
ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。
“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく連載エッセイ。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、読者のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。
更新は隔月(基本的に偶数月)です。美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。
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雪の日の出逢い
いつか必ず書かなければと思っていた、マニュエル・ルグリのこと。けれど、あまりにも大きな時間で、あまりにも個人的な経験だったため、長い間言葉にすることができませんでした。少し時間が経ち、ようやく自分の中で静かに振り返ることができるようになりました。だからいま、彼と過ごした日々について書いておこうと思います。

2018年「シルヴィア」初演前の稽古にて。写真中央がマニュエル・ルグリ ©️Ashley Taylor
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雪が降っていました。真っ白なスタジオの窓際で、彼は透明なピアノの音に合わせて踊っていました。窓の外には静かに雪が舞い、スタジオの中は、音が消えてしまったかのように澄みきっていました。いままで見たどんなバレエの情景よりも美しい、と思いました。それが、マニュエル・ルグリとの出逢いでした。
パリ・オペラ座の大エトワールだったマニュエル・ルグリがウィーン国立バレエの芸術監督に就任したのは2010年。そのシーズンに私はウィーン国立歌劇場のバレエピアニストになりたいという夢を携えて、稽古を1日見学させてもらうという約束だけ取りつけてウィーンを訪れたのです。その時、奇遇にもカンパニーのピアニストが一人辞めることになり、自動ドアがすっと開くように、私は2011年9月からウィーン国立バレエのピアニストになりました。
私がウィーンで初めて担当した作品は『テーマとヴァリエーション』。シーズンが始まって3週間ほどで初めての公演があったのですが、新人がこの作品を一人で弾いて責任を負うのはなかなかのことですよね。この作品を弾くのは初めてでしたし。ルグリ監督は新人の私に舞台稽古を任せるのが不安だったのでしょう、いつもなら客席の真ん中で舞台稽古を見ているはずの監督が、その時はオケピの端で弾く私の隣に座ってくれたことを覚えています。経験の浅い私をそれとなくフォローしてくれる、なんと優しい監督なんだろう、と思いました。新人を試すのではなく、支えることで力を引き出そうとする人なのでしょう。

次に担当した作品はラコット版『ラ・シルフィード』。この作品を通して、私はどん底に落ちることになります。それまでフランスの伝統的なバレエを弾いた経験がなく、テンポの揺れ、細かいパが理解できず、踊りに合わせられず、何をしているのか分からなくなるような感覚で……稽古が終わるたびに、監督に謝らなければと思いながら、それすらできないほど落ち込んでいました。それでも、彼は一度も私を責めませんでした。後になって思うと、それは「見ていなかった」のではなく、長い時間で人を育てるという彼の姿勢だったのだと思います。
それからずっと仕事が難しくて苦しみのなかにあった私は、朝から夜まで劇場にいて、稽古の合間に練習し、ピアノ部屋に毛布を持ち込んで仮眠を取り、すべての公演を観て学び、何年も仕事に没頭してきました。いっぽう、ルグリ監督も激務に追われていたと思います。朝は誰よりも早く劇場に来て会議をしてから、毎日クラスを受け、すべてのリハーサルで指導し、全公演を観て、バレエ学校の試験にも立ち会い、遅くまでパソコンに向かってデスクワーク。そして同じく毎日遅くまで練習している私に、「ちゃんと家に帰りなさいよ」とよく声をかけてくれました。お互いに仕事の内容は違えど、そばで並走していた、そんな日々でした。

芸術監督としての彼
さて、マニュエル・ルグリはどんな監督だったでしょうか。彼は新生ウィーン国立バレエを作るにあたり、ほとんど誰も解雇せず、既存のメンバーでスタートを切ったそうです。これは欧州では珍しいことのように思います。彼は10年間でバレエ団を飛躍させました。付属バレエ学校の生徒をを育て、また、移籍ではなくオーディションで10代のダンサーを選び、日々手塩にかけて育てあげたのです。彼の指導は天才的でした。稽古は緻密で具体的。ちょっとした手の角度や目線、体の使い方、音楽性について的確に指示を出していきます。そして何より凄かったのは、パリ・オペラ座を引退したばかりの彼が、すべて踊って見せてくれたことです。稽古場での実演だけでなく、年に一度の「ヌレエフ・ガラ」では自身も出演者として舞台に立ち、その至高の芸術を目の前で見せてくれました。世界一美しい模範を毎日見られるなんて、私たちはどれだけ幸運だったでしょう。熱い指導の中に、ユーモアと愛情があり、安定感と冷静さ、カリスマ性と同時に軽やかさも持ちあわせていたルグリ監督。彼にも苦しいことがあったと思います。劇場ではいろんな事件が起こりますから。でも彼は一貫してポジティブで、強く真っ直ぐな心を持っていました。芸術監督職に必要な、強い心とエネルギー。

2016年、「ドン・キホーテ」公演の稽古にて。ゲスト主演した英国ロイヤル・バレエのプリンシパル、マリアネラ・ヌニェスさんと

こちらは2017年「白鳥の湖」の時。客演のオルガ・スミルノワさんとセミョーン・チュージンさんとのリハーサル風景より

2018年「シルヴィア」初演に向けての稽古中
私が入団して3年目、チャイコフスキーのピアノ協奏曲を弾くゲストピアニストがドタキャンしてしまい、急遽、初演3日前に私が弾くことになりました。睡眠も食事も削ってピアノに向かって公演を迎え、私はなんとか大役を務め上げることができました。ルグリ監督は、その頃から、私を他の人に紹介する時に、「僕のスーパースターピアニスト」と話すことがありました。自分は未熟で力不足だと感じていた私のことをそんなふうに言ってくださるなんて、想像もできませんでした。その後も、2017年くらいまで自分の中で闇の時代は続いていたのですが、ボスが自分をこんなふうに信じてくれている、ということがどれだけ励みになったか分かりません。もがいて努力をしてきた結果、こんな信頼関係を築けることができたのだとしたら、私はウィーンに来て、彼に出逢い、この人生を生きることができてよかったと思いました。彼は人を評価するのではなく、信じて任せることで、その人を引き上げる人でした。

2017年「マルグリットとアルマン」初演にて
彼が残した宝物
マニュエル・ルグリはパリ・オペラ座を42歳で定年引退し、その1年後にウィーン国立バレエの監督になったので、それまで監督としての経験はありませんでした。でも、彼のそれまでの功績により、多くの振付家や財団が「彼のためなら」と尽力してくれたのでしょう、レパートリーには最高の作品が並ぶことになりました。そして、彼がルドルフ・ヌレエフ作品の継承者であったことは、ヌレエフが振付家としてダンサーとして活躍したウィーン国立歌劇場にとって、最高に幸せなマリアージュでした。パリで洗練されたヌレエフが帰ってきたかのようで。彼の連れてくる指導者陣、持ってくる作品の素晴らしさ、ガラ公演やミックスビル公演の面白さ、センスの良さはいま思いだしてもワクワクするほどです。やがて彼が発掘した若いダンサーたち(ルグリチルドレン)が育ち、活躍するようになり、演目の面白さも加わってファンを魅了していきました。

2013年、ウィーン国立バレエがパリ・シャトレ座で上演した「ヌレエフ・ガラ」のカーテンコール
彼は振付家としてもウィーンで花開きました。昔、バレエ団のダンサーたちの創作自主公演を監督の隣の席で観た際に、「振付はしないんですか?」と聞いてみたことがあります。その時は「しないかな」と言っていた彼が、それから数年後、『海賊』『シルヴィア』という大作をウィーンに残したのです。そしてそれらはウィーンだけでなく、世界の多くのバレエ団で愛される作品になりました。2作品の創作に私も携わっていましたが、ヌレエフがここウィーンで『白鳥の湖』や『ドン・キホーテ』を振付けたように、私たちもいま、大切な歴史の中にいるんだという感覚を持っていました。

2016年「海賊」初演成功後の舞台上で

2018年「シルヴィア」初演のカーテンコールにて
別れの日
彼がウィーン国立バレエを辞めるということが、団員に発表されたのは、2018年の暮れでした。ウィーン国立歌劇場の総監督が代わるということで、ドミニク・メイエ総監督と二人三脚だった彼も共にウィーンを去ることにしたそうです。ダンサーたちは固唾を飲んで彼の言葉に耳を傾けました。自分たちが生きてきた世界が変わってしまうのです。私はもちろん、彼とずっと一緒にいたかったけれど、そのいっぽうで、彼にはいつかパリ・オペラ座の監督になってもらいたい気持ちも勝手に持っていて、ずっとウィーンに居続けないほうがいいのではないかとも感じていました。寂しいけれど、彼には正しい場所にいてほしい、そう思っていたのです。ダンサーたちと共にその一報を受けた時、ああ、とうとうその日が来たのだと、しんと静かな気持ちで受け止めました。その日、『くるみ割り人形』の舞台稽古の休憩時間に、ルグリ監督は私の隣に来てくれて、辞めても縁が切れるわけではない、という趣旨のことを話してくれました。彼の将来を祝福する気持ちと寂しさと感謝と、いろんな気持ちでごちゃ混ぜになり、休憩後の稽古で第2幕のグラン・パ・ド・ドゥを弾きながら、その音楽の美しさもあいまって涙がこぼれてきたことを覚えています。

2020年6月、ウィーン国立バレエでの最後の日
彼はウィーンの後、ミラノ・スカラ座バレエの芸術監督を経て、いまはフリーランスとしていろんなカンパニーで指導、作品作りをしています。ようやく監督室の椅子から解放されて、芸術のことだけを考える日々を送れるようになった彼は幸せそうです。
彼は多くの名舞台、作品をウィーンに残しました。でも、それ以上に多くのダンサーを育て、その一人ひとりの中に何かを残していった人でした。私にとっても同じです。彼は芸術のすべてを与えてくれ、最高に美しい景色を見せてくれました。あの時間がなければ、私はこの仕事の素晴らしさの半分も味わえていなかったでしょう。また年月を通して築かれた信頼関係は、宝石のように私の心に輝いています。彼は技術や経験以上に、仕事の向き合い方や、芸術に対する姿勢、そして「人と仕事をする、人を信頼する」ということの意味を教えてくれました。あの頃はただ必死でしたが、ふと振り返ると、あの時間がいまの自分の確かな根幹になっているのだと感じます。
あの雪の日に見た光景は、いまも心の中に残っています。そしてこれからも、きっと消えることはありません。

©️Ashley Taylor
今月の1曲
思い出の曲を弾きました。
2017年の「ルグリ・ガラ〜運命のバレエダンサー〜」のために作られた作品『Moment』(ナタリア・ホレツナ振付)です。マニュエル・ルグリが1人で踊り、私がピアノを弾くという作品で、音楽も二人で探しました。ガラ公演では10回以上演奏しましたが、そのたびに、踊り手としての彼の凄さと深みを間近に感じていました。一対一のアーティストとして向き合えたあの時間は、いまでも特別な記憶として残っています。

今回、7年ぶりにこの曲を弾きました。音を重ねるたびに、すぐそばに彼の踊りの気配を感じるようでした。
★次回更新は2026年6月20日(土)の予定です
New Release!

Dear Ballet(ディア・バレエ)〜Music for Ballet Class
今回のコンセプトは「バレエのために作られた音楽だけで綴るレッスンCD」。
チャイコフスキー(『白鳥の湖』『眠れる森の美女』『くるみ割り人形』)やプロコフィエフ(『ロミオとジュリエット』『シンデレラ』)といった大作曲家はもちろんのこと、『ジゼル』を書いたアダン、『コッペリア』『シルヴィア』のドリーブ、『ドン・キホーテ』『ラ・バヤデール』のミンクスなど、音楽史の表舞台では語られなくとも、バレエのために曲を書き、今なお踊り継がれる名作を残してくれた作曲家たち——彼らへの感謝とバレエ音楽への愛を込めて、志野さん自身がセレクトした名曲揃いの一枚です。
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●CD、53曲、79分 ●価格:3,960円(税込)
Now on Sale

Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き
滝澤志野による、珠玉の作品を1枚に収めたピアノソロアルバム。
<収録曲>
1.『眠れる森の美女』第3幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
2.『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』よりアダージオ(チャイコフスキー)
3.『ジュエルズ』ダイヤモンドよりアンダンテ/交響曲第3番第3楽章(チャイコフスキー)
4.『瀕死の白鳥』/「動物の謝肉祭」第13番「白鳥」(サン=サーンス)
5.『マノン』第3幕 沼地のパ・ド・ドゥ/宗教劇「聖母」より(マスネ)
6.『椿姫』第2幕/前奏曲第15番「雨だれ」変ニ長調(ショパン)
7.『椿姫』第3幕 黒のパ・ド・ドゥ/バラード第1番 ト短調(ショパン)
8.『ロミオとジュリエット』第1幕 バルコニーのパ・ド・ドゥ(プロコフィエフ)
9.『くるみ割り人形』第1幕 情景「松林の踊り」(チャイコフスキー)
10.『くるみ割り人形』第2幕 葦笛の踊り(チャイコフスキー)
11.『くるみ割り人形』第2幕 花のワルツ(チャイコフスキー)
12.『くるみ割り人形』第2幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
●演奏:滝澤志野
●発売元:株式会社 新書館
●販売価格:3,300円(税込)
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Dear Chopin(ディア・ショパン)〜Music for Ballet Class
滝澤志野さんの5枚目となる新譜レッスンCD!
志野さんがこよなく愛する「ピアノの詩人」ショパンのピアノ曲で全曲を綴った一枚。
誰もがよく知るショパンの名曲や、『レ・シルフィード』『椿姫』などバレエ作品に用いられている曲等々を、すべて志野さんの選曲により収録しています。
それぞれのエクササイズに適したテンポ感や曲の長さ、正しい動きを引き出すアレンジなど、レッスンでの使いやすさを徹底重視しながら、原曲の美しさを決して損なわない繊細な演奏。
滝澤志野さんのピアノで踊る格別な心地よさを、ぜひご体感ください。
♪ドキュメンタリー風のトレイラーや全収録曲リストなど、詳細はこちらのページでぜひご覧ください
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●CD、52曲、78分 ●価格:3,960円(税込)
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Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class
バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)
★収録曲など詳細はこちらをご覧ください
- ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野 Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
- バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
- ●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)


配信販売中!
現在発売されている滝澤志野さんのベストセラー・CDを配信版でもお買い求めいただけます。
下記の各リンクからどうぞ。
★作曲家シリーズ
♪Dear Tchaikovsky https://linkco.re/pEHd0G2A?lang=ja
★「Dramatic Music for Ballet Class」シリーズ