ベジャール・バレエ・ローザンヌ(BBL)のスターダンサーとして世界中の舞台で活躍。
現在はBBL時代の同僚であった奥様のクリスティーヌ・ブランさんと一緒に、
フランスの街でバレエ教室を営んでいる小林十市さん。
バレエを教わりに通ってくる子どもたちや大人たちと日々接しながら感じること。
舞台上での人生と少し距離をおいたいま、その目に映るバレエとダンスの世界のこと。
そしていまも色褪せることのない、モーリス・ベジャールとの思い出とその作品のこと−−。
南仏オランジュの街から、十市さんご本人が言葉と写真で綴るエッセイを月1回お届けします。
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さて、2020年5月11日から外出禁止が徐々に解除されていくフランスですが、まだ僕らのような習い事のお教室は再開できないようです。なので引き続きクリスティーヌと僕のスクールは、オンラインでレッスンをしていきます。
先月28日、〈上野の森バレエホリデイ@home × バレエチャンネル〉のオンライン・バレエレッスンではたくさんの方に受講していただきましてとても嬉しかったです! ありがとうございました!
なんだか面白いですよね、自宅にいながら、こうしてみなさんとレッスンできるって。まあもちろん実際にスタジオでレッスンしたほうがいいのはわかっていますが、こういう状況下ではありがたいことかなと。
その〈上野の森バレエホリデイ@home〉では、ダンサーたちの対談配信がいくつかありましたね。僕もいろいろなコンテンツを楽しませてもらったのですが、その中でも山本康介くんと高田茜さんの対談を見ていた時に、ふたりの間で質問が交わされるたび、心のどこかで「僕はこうだな……」と答えながら見ていてた自分がいました。それで「あっ、そうだ、次の連載ではこれを書こう!」と思いまして……。
ということで今回は、その時に出されていた質問に一つひとつ答えていく「一問一答」スタイルでお届けします!
Q1 初めて出会った時の印象は?
対談は、康介くんと茜さんがお互い初めて会った時の印象を聞き合うところから始まりました。
……なのでこの質問は、僕が康介くんや茜さんと対談しているわけではないので不要なのですが、でもこのふたりには僕も実際に会っているので、その時の印象を書いてみます。
僕が康介くんに初めて会ったのは、新国立劇場の客席でした。あれは確か後輩の古川和則くんが『ペンギン・カフェ』という作品でシマウマ役を踊っているのを観に行った時だったか?
康介くんはバーミンガム・ロイヤル・バレエを辞めて日本に戻って来たばかりの頃だったでしょうか?
彼とは初めてだったのに話しやすく、すぐに仲良くなれそうな感じがしました。実際わりとすぐに仲良くなり、いまも良きお友達として結構なんでも話せるし、いろいろお世話にもなっています。
茜さんは東京バレエ団のスタジオでお見かけし、挨拶をさせていただいたのが初めてでした。怪我からのリハビリ後?の自習中っぽい感じだったかなあ? 物静かな雰囲気の中にある気品、そして真っ直ぐな人柄であることは、広いスタジオの中で遠巻きに見ていても感じられました。
Q2 バレエを始めたきっかけは?
僕がバレエを始めたのは母の命令です(笑)。「影響」でも「勧め」でもなく「命令」。
子どもの頃はわりと絶対服従的なところはありましたね。母は離婚をして弟と僕を連れて実家へ戻ったわけですが、父親という存在がいない中で強い母を演じていたのかもしれません。まあ弟も僕も「祖父」という大きな存在がありましたから、母はそんなにがんばらなくても良かったのでは? といまになって思いますが、とにかく僕は小さい頃からアウトドア派で家でじっとしている子ではなかったので、その有り余る力を母が大好きだった「バレエ」にと、やらされたのでした。
Q3 バレエへの想い。将来に向けてどんなヴィジョンを持っていたか?
僕は小林紀子先生の元で7年間バレエの基礎を学び、RAD(ロイヤル・アカデミー・オブ・ダンス)のメソッドでの試験やコンクルールを経て、SAB(スクール・オブ・アメリカン・バレエ)へ留学することになりました。さて、なぜSABだったのか?
僕は紀子先生のところでわりとどっぷりRADに浸かります。4年間のレッスンと試験。冬季講習会、夏季講習会(2年連続スカラシップ受賞)、コンクールにはフィリスベデルス賞(最優秀賞)とアデリンジェニー賞(金賞)の2度出場しました。アデリンジェニー賞のあとは、誰もが「次はロイヤル・バレエ・スクールに入るかな?」と思っていたようです。それが、1986年のローザンヌ国際バレエコンクールで、その時の審査員だったパオロ・ボルトルッチに「君はバレエをやる体型ではない、でも踊りが好きならばコンテンポラリーの道へ進んだほうがいいのでは?」と言われ、準決選で落とされます。「落とされる」という表現はいまの時代にふさわしくないかもしれませんが、当時は結構「勝者と敗者」的な部分はありました。そしてその時いちばんショックを受けたのは紀子先生だったかもしれません。僕自身は「クラシック・バレエは辞めろ」と言われてもバレエが大好きだったので、落ち込むというよりはもう次の展開のほうに気持ちが向いていた気がします。進むべき場所はイギリスではなく、大好きなバリシニコフがいるニューヨークだ! と。
母も「学業がパッとしないこの子にはバレエしかない」と覚悟を決めていたようで、では一流のダンサーになるには一流の学校へ……と、SABの門を叩くことになります。
何も言わず送り出してくれた祖父に感謝するばかりです。それに応えるには僕が頑張るしかないわけです。1986年の5月14日にスクールに入るオーディションを受けました。7月がシーズン終わりで9月から新学期ですから、オフィシャルのオーディションは終わっていました。オーディションには他に女の子1名と僕のふたりっきりでした。トゥムコフスキーという女性教師がレッスンを見てくれて、それも右側プリエ、左側バットマン・タンデュというように超高速クラスで、バーを終えたら女の子はポワント、僕は回転とジャンプという約20分くらいでレッスンのすべてをやる感じで終わり、女の子は8月にある夏季講習に来て良いと言われていて、僕はなんと「シーズンがもうすぐ終わるけれど、終わるまで来週からレッスン受けていいよ」と!
5月20日がその初めてのSABのレッスンでした。男性だけでざっと40人くらいいたでしょうか? そしてその2日後の22日に、あのバリシニコフがレッスンを受けに来たのです! 初の生バリシニコフ! もう全然レッスンに集中できない(笑)。ずっと見てました(ストーカー)。
Q4 留学中のエピソードは?
SABの1年目は、ローザンヌ国際バレエコンクールで一緒だった中村かおりさん、オランダ出身のリディア・ハームセン(僕は彼女が好きだった)、それにジュリー・ケント。でもジュリーさんはすぐにアメリカン・バレエ・シアターにスカウトされそっちへ行ってしまいました。
3年間いたわけですが、エピソード、エピソードねえ? 17歳から20歳までの3年間ですよ、想像してみてください、もう毎日がエピソード(笑)。
SABの学生はNYCBの公演を無料で観られます。シーズン中はしょっちゅう観に行ってました。その時にバランシンとロビンスのレパートリーをかなり観ました。そして堀内元さんがプリンシパルで踊られていて自慢の先輩でした。
当時、まだバリシニコフがABTの芸術監督を務めていました。ある朝、学校へ行くと男性生徒たち全員が「バリシニコフがバレエ団員を探しに来るらしい」という噂話をしていて、実際午後に彼がクラスを見学しに来ました。僕はこれでもか! というくらいエクササイズを繰り返し、持ち合わせのテクニックを最大限に使いアピールをしたのですが、彼が探していたのは背の高いコール・ド・バレエに合う人材でした……。
3年目の卒業公演の稽古中
それでもその時に変な東洋人として印象を残せたようで、後日、といってもそこから10年後の1997年、バリシニコフがベジャールさんに『ピアノ・バー』という作品を創ってもらっている時にローザンヌのスタジオで挨拶をしたんですけど、「SABにいたんです!」と言ったら「覚えているよ」と。嘘でもなんでも嬉しかったですね。
Q5 なぜベジャール・バレエへ?
バランシンが踊りたかった!
3年間、バランシンを踊るため、NYCB(ニューヨーク・シティ・バレエ)で踊るための訓練を積んできたわけです。そりゃあみんな、できることならNYCBに入団したい! しかし厳しい競争の世界です。ちょうど2年目の終わる頃にクラスメイト数人がすでにNYCBとの契約を交わしていました。僕は焦りましたね、その時。なので直接ピーター・マーティンス芸術監督に話をする時間を作ってもらいました。彼いわく「十市はコール・ド・バレエには背が足りない。テクニシャンだが、僕にはもう数多くのソリストがいる。仮に入団したとしても、踊る機会がまわってこないだろう」と、遠回しに断られました。結局母に「石の上にも3年っていうでしょう、とりあえず学校に3年はいなさい」と言われ3年目も残る決意をし、そしてその年の終わりにベスト・スチューデントの証として賞をもらうのですが、それでもNYCBには入れませんでした(賞をもっらた4人中2人が入団した)。アメリカ国内の他のバレエ団のオーディションも受けましたがダメでした。でもその時点で日本に戻る選択はなかったですね。そして
「ベジャールはどうなの?」
母のこのひと言が、その後のすべてにつながるのでした。
Q6 ベジャール・バレエの印象/ベジャール・バレエでの生活は?
僕が初めて観たベジャール・バレエの公演は1982年の来日公演での『エロス・タナトス』でした。その後1985年の来日公演での『ディオニソス』に衝撃を受けたのですが、当時の僕にとってのベジャール・バレエは、ジョルジュ・ドン、ミッシェル・ガスカール、ジル・ロマン……大人の男たちが踊るスーパーメジャーカンパニーという印象でした。それでもまだその頃はアメリカン・バレエ・シアターの『ドン・キホーテ』とか映画「愛と喝采の日々」のバリシニコフが頭を占めていました。
1988年のベジャール・バレエと東京バレエ団の合同公演「パリー東京」での玉三郎さんがゲスト出演した舞台はテレビで放映され、母が録画ビデオを送ってくれて、ベジャール・バレエに入団が決まった1989年の春が過ぎた頃にニューヨークで観ました。入団した当時は入れ替えが激しいバレエ団でしたが、「パリー東京」で見たメンバー、ローザンヌで個人オーディションした時に会ったメンバーはほぼそのままで、ドンさんもまだいたし、やはり“大人の男たち”という雰囲気はありました。何といってもベジャールさん自身もまだ60ちょっと過ぎでエネルギーに満ちあふれていたことも印象に残っています。
1989年のシーズンの始まりは1ヵ月間のブラジルツアーからでした。シーズンが始まり3週間で8つの作品を覚えなければならず朝から晩まで踊りっぱなしの生活がスタートしたのです。バランシン・スタイルを3年間学んだ僕が何の違和感もなくスッと『春の祭典』とかできてしまったのは、ローザンヌ・コンクールで言われた「クラシック・バレエを踊る身体ではない」おかげだったのかもしれません。僕はニューヨークからローザンヌへ引越しをして、まだアパートが見つからずホテル暮らしでした。
「Mr. C」のネコの稽古中
そのツアーへ出る前の3週間、『春の祭典』がなぜか必ず1日の最後にある稽古でした。違和感なく踊ることができたといっても大変な作品でした。ローザンヌは坂の街で、この筋肉痛の体でどう坂を上るかが毎日の課題でした(笑)。
覚えた作品は『春の祭典』『1789…そして私たち』『ピアフ』『ディオニソス(抜粋バージョン)』『マリオネットの生と死』の黒子、『アレキサンダー』『火の鳥』の鳥たち、『パトリス・シェローとエヴァ・ペロン』と、じつに忙しい日々でした。
「1789…そして私たち」第8シンフォニー。真ん中に写っているのが僕で、その右側後方にミッシェル・ガスカールがいます
各作品ごとで色々なエピソードもあるのですが、それはいつかということで。
Q7 バレエで心がけていることは?
若かりし頃は、とくにありませんでしたね。入団した当時20歳で、バカで踊って遊んで、という感じでしたから(笑)。
当時のベジャール・バレエは60人以上のダンサーを抱える大きなバレエ団でツアーばかりでした。僕はまだその他大勢の群舞を踊っているだけの若さ爆発ダンサーでしたからね、行く先々で公演後も夜は遊びに行っていた疲れ知らずの若者でした。最初のシーズン前半くらいでしたけどね、遊んでいたのは。でも浮かれている時間はなく1年目の冬のローザンヌ公演中に急に『1789…そして私たち』で大きな役を代役で踊ることになり結構大変だったのと、同じ時期に『春の祭典』の若者も踊ることになり、ミッシェル・ガスカールとダブルキャストっていういまでも信じられないことがありました。そして2年目に『火の鳥』のタイトルロールを与えられてだんだんと重要なパート踊ることが増え、21歳から23歳の頃は肉体と精神バランスが不安定で結構荒れてる時期でしたね、いま思うと。
「春の祭典」(若者)。これは入団当初ではなく1998年に再演した時の写真です
それが変わったのは、やはりバレエ団が縮小されたり、『M』で東京バレエ団にゲスト出演したり、ジルのアシスタントとしてリハーサルを受け持つとか結構責任あるポジションにつくようになったりして、いろいろなことを考えるようになってからです。とくに教えながら自分も踊るということは、ある意味お手本というか見本なわけです。入団当時とは違って人数も少なく、作品でも重要な役を与えてもらっていたので、自分の体調管理というか舞台前の姿勢として態度で示すというか先頭切って行く感じ。そういうふうに僕は実際に行動して結果を出すタイプだったんですけど、怪我をしてから少し変化がありました。ただ純粋に「踊りたい」。どんな作品でもどんな役でも役がなくてもいいから「踊りたい」。舞台の上で舞台の空気を感じたい。「いま」を踊ることができること、「いま」を感じることを大切にしたい。と思うようになりました。
でも、そこからの現役期間が短かった。ちょっと残念でした。
Q8 次のスッテプへのヴィジョンは?
さて、ベジャール・バレエを退団してから演劇時代のことはここでは触れず、いま、南仏でバレエを教えている身として、今後をどう見据えているか?
公の舞台に立ったのは5年前、近藤良平さんに誘われた舞台でした。あの時は本当に楽しかった! やはり少しずつでもベジャール作品以外を自分も踊れるのだ! という実績を積みたいという気持ちがあります。「元ベジャールダンサー」から「ダンサー」小林十市になるために。もちろん、踊りに関わる限り「元ベジャール」という肩書はついてまわると思うのです。消そうにも消せないでしょう? だってそうなんだもん(笑)。日本人でベジャールさんにいちばん多く作品を作ってもらった男なのだから。
Q9 今後踊ってみたい作品は?
なので、そうですね、いま51歳で持病の腰痛を抱えながら限られた身体条件でどこまで踊れるのか? それを知りたいですし、そこを理解してくれる振付家に出会えたら最高だと思うんですけどね……。やはり舞台に立ちたいという想いはあるのです、まだ。なのでとくに「これが踊りたい」というのはないんですけど、もしかするとベジャールさんのことを知っていて、そこで踊っていた僕のことも知っている金森穣くんと一緒に仕事ができたら!?! とかは考えちゃいますね(思いっきり地味にアピール)。
Q10 役から学んだことは?
「役」……なんか、ひたすら「自分」でした(笑)。
『シルクロード』という作品でフビライ・ハーンの歴史を少し学びましたが、それをどう踊りに活かしてとかはなかったです。あとは……え?「ネコ」?(笑)
人っていろいろな面を持っているじゃないですか? それをひとつずつ引き出していく感じかもしれないです。とくにベジャール作品を踊っていると「役」や「自分以外の何者か」ではなく「違う色の自分」とか、そんな感じ。
Q11 いま、自分にできることは?
舞台に再び立ちたいという思いがあるので、体を鍛えることでしょうか。
理想はバレエ団でレッスンを受けることなのですが、いつも自主練です。
ちょっと限界はありますね。できる範囲と言いますか自分で出すエクササイズをやるだけというのは。やはり第三者が出すエクササイズで周りに人がいないとダメです。
先日の〈上野の森バレエホリデイ〉でのレッスン中、受講者の方から「左側も一緒にやってお手本を見せてください」とリクエストされ、その言葉になぜか「ああ、見られているのか」と。「見られている」いう感覚が身を引き締めると言いますか(笑)見られる、見られているは別の意識を生むわけでトレーニングには適しているように思います。
まあ、なので舞台で踊る夢を見ながら鍛えることですかね、自分は。
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ひとり「一問一答」は以上です。
長くなりましたが読んでくださりありがとうございました!
2020年5月15日 小林十市
★次回更新は2020年6月15日(月)の予定です