる限り正確に、きちんと書き留めておきたいと思ったのです。
- 内容に関する事前情報があまり発表されておらず、現時点(取材は4月中旬)でも非常に謎めいているのですが、これは“ダンサーとしての熊川哲也”よりも“起業家、実業家、経営者、あるいは芸術監督としての熊川哲也”にフォーカスした本ということでしょうか?
- 熊川 いえ、必ずしもそうではありません。Kバレエカンパニーを起ち上げてからの20年の足跡ですから、当然その間に自分がなしてきたあらゆる面について著しています。当初の僕はまずダンサーであり、その上で芸術監督となり、しだいに会社経営をしながら演出家・振付家という顔を持つようになりました。起業家という面に関しては、20年前の自分がそういう意識を持っていたかというと、全くそうではありません。いまでこそ確立した会社組織となり社員も増えましたが、それを意図的に目指すようになったのはもっと後のことです。
顧みれば、僕はその時代において誰も触れることのできなかった領域、例えばテレビ業界や芸能界とも、当初から渡り合ってきました。もちろん葛藤の日々もあれば、いくつかの後悔に苛まれたこともありました。しかしそれらの取り組みはすべて、長い目で見れば、自分の理想とするバレエ芸術の実現やKバレエの充実にとって、必要かつ意味のあることだという信念があった。そして結果的に、ほとんどの施策は吉と出ました。そのせいか、僕はずいぶんな策士だと思われたり、ビジネスについて相当熱心に勉強しているように言われたりすることも多いのですが、それは僕という人間を深読みしすぎている。僕はもっと直感的かつ本能的に、その瞬間におけるベストな選択は何かを判断してきたにすぎません。それは振付をする時の感覚ともよく似ているのですが、その直感や本能のことを“先見性”や“慧眼”と呼ぶ人もいるのでしょう。
- しかしあらためて考えると、1999年にKバレエカンパニーを起ち上げた時、熊川さんは26歳だったわけです。現在のカンパニーでは、まさにその年代のダンサーたちがたくさん活躍していますよね。
- 熊川 言われてみれば確かにそうですね。彼らのことをそういう視点から見たことはありませんでしたが。
- それを思うと、あの時の熊川さんの勇敢さにあらためて驚かされます。英国ロイヤル・バレエのプリンシパルという極めて堅牢な城と鎧をあっさり捨て去り、丸腰で新たな世界に挑んできたような印象でした。なぜ、26歳という若さでそれができたのでしょう?
- 熊川 若かったからこそ、未来を恐れることなく大志を抱いたのです。もちろんその“大志”のなかには、「ビッグマネーを掴んでフェラーリを何台も所有したい」というような単純な欲望も含まれていましたが(笑)。実際、これはあながち冗談というわけでもありません。大きな決断をする時というのは往々にして「自由な活動を求めて……」だの何だのと頭で捏ね回した理屈よりも、シンプルな動機の方がずっと鮮烈で強いエネルギーを生むことがありますからね。
- 面白いお話です。熊川さんは今回のご著書をきっかけに、あらためてご自身の20年を掘り起こしたことと思います。たくさんの思い出のなかで、特に嬉しかったことや苦しかったことなど、深く印象に残っているエピソードがあれば聞かせてください。
- 熊川 僕の人生は、基本的には順風満帆なのだろうと思います。ただ僕個人にとっても組織にとっても最も忘れ難いのは、やはりあの怪我(編集部注:熊川さんは2007年5月、『海賊』公演中に右膝の前十字靱帯を断裂)でしょうね。もちろんそれすら悪いことだけではなかった。例えば芸術活動という意味では、あの期間に人の心に触れたことや、苦悩や恐怖も含めて己と徹底的に対峙した経験が、『ベートーヴェン第九』に始まるその後の作品群を生み出すことにつながりました。実際、怪我以降の僕の作品には、明らかにそれまでとは異なるクオリティが宿るようになりましたし、人間的なステップアップにもつながったと思う。けれども一ダンサーとしては、非常に貴重な時間を犠牲にしてしまいました。本当は、才能豊かな振付家たちに僕のための作品をもっとたくさん作ってもらいたかったし、もっともっといろいろな作品を踊りたかった。じつを言うと、僕はとても有名な古典作品ですら踊っていないものが意外と多いのです。
- と言いますと……?
- 熊川 例えば『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』や『ディアナとアクティオン』などは踊る機会がありませんでしたし、『ラ・シルフィード』『レ・シルフィード』といった作品も踊っていません。
- 確かに意外ですね……!
- 熊川 Kバレエカンパニーは原則として全幕主義を貫いていますから、そうした小品を踊る機会が少ないのはある程度仕方がない。またとくに僕の場合は他の多くのダンサーと違って、外部の公演や発表会などにゲスト出演するわけにもいきませんでしたからね。ただ本音を言えば、環境的にも身体的にも踊れるうちに、なぜもっと踊っておかなかったのかという思いがあります。あるいは世界中の振付家の作品に挑むべく、ダンスを極める旅に出るという選択肢もあり得たのかもしれない。しかしもちろん、僕はそうした経験をはるかに超えるだけのものを手に入れました。ここまでの道のりには非常に満足していますよ。
その男は、バレエのかっこよさを教えてくれた
©︎Hidemi Seto
- 歴史上ではよくひとりの天才の登場が時代を一気に変えてしまうということが起こりますが、バレエにおける熊川さんは、まさにそのような存在であったのではないでしょうか。ご自身としては、自分の存在や力が何かを大きく変えたと思いますか?
- 熊川 日本のバレエ界には森下洋子さんはじめ時代を切り拓いた素晴らしい第一人者がいらっしゃるわけですから、僕ひとりが何かを大きく変えたとは思いません。あくまでもその前提に立った上ですが、強いて言うなら、僕が民放各局のテレビ番組に出演するなどバレエの“外”の世界でも活動したことにより、「バレエダンサー」という呼称が広く一般に知られるようになったとは思います。それまで日本では、バレエを踊る人は男女の別に関わらず、みんな一緒くたに「バレリーナ」と呼ばれていましたからね。
- 確かに! 本来は女性に対する呼称である「バレリーナ」という言葉が男性ダンサーに対しても用いられているケースはいまだにありますが、明らかに少なくなりました。
- 熊川 いまにして考えると、僕は「バレエダンサー」ではなく「バレリーノ」と名乗るべきだった。あるいは「バレリスタ」という新たな造語を作っても良かったかもしれない(笑)。それはともかくとして、僕は呼称と同時に「バレエダンサーとは何ぞや」ということも、世間一般に対して示そうとしてきました。つまり、それはヴァイオリニストやピアニストといったプロフェッショナルと同列にある“芸術家”なのだということです。僕が英国から日本に帰ってきた頃、バレエはまだテレビのバラエティ番組などで揶揄されるような扱いを受けていました。男性タレントがチュチュと白鳥の頭を身に着けて、あろうことかチャイコフスキーの音楽でパロディ的な踊りを披露する、というような。そうした表現については断固として苦言を呈してきましたし、バレエがいかにかっこよくて素晴らしい芸術であるか、自らの身をもって訴えてきた。もちろんそれは誰のためでもなく、自分自身のためにやってきたことですが。
- この20年で熊川さんが成し遂げたこととして、“芸術としてのバレエ”だけでなく“ビジネスとしてのバレエ”を確立し成功させたということも特筆すべきポイントですね。
- 熊川 Kバレエカンパニーは株式会社というかたちで経営している唯一のバレエ団です。つまりKバレエは国の補助に頼らない自立的なビジネスモデルで運営していて、芸術の高みを追求しつつも、ビジネスとしてきちんと成立させることが常に切実に迫られています。一方には国が文化貢献のために支給する助成金を得て活動しているバレエ団もあるわけですが、それに値するバレエ団であれば、国がしっかり援助をして芸術活動を支えるのは非常に大切なこと。経済基盤のあり方が他団体とKバレエでは全く違うけれども、芸術文化の発展のためにはどちらの方向性も必要なことだと思いますね。
- バレエ団のあり方の方向性という面で言うと、2014年に“プロのバレエ団の全国組織”として日本バレエ団連盟(*)が発足した際、Kバレエカンパニーはそれに加盟しない道を選びました。
*日本国内におけるプロのバレエ団の統括を目的として、2014年に設立された組織。業界内の人々が協力してさまざまな問題点に対応するための情報共有や議論の場を設け、バレエ芸術のための環境整備や文化政策への提言などを主な活動内容とする。現在は8つの会員団体と1つの準会員団体が加盟している。
- 熊川 僕はそこに加盟していないから、連盟の詳しい活動内容などはわかりませんが、ただひとつ思うのは、加盟団体の枠が広すぎるのではないかということです。むしろ、例えば日本オーケストラ連盟のように、公演数、作品数、観客総動員数、団員への給与等保証環境など一定の基準をすべて満たしたカンパニーのみが加盟できるようにすれば、この国の“プロフェッショナルのバレエ団”のレベルをきちんと世に示せるのではないでしょうか。現時点では、国内で真に“プロフェッショナル”だと言えるバレエ団は3 〜4団体しかないと僕は思いますが、その3〜4団体の公演数やレパートリー数や待遇面などの平均値をとってみれば、ヨーロッパ各国のレベルには及ばないまでも、アメリカのカンパニーよりは上位にある可能性は大いにあるでしょう。現状のように団体間の格差が極めて大きいのに、それを「会員団体」という名の下で同列に捉え、“これらの団体が日本のプロフェッショナルのバレエ団です”と表明しているのは、国際的な視点から見ても決して得策ではないと思います。
英雄は、自らの手で幕を引く
- 20年を振り返っての最新の出来事として、今年(2019年)のことも少しだけお聞かせください。ファンにとっては嬉しいことに、2月には『ベートーヴェン第九』、3月には『カルメン』と、久しぶりに“ダンサー熊川哲也”を観ることができました。
- 熊川 出演を決めた動機についてはすでにいくつかの場所で話してきましたが、ひとつにはここ数年でカンパニーのダンサーたちの世代交代が進み、僕と一緒に舞台に立った経験が一度もない若手が増えてきたことです。やはり彼ら・彼女らにも、僕が同じ舞台にいる時の空気というものをいまのうちに体感させてあげたいと考えました。もうひとつは、僕のことを長年にわたり応援し、どんな時も支え続けてくれたファンのみなさんへの感謝です。僕が日本に帰ってきてKバレエカンパニーを起ち上げた時も、怪我をして絶望の淵に飲み込まれそうになった時も、その淵から這い上がってきた時も、傍にはいつもファンのみなさんがいてくれました。そのことを思うと、いつも胸に熱いものがこみ上げてきます。
- 特に全幕主演された『カルメン』は、劇場中の温度が上昇するほど客席が熱狂しました。
- 熊川 僕の主演日だけでなく、全日ともいい公演でした。自分に関して言えば、相手役に矢内千夏を選んで本当に良かった。彼女には率直に感謝の気持ちを伝えました。
- 感謝の気持ちを。
- 熊川 矢内だからこそ、僕に対して寸分もひるむことなく真っ直ぐに対峙できたのだと思いますし、彼女は僕からたぎるような感情をも引き出してくれました。つまり化学反応ということです。男女の立場が逆ではありますが、ベテランとなったマーゴ・フォンテインが若いルドルフ・ヌレエフと出会って再び華やかに輝いたのは、もしかするとこういう感覚だったのかもしれないと思いました。今後は『くるみ割り人形』など定番のレパートリーに関しても、ベテラン勢と若手を上手く組み合わせると、想像もしなかったようなおもしろい舞台が生まれるのかもしれません。
- これはとても個人的な感想ですが、カルメンを撃ち殺した後のドン・ホセ演じる熊川さんの背中を客席から見つめていた時、ふと、「まさか熊川さん、これで“さよなら”じゃないですよね……?」という思いが胸をよぎり、涙が止まりませんでした。しかも最終日の公演では、これまでにはなかった演出……ホセがカルメンを殺したその銃で自分の頭も撃ち抜いてしまうという、衝撃的な幕切れが待っていました。
- 熊川 それは、みなさんそれぞれの心の中の解釈で受け止めていただけたらと思います。ただ、いずれにしても“終わり”の時はくる。とくに全幕作品となれば、自分にとっての最後がいつきてもおかしくない。ご存じの通り僕は気まぐれなので先のことはわかりませんが、少なくとも『カルメン』に関しては、今回が“その時”なのではないかという気持ちは確かにありました。
- そのような思いで舞台に立っていらしたのですね……。
- 熊川 しかし僕は、引退宣言をするつもりはありません。もしかしたら9月に世界初演する『マダム・バタフライ』でゴロー役を演じるかもしれないし、『カルミナ・ブラーナ』でアドルフの父親役を踊るかもしれませんからね。そもそも引退宣言をして、セレモニーをして花束をもらって涙……みたいなことは僕の美学にはありません。男子というのは、そういうセレモニー的なことは恥ずかしくて嫌なのです。とくに僕は(笑)。
- 何というか……うまく言葉が出てきません。
- 熊川 僕が『カルメン』を踊り終えたのとほぼ時を同じくして、野球のイチロー選手が引退を表明しました。その日にユニフォームを脱ぐと決め、東京ドームに詰めかけた満場の観衆の前でグラウンドを走っていく彼の姿を見て、僕は涙が止まらなかった。そして最後の喝采を目に焼き付けようとしているあの表情に、思わず感情を重ねてしまう自分がいました。僕にとってはいい涙でした。
“信頼される”とはどういうことか
©︎Hirotsugu Okamura
- 今回は新メディアのオープン記念ということで、熊川さんが“メディア”というものをどう見ているかについても質問させてください。まず、テレビ、新聞、雑誌といった従来のメディアがそれぞれに厳しい状況に直面しているなかで、熊川さんとKバレエカンパニーはどのようなメディア戦略を考えていらっしゃいますか。
- 熊川 われわれの場合は20年前のスタート時点からTBSというテレビ局とパートナーシップを組んでいます。そのこと自体が最大にして最重要なメディア戦略ということになりますが、この路線は保持しつつプラスアルファの要素として、社内にIT部門を設けて専門家を置くという試みを始めています。
- 近年では世界中のバレエ団がSNSや動画等を活用した広報を積極的に展開していますね。
- 熊川 ただ僕は基本的に、メディア云々よりもまず最高の作品を創り、劇場に来てくださったお客様に100%の感動を保証することのほうに全神経を集中させています。いまはもう、過剰な売り文句や形容詞に踊らされる人はまずいません。それが本物か偽物か、すぐに見抜かれてしまう時代だからこそ、僕はますます真っ向から勝負を挑むし、本当のことしか語りません。
- ちなみに熊川さんはどんなメディアをよくご覧になりますか?
- 熊川 情報収集には主にインターネットのニュースサイトやニュースアプリを使っていますが、最近、自宅内の比較的小さめの部屋にテレビとソファを置いたんです。休日はそこでビールを飲みながらゆっくりテレビを見る時間も気に入っています。
- 最後の質問です。これだけ情報があふれた世界において、熊川さんが信頼を寄せるメディアとはどのようなものでしょうか?
- 熊川 公正で、平等で、自らの信念に正直であるメディア。それに尽きます。バレエ関連の記事にしても、業界内に対する気遣いや忖度があるのか、あるいは広告主がいるからなのか、必ずしも真実を語っているとは思えないものがたくさんあります。そうではなく、良いものは良い、おかしいものはおかしいと、勇気と信念をもって発言するメディアであるならば、僕は心から応援したいし協力も惜しまないつもりです。
- Information
-
熊川哲也 著「完璧という領域」
1,944円(税込)講談社 刊
5月29日(火)発売予定
熊川哲也、21年ぶりの自伝
Kバレエカンパニー旗揚げ、古典全幕作品上演、バレエスクール主宰、日本発オリジナル作品創造、オーチャードホール芸術監督、そしてさらなる新たな創造。前人未踏の軌跡が今、本人の手で明かされる――。
Kバレエカンパニーオフィシャルグッズストア
”Stage Door”からもご購入いただけます。