ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。
“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく月1連載。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、バレエチャンネルをご覧のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。
美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。
ベートーヴェン「ハンマークラヴィーア」を演奏しました
楽聖ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン。1770年にドイツのボンで生まれ、22歳で芸術の理想を追い求めてウィーンに移住し、57歳で亡くなるまでの35年間をウィーンで過ごしました。2020年はベートヴェン生誕250年にあたります。
陽射しのあたたかな9月のある週末、私は彼に会いに中央墓地にやってきました。
美しい薔薇を一輪
中央墓地のベートーヴェンのお墓
ここにやってきたのは訳がありました。
今年1月、ウィーン国立バレエ芸術監督就任を控えていたマーティン・シュレプファー氏から、1本のメールが届きました。9月のハンス・ファン・マーネン振付『アダージョ・ハンマークラヴィーア』公演のピアノ演奏を打診されたのです。この作品は5年前にウィーン国立バレエでも上演されています。曲はベートーヴェンのピアノソナタ「ハンマークラヴィーア」。ピアニストのエッシェンバッハの録音に合わせて作られた作品で、当時は録音音源で上演されました(ファン・マーネンやキリアン等、オランダで作られた作品は録音音源で上演されるのが一般的です)。
ですが、今回は記念すべきベートーヴェン生誕250年にウィーンで上演するにあたり、新監督が生演奏にこだわられたそうです。人前でベートーヴェンを弾くなんて。しかもこの曲は、1817年、彼が長い苦悩の年月の果てに光を見出した頃のもので、その境地にそうやすやすと辿り着けるとも思えません。素晴らしい作品を弾ける喜びと同じだけの不安を抱えていました。
そんなわけで、9月の公演を前にベートーヴェンにご挨拶にやってきたのです。
私が中央墓地を初めて訪れたのは2011年、ウィーンに移り住んだ年の11月の万聖節でした。その頃、ウィーンでの仕事がうまくいかず、八方塞がりに思えていた私は、偉大な音楽家たちが眠る中央墓地にふと思い立って行ってみたのです。
それまで、私にとってベートーヴェンは特別近しい音楽家ではなく、弾けば弾くほど遠く感じてしまう存在でした。しかし、あの時、何人かの著名音楽家のお墓があるなか、ベートーヴェンのお墓の前で涙が止まらなくなったのです。思い詰めていた自分には、彼の苦しみが伝わってくるような気がして……。
「彼の苦悩に比べたら、自分の悩みなんてなんとちっぽけなものか」
私はその日を境にまた新たな気持ちでピアノに向き合うようになり、いつの間にかスランプから脱していました。
楽聖の暮らした街、その空気を肌で感じることができるのは幸せなことです。
19区のハイリゲンシュタットの遺書の家は、ベートーヴェン博物館として愛されています。
初めてここを訪れたのは6歳の頃でしたが、何十年も経って、この地に住み、小さき身ではありますが音楽家として生きていることを不思議に思います。
ハイリゲンシュタットの遺書の家の中庭
気づけば、6歳の頃と同じ色のコートを着てベートーヴェンの家に
自然からインスピレーションを受け、創作の源にしていたベートーヴェン。ウィーンの豊かな自然のなかで、彼は何を見、何を聞き、感じていたのでしょうか。
このハンマークラヴィーアのアダージョ楽章には、自然が豊かに息づいているのを感じることができます。雨がしとしと降っているさまだったり、雲間から太陽が射しこむ光だったり、木々の葉っぱが揺れていたり、風が吹いてきたり。
ここを毎日散歩して、交響曲「田園」を構想したという、ベートーヴェンの小径
9月になり、『アダージョ・ハンマークラヴィーア』の稽古が始まりました。ピアノ演奏だけでもその深みに到達することが難しいのに、一音一音振付に寄り添わないといけないのがまた大変で……。この作品は前述した通り、生演奏を想定して作られておらず、エッシェンバッハの演奏に沿って作られているのですが、かと言ってコピーすればいいというわけではなく、今までにない繊細な作業が求められました。昨シーズン中に稽古する時間がコロナのせいでなくなったので、時間も足りていませんでした……。
公演3日前になり、舞台稽古が始まってもなお、私は自分の演奏を見つけられずにいました。
「できることなら辞退したい」逃げ出したい思いにかられていました。
9年前、私がベートーヴェンの墓前で得た気づきを思い出します。大切なのは、ポジティブな気持ちで、小さな問題を見落とさず向き合うこと……。
ファン・マーネンは楽譜を見ずにこの作品を振付けたはずですが、楽曲を分析すると、振付がいかに曲に沿っているか、その凄さが見えてきて、彼の突出した音楽性が伝わってきてきます。
曲のモチーフが3組のパ・ド・ドゥそれぞれに与えられていて、それぞれの組の物語になっていて、曲が展開していくことで、3組が交錯して静かに織り合わさっていく……。音型が踊りとなって視覚に訴える。私がこの曲に感じた自然の移ろいが物語となって息づいている。本当に素晴らしい作品……。
『アダージョ・ハンマークラヴィーア』カーテンコールにて
先日、10月15日を持って千秋楽を迎え、全公演を無事完走しましたが、作品の美にようやく手が届いたのかもしれないと思えたのは、最後の2回でした。
最終公演で弾いている時、「この後の人生がどうなっても構わない」という想いが、心に浮かんできたのです。それだけ、その瞬間の音楽的充足感を感じていました。ベートーヴェンのこの世のものとは思えない深みに到達できることはこの先もないのかもしれない。でも、私なりに、自分の人生に悩んだり光を見出したりするなか、共鳴して表現していくことはできるかもしれない。
ハイリゲンシュタットの遺書の家のピアノ
昔と違い、今はベートーヴェンを心の近くに感じています。音楽界に燦然と輝く巨星もひとりの人間であり、彼の心にそっと寄り添い、寄り添われることが、音楽家としての幸福だと感じるのです。
250歳のお誕生日、おめでとうございます。
「ウィーンのピアニストの音楽日記」らしい回になりましたね(笑)。
今月の1曲
今月の1曲は、もちろん、『ハンマークラヴィーア』を弾くことにします。
楽章すべて録音したのですが、20分以上になるので、ハイライトバージョンです。
2020年10月20日 滝澤志野
★次回更新は2020年11月20日(金)の予定です
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