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【マニアックすぎる】パリ・オペラ座ヒストリー〈第53回〉マリウスじゃないほうのプティパ、リュシアンの話

永井 玉藻

パリ・オペラ座――それは世界最古にして最高峰のバレエの殿堂。バレエを愛する私たちの聖地!
1661年に太陽王ルイ14世が創立した王立舞踊アカデミーを起源とし、360年の歴史を誇るオペラ座は、いわばバレエの歴史そのものと言えます。

「オペラ座のことなら、バレエのことなら、なんでも知りたい!」

そんなあなたのための、マニアックすぎる連載をお届けします。

  • 「太陽王ルイ14世の時代のオペラ座には、どんな仕事があったの?」
  • 「ロマンティック・バレエで盛り上がっていた時代の、ダンサーや裏方スタッフたちのお給料は?」
  • 「パリ・オペラ座バレエの舞台を初めて観た日本人は誰?」 etc…

……あまりにもマニアックな知識を授けてくださるのは、西洋音楽史(特に19〜20世紀のフランス音楽)がご専門の若き研究者、永井玉藻(ながい・たまも)さん。
ディープだからこそおもしろい、オペラ座&バレエの歴史の旅。みなさま、ぜひご一緒に!

イラスト:丸山裕子

🇫🇷

今年も9月27日の開幕ガラ公演によって、新しいシーズンの幕を開けたパリ・オペラ座バレエ。恒例のデフィレ、ジュニア・カンパニーの踊りとともに、今シーズンの上演のトップバッターを飾ったのが、9月28日から10月31日まで上演された《ジゼル》です。「唯一生き残ったロマンティック・バレエ作品」と言われるこの作品、ジゼルの愛と狂気があの世とこの世を交差する様子に涙し、アルブレヒトの(結果的には)裏切りと自己管理能力の無いすっとこどっこいっぷりに「この男はッ」とグーパンチを準備したくなるいっぽうで、演じるダンサーが素敵であれば、「まあいっか」と舞台に集中してしまう、19世紀オペラ座バレエの名作の一つです。

この作品について話すときには、どうしてもタイトルロールを演じたカルロッタ・グリジか、振付のジュール・ペローの存在にフォーカスしてしまいがちなのですが、1841年の《ジゼル》の初演でアルブレヒト役を踊ったダンサー、リュシアン・プティパも、作品の成功に貢献した重要な人物です。しかも、彼は19世紀半ばから後半にかけてのオペラ座バレエを代表するノーブルダンサーの一人であり、当時はフランスのみならずヨーロッパ中で名声を博していました。では、現在では偉大な振付家の弟、マリウス・プティパの陰に隠れてしまったこのお兄さんは、オペラ座バレエでどのような生涯を送ったのでしょうか?今回は《ジゼル》の初代アルブレヒト、リュシアン・プティパについて、ナディーン・マイスナー著作の『Marius Petipa The Emperor’s Ballet Master』などを参照しながらご紹介します。

リュシアン・プティパ Lucien Petipa(1815-1898)

芸能一家の少年、パリ・オペラ座へ

ジョセフ・リュシアン・プティパは1815年12月22日、フランスのマルセイユで生まれました。父はダンサー兼振付家のジャン=アントワーヌ・プティパ、母もまた女優という、舞台芸能一家です。3年後には弟のマリウスが生まれ、リュシアンは幼い頃から弟とともに、父の指導を受け研鑽を積んでいきました。初舞台はベルギーのブリュッセルでのことで、その後、フランス南西部のボルドーに移動すると、一気に才能を発揮するようになります。

リュシアンにとって転機となったのは1836年、当時のヨーロッパで絶大な人気を誇っていたバレエダンサーのファニー・エルスラーが、ボルドーに客演したときのことでした。リュシアンは、父が演出したバレエ《ナタリー、またはスイスの乳しぼりの娘》で、今をときめくエルスラーの相手役を務めたのです。

その3年後の1839年6月10日、リュシアンはパリ・オペラ座の舞台にデビューします。演目はロマンティック・バレエの代名詞である《ラ・シルフィード》。エルスラーをシルフィード役に、リュシアンはジェームズを踊るという華々しいデビューを飾ったのでした。そして、このデビュー公演は、オペラ座におけるリュシアンのキャリア路線を、あっという間に作り上げていきます。彼の「心地よい容姿、優雅さ、そして軽やかな跳躍」は、観客と劇場経営陣の心を掴み、批評家たちも彼の「知的で情熱的な」マイムと、「大胆かつしなやかな踊り」を絶賛。リュシアンは即座にオペラ座との専属契約を結びます。

初代アルブレヒトとして

パリ・オペラ座に彗星のように現れたノーブルダンサーのリュシアンが、その地位を確固たるものにしたのが、1841年初演の《ジゼル》でした。初代ジゼルを踊ったのは、同じくこの《ジゼル》でスターダンサーへと駆け上がったカルロッタ・グリジです。リュシアンはグリジをはじめ、マリー・タリオーニ、ファニー・エルスラーといった当代きってのダンサーたちの信頼できるパートナーとして、ロンドン公演などでも成功を収めました。特に、ロマンティック・バレエ時代の象徴的ダンサーだったタリオーニが、自身の代表作《ラ・シルフィード》の引退公演時(1844年)のパートナーに彼を選んだことは、リュシアンのダンサーとしての評価の高さを物語っています。

注目すべきなのは、女性のスターダンサーが注目されやすいこの時期に、テオフィル・ゴーティエのような熱狂的女性ダンサーファンまでもが、リュシアンを絶賛している点でしょう。ゴーティエは、ジャン・コラリ振付の《ラ・ペリ》(1843年)でのリュシアンの踊りについて、次のように書いています。

「彼は自身のバレリーナに対し、いかに献身的で注意深いことか。そして、いかに見事に彼女をサポートすることか! 彼は自分自身に注目を集めようとはしない。(中略)非常に知的なマイム役者である彼は、常に舞台を支配し、些細なディテイルも見逃さない。それゆえ彼の成功は完璧であり、あの賞賛すべきパ・ド・ドゥが生み出した喝采の、正当な分け前を要求することができる」

こうした、巧みな女性ダンサーへのサポートと、相手役を美しく見せることへの注意、そしてダンサーとしての知性が、リュシアンが多くの女性スターダンサーから相手役にと望まれた理由だったのでしょう。

キャリアの終焉

ダンサーとしてオペラ座の頂点を極めたリュシアンは、振付も手がけるようになります。1855年にオペラ座で初演されたジュゼッペ・ヴェルディのオペラ《シチリアの晩鐘》のバレエシーンや、1861年にフランス初演されたヴァーグナーの《タンホイザー》で、大スキャンダルを呼び起こすことになるバッカナールのシーンを振付けたのもリュシアンでした。また、1860年にはパリ・オペラ座のバレエ・マスターに就任し、バレエ団全体の責任者としても活動することになります。

ところが1868年、彼のキャリアは突然の終わりを迎えました。この年の夏、リュシアンは狩りの最中に事故に遭ったと考えられており、おそらくこの事故が原因で、病気に倒れてしまったのです。彼の妻のアンジェリークによる雇用延長の嘆願にもかかわらず、オペラ座の経営陣は、長年オペラ座に貢献してきたリュシアンに対し、非情にも解雇を言い渡しました。

その後のリュシアンは、父もかつて監督を務めたブリュッセルの舞踊学校で少し仕事をし、1881年からはパリ・オペラ座に新設されたマイムのクラスを受け持つなど、指導者としてバレエ界に留まります。しかし、ヨーロッパを代表するノーブルダンサーとしての栄光が完全に戻ることはなく、リュシアンは1898年7月7日に、ヴェルサイユで82年の生涯を閉じました。

弟のマリウスとは対照的に、リュシアンが振付けた作品は今日一つも残っていません。しかし、男性ダンサーが「女性ダンサーを持ち上げるだけ」だった時代に、気品と卓越したパートナーリングの技術によって、リュシアンは間違いなく、時代を代表する男性バレエダンサーでした。彼が踊った《ジゼル》のアルブレヒトは、今なお世界中の男性ダンサーが挑み続ける役の一つです。弟ほど頻繁に語られることはなくとも、リュシアン・プティパという「貴公子」がいたからこそ、ロマンティック・バレエはその美しい輝きを放つことができたのかもしれません。

参考資料

Meisner, Nadine. 2019. Marius Petipa The Emperor’s Ballet Master. New York, Oxford University press.

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1984年生まれ。パリ第4大学博士課程修了(音楽および音楽学博士)。専門は西洋音楽史、舞踊史。現在、音楽と舞踊動作の関係をテーマとした研究を行うほか、慶應義塾大学、白百合女子大学他で非常勤講師を勤めている。

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