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英国バレエ通信〈第34回〉英国ロイヤル・バレエ「ライト・オブ・パッセージ」

實川 絢子

鑑賞ファンにも、バレエ留学を志す若いダンサーたちにも、圧倒的に人気のある国ーー英国。
現地で話題の公演や、街の人々の”バレエ事情”などについて、ロンドン在住の舞踊ライター・實川絢子さんに月1回レポートしていただきます。

英国ロイヤル・バレエ「ライト・オブ・パッセージ」

秋も深まり、本格的な舞台芸術の新シーズンが始まったロンドン。英国ロイヤル・バレエは、長年のパトロンであったエリザベス女王を偲び、2022/23シーズンを亡き女王の思い出に捧げると発表。10月5日、奇しくもロイヤルファミリーを題材とし、濃厚なドラマが展開するマクミラン振付『マイヤリング』でシーズン開幕を迎えた。『マイヤリング』は平野亮一が主演を務めた初日公演が映像収録されており、さらにロングランでこれから多くの役デビューが控えているので、今回はロイヤル・バレエ今季2演目にしてクリスタル・パイト待望の新作『ライト・オブ・パッセージ』『Light of Passage』、2022年10月18日初演)について書こうと思う。

ロイヤル・オペラハウスで女性振付家によるフルレングス作品(*)が上演されるのはおよそ30年ぶりとのこと。今回の『ライト・オブ・パッセージ』は、ヘンリク・グレツキ作曲交響曲第3番「悲歌の交響曲」第1楽章に振付けられ、2017年にロイヤル・バレエで初演された「フライト・パターン」を最初に上演し、第2楽章「コヴェナント」、第3楽章「パッセージ」を追加して、全3部構成の作品となった。

第1部の「フライト・パターン」は、2018年度ローレンス・オリヴィエ賞(最優秀新作ダンス部門)を受賞したロイヤル・バレエが誇る現代バレエ作品。2019年の再演時には日本でも映画館で上映されたので、ご覧になった方も多いと思う。戦乱を逃れ、まだ見ぬ安住の地を求めて旅を続ける難民たち、という現実に起こっている社会問題に取り組んだ意欲作だ。

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』クリステン・マクナリー ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

今回新しく追加された第2部、第3部では、「フライト・パターン」とはまた別の物語が展開する。それぞれを独立した作品として見ることもできるが、ひとつの場所からまた別の場所へ移動していく(passage)という意味では、3つのセクションが共通のテーマを持っている。移動するのは場所だけではない。子ども時代から老年期へ、生から死へ、といったある状態から別の状態への変化・境界も意味し、全体を通じて、人間がその一生の中で経験する〈旅〉を俯瞰するような作品に仕上がっており、子どもから老人まで、さまざまな世代のダンサーが登場する。

第2部「コヴェナント」(契約、誓約の意)のインスピレーションとなったのは、「悲歌の交響曲」第2楽章の歌詞(**)と、国連「子どもの権利条約」。「生きる権利・育つ権利」(第6条)、「名前・国籍をもつ権利」(第7条)、「意見を表す権利」(第12条)、「休み、遊ぶ権利」(第31条)、「誘拐・売買からの保護」(第35条)など、子どもが子どもらしく生きるために、大人たちがなんとしても守らなければならない約束の数々をこうして書かなければならなかったこと自体が、悲しみを孕んだこの世界の現実の何よりの証拠である。以前Kid Pivottの『Revisor』について書いた時も触れたように、テキストを身体の動きで表現する、ということは、パイトがしばしば用いる手法のひとつだが、こうした公的な条約文をも着想源にしてしまうユニークな視点、そして人間の置かれた複雑な状況をダンスに昇華することを可能にする振付技術が、今回もまたパイトならではの唯一無二の作品を生み出した。

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

「コヴェナント」の主役は、ロイヤル・バレエ・スクールのジュニアアソシエイト・プログラムからオーディションで選ばれた9〜11歳の6人の子役ダンサーたち。白い服を纏った1人の男の子がその場で駆け足をする場面から作品が始まる。他にも、アラベスクをした子どもが大人に支えられて未来に羽ばたくかのように舞台を横切るイメージや、連なった大人たちを足枷のように引っ張っていく子どもたちのイメージは鮮烈だ。戦争に巻き込まれた子ども、移民として貧困や不安の中に暮らす子ども、家庭内暴力にさらされる子ども、学校で銃を向けられる子ども……子どもは簡単に大人たちの過ちの犠牲になってしまう脆い存在でありながら、未来への希望は彼らをそのような状況から守ることから生まれる。子どもが登場する作品は一歩間違うと陳腐な感動を狙った作品になる危険があるが、「コヴェナント」は、観客に媚びることなしに、ダイレクトに子どもを取り巻く環境に関する問いを投げかけてくる。

第3部「パッセージ」は、老年期にあるカップル(サドラーズ・ウェルズ劇場の60歳以上の男女が参加するカンパニー・オブ・エルダーズに所属するイシドラ・バーバラ・ジョセフ、クリストファー・ハヴェル)が登場し、幕開きから強烈なインパクトを放つ。戦地から帰還することのなかった息子を思って嘆く母親が歌う「悲歌の交響曲」第3楽章の歌詞、そして生きることの意味について力強い言葉で綴られたメアリー・オリバーによる詩がパイトのインスピレーションになったというこのセクションは、愛する者を失うこと、そして生から死という未知の領域への移行がテーマになっている。

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』イシドラ・バーバラ・ジョセフ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

パイトの振付の特徴のひとつに、彫刻的な〈集合体としての身体〉の扱い方が挙げられると思うが、第1部「フライト・パターン」では、36人のダンサーがひとつの有機体になったかのようにうねり、時に渡り鳥の群れのように膨張し、収縮し、〈ここではないどこか〉という未知の領域に向かって歩みを進めていくなかで、まるでズームインしていくかのようにその一人ひとりに個別の物語があることを見せていく展開が巧みだ。その手法は第2部、第3部においても顕著。第2部では、黒い衣裳に身を包んだ黒子のような18人のロイヤル・バレエのダンサーが、文字通り子どもたちの〈道〉となり、その上を歩く子どもたちを未来へと運んでいく。

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

第3部のハイライトは、終幕の数分間、36人のダンサーが徐々に加わって最終的に全員で踊る部分。アラベスクやアチチュード・ターンなど作品中最もバレエらしいステップがユニゾンで踊られ、全体がまるで川の流れのようなイメージを生みだす。その〈川〉の両岸に前述の老カップルを配置することによって、それは生と死の世界の境界に流れる川となり、愛する者が〈死〉という未知の領域に行ってしまうことの意味について問いかけてくる。

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』イシドラ・バーバラ・ジョセフ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

群舞の迫力が圧倒的な作品において、際立っていた個人の筆頭としては、コンテンポラリー作品で卓越した表現力を見せるカルヴィン・リチャードソン(第1部、第3部に出演)を挙げたい。36人の中にいてもひときわキレのある動きで目を引いたが、第3部で見せたマディソン・ベイリーと見せたデュエットでも、完全に振付を身体に取り込んだうえで、今この瞬間の彼の身体が可能にする刹那的な表現で魅せてくれた。また、第3部のアクリ瑠嘉ベンジャミン・エラの男性同士のデュエットも、同性異性という二項対立を超越したかのようなどこか中性的な踊りがパイトならでは。性を超えた、人間と人間の〈魂〉の繋がりを描くかのような踊りは、死の領域に足を踏み入れようとする老いた男を思って女が回想する、ふたりのこれまでの〈生〉を表しているのだろうか、観る者によってさまざまな解釈が可能だろう。

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』カルヴィン・リチャードソン、マディソン・ベイリー ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

英国ロイヤル・バレエ『ライト・オブ・パッセージ』マルセリーノ・サンべ ©2022 ROH. Photograph by Tristram Kenton

第1部「フライト・パターン」においては、初演キャストであるプリンシパル・キャラクター・アーティストのクリステン・マクナリーが、今回も旅の途中で赤ん坊を亡くした移民女性を熱演。赤子をあやすように前屈みになって小刻みに揺れる憂いに満ちた背中が、ソプラノ歌手フランチェスカ・チェジーナによる美しくも悲しい歌と合間って彼女の喪失の悲しみを雄弁に物語る。そのパートナー役のマルセリーノ・サンべによる嘆きのソロも初演時と変わらず力強かった(ただ、この5年の間にプリンシパルまで上り詰め、カリスマ性を発揮するようになったサンべは、群舞が主役であるこの作品の中で、今回良くも悪くも目立ち過ぎていたようにも思えた)。

人間が〈未知〉の領域に立ち向かうときの緊張感を振付の原点とすることが多いパイト。近年ロイヤル・バレエで上演される多様な作品の中でも、パイト作品ほど身体の動きを通じて〈私たちの時代〉に関するさまざまな問いを観客に投げかけ、観客とコミュニケーションを図ろうとする作品は多くはない。社会問題、公的文書や詩など、さまざまな事柄をインスピレーションとし、ダンスによってしか伝えられない感情を私たちの中に喚起するパイトは、劇場で舞台を鑑賞するという行為が能動的な体験であることをあらためて気づかせてくれる稀有な振付家と言えるだろう。

最後に、プログラムにあったパイト自身による言葉を引用したい。

「人間が集まって芸術作品を生み出し、人間がそれを目の当たりにするとき、それは希望と喜びに満ちた、パワフルな体験となります。私は、このような作品を世に送り出し、それを通じて人間同士を繋ぐことで、そこに未来への希望を見出せると思っています」

(*)上演時間正味1時間(第1部30分、第2部10分、第3部20分)なのでフルレングス作品と呼んで良いのかわからないが、今回は、第1部と第2部の間に休憩を挟んで、この1作品のみが上演された

(**)ナチス・ドイツの秘密警察本部のあった町の独房の壁に書かれていた少女による、「お母さま、どうか泣かないでください」という祈り

★次回更新は2022年11月30日(水)の予定です

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東京生まれ。東京大学大学院およびロンドン・シティ大学大学院修了。幼少より14年間バレエを学ぶ。大学院で表象文化論を専攻の後、2007年に英国ロンドンに移住。2009年より舞踊ライターとしての活動を始め、シルヴィ・ギエム、タマラ・ロホ、ジョン・ノイマイヤーをはじめとするダンサーや振付家のインタビューを数多く手がけるほか、公演プログラムやウェブ媒体、本、雑誌などにバレエ関連の記事を執筆、大学シンポジウムにて研究発表も行う。長年会社員としてマーケティング職に従事したのち、現在は一児の母として育児にも奮闘している。

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