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小林十市 連載エッセイ「南仏の街で、僕はバレエのことを考えた。」【第6回】表現者は”自己”を捨て、”他の誰か”になれるのか?

小林 十市

ベジャール・バレエ・ローザンヌ(BBL)のスターダンサーとして世界中の舞台で活躍。
現在はBBL時代の同僚であった奥様のクリスティーヌ・ブランさんと一緒に、
フランスの街でバレエ教室を営んでいる小林十市さん。

バレエを教わりに通ってくる子どもたちや大人たちと日々接しながら感じること。
舞台上での人生と少し距離をおいたいま、その目に映るバレエとダンスの世界のこと。
そしていまも色褪せることのない、モーリス・ベジャールとの思い出とその作品のこと−−。

南仏オランジュの街から、十市さんご本人が言葉と写真で綴るエッセイを月1回お届けします。

***

9年間の「演劇」人生のなかで

僕は、腰椎椎間板変性症という椎間板がすり減ってしまう疾患を患いそれが原因でダンサー業を辞めることになったのですが、まだ34歳だった自分には早過ぎる引退でした。

そんな自分に声をかけてくれたのが、今は亡き演出家で翻訳家でもあった青井陽治さんでした。
さて、ここで長々自分がどんな舞台に関わってきたかを語るつもりはありませんが、9年という年月を演劇というフィールドで過ごして感じたことを思い出しながら書いてみようかと。

今回のテーマは今も自分の中で追求していることでもあり、よく分からなかったりするので、そのあたりは大目に見てください。

舞台「隠蔽捜査」(2011年)より。上川隆也さんと

BBLでは「自分とは何か?」を追求し続けた

僕は暫し、自我を消し得て舞台に立てるのか? ということを考えていたことがありました。無心とか無意識とか、悟りの境地みたいな、理屈でも手にとっても見られないような超感覚的な事を探していました。

自我は、この肉体を持っている限り、なくすことはできないだろうと思います。

しかし他人を通しての「自己」ならば、「自分」というアイデンティティから「他の者」になれるのでは?
では、その時の「自己」はどこへどうなる?

ここで僕が思う「自我」とは我々一人一人が感じる五感であり、「自己」は例えば「自己中」とか、他者があってのパーソナリティみたいな感じ。

役者さんによっては、役に近づくために体型を変えて演技に挑む人もいます。
自分というフィルターを通して、「別の人物」を生きる。
その場で集中し、自分自身とは違う何者かになりきることが、「演技力」というのかなと。

僕は長年ベジャールさんのもとで、「自分とは何か?」という自己追求をして来ました。
自分という人間の精神、内面、そして踊りの技術。舞台空間でのあり方、立ち方、生き方。

その自分が芝居に挑む時のいちばんの苦労が、「この人物は何者?」という、自分が演じる「自分ではない人物」像のリサーチと、台本や台詞の裏にある「何故、その言葉を発するのか?」。台本以外での人物のあり方の想像。と、果てしない人物掘り下げ作業。それらを理解し理屈で捉えられたとしても、舞台上にあるのは「自分の肉体」という紛れのない事実。

特殊メイクでもない限り「自分自身」は消し去れない。
僕が演劇でできなかったことは、「自己を捨てる」ということでした。そしてそれができないなんて、俳優にあってはならないことでした。もう致命傷、自分大好き人間ですから(笑)

ダンサーは「自分以外の誰か」になれるのか?

踊りがアクションならば、芝居はリアクションなのではないかと。

まず踊りには音楽があります。自発的にその音楽に合わせ踊る。僕がいたベジャール・バレエでは録音された音楽を使っていました。生のオーケストラで踊ったこともありますが、基本、録音されたものを使っています。なのでタイミング的には毎回同じなわけです。

芝居には基本音楽はなく台詞を発する役者のみ。外から、自分以外から発せられた台詞や動きに反応する方が多い気がします。また、台詞のやりとりによっては上演時間が伸びたりすることもあります。そうすると「今日は巻いて」とか少し速めに喋る事を要求されたりします。

もうひとつ僕がよく言われたことは、稽古中に読んでいた台本、決められた台詞は、本番に入ったらすべて忘れなさい。ということ。舞台上での出来事は、その時その瞬間初めて起きることでなくてはならいからだ、ということは理屈で分かっていてもなかなかできることではありません。
そんな話を以前、ジルとしたことがあり、彼曰く「踊りだってそうだよ」と。

パ・ド・ドゥに関しては、二人の対話でありその時その瞬間、お互いを感じ生まれるものを大切にしないといけない。と。

何となくわかるけど、わからない!(笑)だって振りを忘れて、例えば右手を出されて、どうその手を取るのか? その時初めてのように感じるなんてできないもん!

といったことがありますが、根本的にダンサーが自分以外の何者かになることは可能なのか? と。
自分、体を意識している限り自我はなくならないし、自己を消し去り舞台上にて何かを表現するとはどういうことなんだろう? その時の精神と体のバランスはどうなっているのだろう? と、役者とダンサーとの違いを考えることがあります。

僕はドラマティック・バレエを経験したことはありませんが、例えば「椿姫」においてのマルグリットを演じるダンサーは割合的にどこまでマルグリットなのか? どう準備するのか? 芝居ならばすべて「台詞」でやりとりされるところを「踊り」で見せる場合においての「自己を捨てる」ことは可能なのか?と。

それらは結局「らしさ」の追求ではないのか?なと、僕は思うわけです。お客様にその場面を信じさせることが表現者としての仕事であるので、演者が技術面を考えてしまうようではきっと半人前なのかもしれません。なのでお客様を感動させる事ができるダンサーは卓越した集中力と技術力を持ってそこを考えずとも演技ができるのかな?と。

で、結果的にダンサーは自己を捨てられるのか?

僕は、自己を捨てるというより「集中」な気がするんです。

演劇は「自己」<「役」

僕が言いたいのは、ダンサーが踊る役によって体重を増やしたり歯を抜いたり、オーロラ姫が16歳だから30歳近い私は贅肉を取る手術をして……とかしませんよね!? ということです。
ダンサーはその時それぞれの人のその時の鍛えられた肉体を持って舞台に挑む。
基本、みなさん「自分ベース」で表現をする。
演目によって踊り方の質を調整したりすると思うんですけど、そこにはやはり「自我」がいちばん強く存在していると思うのです。

稽古の段階で。

ダンサーは朝のレッスンで自分と向き合い、稽古では振付家またバレエマスターに見てもらい、まずは自分の役割(踊ること)をこなしていくと思うのです。

まあ、ドラマティック・バレエの場合だとそれぞれの動き、立ち位置、目線などに「台詞的要素」があると思うので、それこそ役の解釈、人物描写、人物背景など細かく稽古しているんだろうなあと想像します。

芝居の場合、台本を中心に演出家の方が稽古を進めて行きシーンを作っていく。

演出家によっては役者たちにアドリブで動いてもらい様子を見る方もいますし、きっちり動き立ち位置を付けていく方もいます。僕がやりやすかったのはもちろん後者の方。
この時点で既に「自己」という存在はあまり大事ではなくて、大事なのは作品の中の「役」の存在で、その登場人物の思考回路を自分という媒介者を通し存在出来ているかどうか?

それでも人にはそれぞれの体の癖みたいなものがあって、それって余程意識していない限り出てしまうと思うのです。それ自体がもう「自分」なわけで完璧に「他者」にはなれないのではないでしょうか?

踊りの場合は、とくにそうだと思う。

舞台「冬のライオン」より。平幹二朗さんと共演。後ろに文学座の廣田高志さんと高橋礼恵さん。

僕は昔、芝居関係者の方に「十市くんは台詞がうまいね」と言われたことがあるんですけど、それって台詞が上手い=芝居が上手いということではないんですよね。

『椿姫』が最高に良かった! という時、人々はその場面の演技力に魅せられるので別に脚を高く上げたとかそういう踊りの技術面ではない訳で……なので「台詞がうまい」というのは、「喋る」という技術面な訳で……まあ、それだけでも大したもんだ! と自分を褒めてやりたいですけどね今は……。

でも踊りでの演技力は土台に技術がしっかりあるというのが前提ですよね。
もちろん、逆に技術ばかりでもバランスが悪いんだろうけど……。
そう、表現者が舞台上で技術面を考えてしまうようであれば、それはその人の練習不足、準備不足でしょうね。

芝居をやって、理解できたこと

それでも「あの人は人間が面白い」! 一体あれは何なんだ!?! というような舞台に遭遇することもあります。

表現ってビジュアル的な枠を通り越した何か?なんでしょうね。舞台だと特に。

あと、踊りの場合「音楽とのシンクロ率」ってないですか?
ノイマイヤーさんの『椿姫』ならショパン、ベジャールさんの『アダージェット』ならマーラー。それを踊るジルだったり、ダンサーと音楽の一体化が劇場を埋め尽くす瞬間みたいな何かが起こる時のあの感覚。

芝居ではBGM的に音楽が使われますが、基本、役者さんですよね。

ベジャール・バレエでは録音された音楽を使うと言いましたが、稽古中からずーっと聴きなれた音楽だと、体にも馴染んできます。技術面を練習段階でクリアしていくと、割と高い確率で、舞台上で「音楽に身を委ねる」的なことが可能になってきます。

まあ、かなりの回数をこなさないとですが、僕は現役時代にそういった状態を数回経験したことがあります。
録音の音楽だから間が変わるはずがないのに、音が? 動きが? スローモーションっぽくなる時がありました。
その時自分が感じたのは「あ、ここでもっと腕が伸ばせる」とか体の使い方を一段階大きくできる、ある種の「音の余裕、動きの余裕」みたいなものでした。

「自己を消す」ということは、「その場に集中する」「雑念を無くす」みたいなことではないか? と思います。

これも現役時代に数回経験した事ですが、今さっき舞台上でどう踊ったか覚えていない。これはソロを踊った時にしか感じたことはありませんが、何かを意識せずに「踊って来た」。それが表にどう見えたのか? 分からないですけど、逆に雑念だらけで踊りながらもう今日はもうやめたい! とか思って踊った時の舞台が「とても良かった」と褒められる時があるので、まだまだ「舞台空間」は僕には未知なる世界です。

安部公房「友達」。2008年、世田谷パブリックシアターでの舞台でした。

芝居をやってきて、ベジャールさんの作品がよく理解できるようになりました。

現役時代にわかっていればなあと思いましたが、指導する機会をいただいた時は、動きの裏にある思考回路的な、内なる言葉は多い方が一つの動きに深みを持たすことができたり、舞台上での存在の仕方に無理がなくなったり、やはり演劇要素は切っても切れないのがベジャール作品の醍醐味だなあと思うようになりました。それらの自分が感じたことを指導に取り組んでいます。

自分のスタジオでも、生徒たちに音楽のタイプや踊りの質に変化をつける時にいろいろと想像させることもしています。バレエモードで固まってしまうのではなく普段の自分という、その子たちの「素」の部分を引き出したくもあり、動きだけではなく音色の柔らかさや、そこから感じ取れる色だったりイメージをどう表現できるだろうか?と。

余談ですが、僕は台詞を覚えるのがとても早かったです。

実家に祖父が剣道と居合で使っていた道場があるのですが、そこでひたすら喋り続け覚えます。外出中もマスクをし携帯電話で話している風を装い台詞を喋り続けたりしてました(怪しい人)。
得意というか、モノローグは長いものでも覚えられました。逆にやりやすかったです。これはダンサーとしての性質が活かされたのではないかなと。「自己追求タイプ」ですから(笑)

会話の台詞は、台本の自分の台詞のところを隠してコピーします。コピーした用紙には自分の台詞は写し出されません。それを読んでいき覚えるという。

ただ、欠点として、これだけきっちり覚えてしまうと、アドリブが効かなくなります……。
例えば共演者が台詞を飛ばす、間違える、抜ける、とかなった時に、その時自分は登場人物としてその場に対応できるのか? できなくてはいけないのですが、割とあっさり「小林十市」に戻り、焦り、何とかその場をしのぐという情けない対応……な時がありました(苦笑)

舞台「陽だまりの木」(2012年)より

2020年2月15日 小林十市

★次回更新は2020年3月15日(日)の予定です

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

元ベジャール・バレエ・ローザンヌ、Orange Ballet School 主宰、振付家、俳優。 10歳より小林紀子バレエシアターにてバレエを始める。17歳で渡米し、スクール・オブ・アメリカン・バレエに3年間留学。20歳でスイス・ローザンヌのベジャール・バレエ・ローザンヌに入団。以後、数々の作品で主役をはじめ主要な役を踊る。2003年に腰椎椎間板変性症のため退団。以後、世界各国のバレエ団でベジャール作品の指導を行うほか、日本バレエ協会、宝塚雪組などにも振付を行う。また舞台やテレビ、映画への出演も多数。 現在はフランスのオランジュにて Orange Ballet Schoolを主宰。

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