ロシアで最も長い伝統を誇り、“クラシック・バレエの父”マリウス・プティパが活躍したことでも知られる世界最高峰のバレエ団のひとつ、マリインスキー・バレエ。
創立から間もなく300年が経とうとしているこの名門カンパニーに、2013年、日本人として初めて正式入団を認められたのが、石井久美子さんです。
写真提供:石井久美子さん
入団以来、主要な役を任されるなど活躍を続けている石井さんですが、最近ではSNSやYouTubeでの発信も大きな話題に。自分の考えを自分の言葉ではっきりと表明する姿勢や、これまで身をもってつかんできたバレエの知識をわかりやすく伝える動画の数々が、たくさんのバレエファンに力を与えています。
その石井さんが、3月下旬にロシアから急遽日本へ一時帰国。その帰国の理由や、SNS等での発信に込めている思い、そしてロシアでの暮らしについて、インタビューをしました。
取材・撮影協力:ViTO西新宿店
私服写真撮影:Ballet Channel
一時帰国を決めた理由
- 3月19日、石井久美子さんはSNSを通じて「コロナウィルスの影響で明日急遽日本に帰国することになりました」と発信、翌日帰国しました。今回の一時帰国を決めたのはご自身の意思ですか?
- 石井 そうです。ロシアでも新型コロナウィルスの影響は日々大きくなってきていて、私自身も3月に入ってから2回ほど、アジア人であることを理由に街で差別的なことをされたんですね。「お前コロナだろう!」と握り固めた雪つぶてを投げつけられたり、後ろから腕を引っ張られて突き飛ばされたり。モスクワでも、2人の日本人学生が地下鉄構内で警察に抜き打ちで体温を測られて、検査結果が陰性だったにも関わらず隔離されたままなかなか解放してもらえなかった、という報道もありましたよね(参考記事はこちら)。そうした状況が立て続けに起こるなかで、自分の身を守るためにはいま帰国するしかない、と考えました。
- 所属しているマリインスキー劇場からは何か指示があったのでしょうか?
- 石井 最初にマリインスキー・バレエのファテーエフ芸術監督に相談した時には、「流行の度合いを考えると、いまは日本に帰るよりもロシアのほうが安全なのでは」と言われました。でも、先の日本人学生のように“差別”を疑いたくなるような出来事があったりすると、万一感染してしまった場合に、日本人である私はロシアで本当に平等な治療を受けられるのかな……?というのも不安で。そうしたことを率直に監督に伝えたところ、最終的には「この危機的状況において何がベストな選択なのかは、もう僕にもわからない。だから君たちの判断で決めなさい」と。それで同僚の永久メイちゃんと相談して、一緒に帰国することにしました。空港までの道のりすらひとりで行動するのは危険だったので、ふたりで一緒に。
- とくに3月上旬〜中旬の頃は、他の国でも日本人ダンサーたちが「酷い言葉を投げつけられた」「暴力的な扱いを受けた」といった発信をしていて、本当に胸の痛いことでした。
- 石井 実際にそういう目に遭うと、やはり傷つきますよね。すごくびっくりしますし。でもロシアに関しては、普段からまったく知らない人にでも普通に声をかけるというか、知り合いでも何でもないただの通りすがりの人同士がコミュニケーションをとるような国民性があります。例えば押しボタン式信号のところに立っていると「ねえ、その信号のボタン押してる?」と声をかけられたり。だから見ず知らずの人であろうと「あのアジア人はもしかして……」と思ったら、いきなり接触してきて腕をつかんだり突き飛ばしたりもする。見知らぬ他人とコンタクトをとることに対して、心理的なハードルが低いのだと思います。
- マリインスキー・バレエには他にも外国籍のダンサーが所属していますが、彼ら・彼女らはどうしているのですか?
- 石井 私たちと同じように自国に帰ったダンサーは何人もいます。ただ、韓国出身のキム・キミンなどはロシアにいたほうが安全だからと残っていますし、イタリア人ダンサーは故郷の家族から「こちらは危ないから帰ってこないで」と言われたと。家族のことが心配だと泣いていました。
- いまは大勢の日本人ダンサーが海外で踊っていますが、そういったダンサーたちとコンタクトを取ることはありますか?
- 石井 私はあまり交友関係が広くないのでほとんど交流はないんですけど、アメリカのヒューストン・バレエで踊っている飯島望未ちゃんとはやり取りをしています。私たちはお互いちょっと似たところがあって、気が合うんです。社交辞令的なことが言えないところとか、愛想よく人の輪の中に入っていけないところとか(笑)。望未ちゃんもいま劇場が閉鎖されてしまっていて、インスタライブをやったりしているので、私も時々そこに遊びに行っています。
率直なSNS発信、こだわりのYouTube動画
- SNSと言えば、久美子さんはTwitterやInstagramでの発信も活発ですね。本当に気持ちいいくらい率直な言葉が並んでいて、飾らない人柄が伝わってきます。
- 石井 私は書きたいと思ったら何でも全部書いちゃうので。日本人ダンサーの多くは子どもの頃から「お行儀良くしておくこと」を大事に教えられると思うのですが、私にはそれが大きなストレスになってしまうんです。「いい子」にしているのがどうしても無理。だから母には「あなたのTwitterは見ないようにしてる。何を書いているのか知るのが怖いから」と言われています(笑)。
- (笑)。でも、石井久美子さんというのは嘘がなくて正直な人なんだな、ということがすごく伝わってきます。
- 石井 これはオープンにしていることですが、私は発達障害の一種であるADHD(注意欠陥・多動性障害)を持っているんですね。「これを言いたい!」「これをやりたい!」となると、もうその一点に集中してしまって他のことには注意を払えなくなる。そのためにできないこともあるけれど、あまりネガティブには思わないようにしています。「これだ!」ということに向かう集中力はそのぶん高いとも言えるので。
- まさに、その集中力や率直さは久美子さんならではの稀有な個性だという感じがします。そしてその個性が遺憾なく発揮されているもののひとつが、いまやバレエファンの間ではあまりにも有名な、久美子さんのYouTubeチャンネルですね! YouTubeを始めたきっかけについて、久美子さんは先日、私たちバレエチャンネルの取材に対してこのように話してくれました:
将来日本で自分のスタジオを開いて、マリインスキーに行けるダンサーを育てることが、絶対に叶えたい私の夢です。知識もたくさんあり、やり方をしっかり説明でき、実際に正しい使い方を見せながら教えることが私にはできます。
……ということを今のうちにバレエ界の方々に知ってもらいたい、将来の自分のためにと、そう思って発信を始めました。
ーー〈バレエチャンネル〉2020年3月21掲載記事より
石井 「将来の自分のために」と言っても、例えば“バレエダンサーの寿命は短いから、先生になることをいまから考えている”とか、そういうことではないんです。バレエを教えることじたいは、個人レッスンですけど、もう5〜6年前からやっています。私は自分が踊ること以上に、教えることが本当に楽しいし、自分に向いているとも思う。だから、将来バレエの先生になることは、純粋に私の夢です。もちろん最初は、自分が長年かけて、本当に苦労して身につけてきたものを、YouTubeで簡単に教えてしまうことに抵抗がありました。でも、教えたところで、本当にそれをやりきれる人はほとんどいない。1番ポジションで立つだけを1時間やれる人なんて、まずいません。逆に言えば、それをやりきれる人だけが残っていく。そのことに気がついてから、自分が知っている情報は何でも公開してみようと思うようになりました。
- でも、あれだけの動画を作るのは大変ではないですか? 私たちバレエチャンネルも動画コンテンツが多いので、動画を撮影・編集する作業の大変さを日々感じているのですが……。
- 石井 やばいです(笑)。「つま先の伸ばし方」とか「アン・ドゥオールの仕組み」とか、そういう“知識系”の動画だと、1本あたりまず内容作りに15時間以上、パソコンでの編集作業に20時間以上。つまり最低でも35時間くらいはかかります。
- いったいどうやって日々の仕事と両立を?!
- 石井 毎日レッスンとリハーサルがあってそのあとは本番なので、合間の時間とか、本番が終わった後とか、すきま時間を見つけてやっています。お休みの日なんて、15時間くらいずっとパソコンに向かってますね。食べることも忘れて。とにかく内容を考えるところから撮影・編集まで全部ひとりでやっているので。言いたいことがいっぱいありすぎてどうやってまとめればいいのか考えのも大変だし、もう毎回頭がパンクしそうです。
- 動画の内容や作り方でこだわっていることは?
- 石井 私、知識系の動画はきちんと順序立てて発信しているんですね。まず最初に知るべきことから、順番に発信をしています。だから、興味のある動画だけを単発で見るのではなく、私がYouTubeチャンネルに公開した順に、最初から見ていってほしいです。
ロシアでの生活
- いまは非常事態ですが、ロシアでは毎日どんな生活を送っているのですか?
- 石井 朝起きたら、まず自宅で足湯をして、ストレッチをしてから劇場へ。そして朝のウォーミングアップ・クラスを受けて、そのままリハーサルに入って、夜は公演ですね。公演が終わったら帰宅して、そこからまた体のケアをして、就寝。もちろん、すきま時間があれば動画の配信や編集作業をしています。毎日毎日、そんな感じです。
- 朝は足湯から始まるんですね!
- 石井 去年のことなのですが、足が変形性関節炎になってしまって、いまでもレッスンで筋肉や関節が温まるまでは少し痛みがあるんです。なので、熱めのお湯に20分くらい足をつけて筋肉をほぐしてからストレッチをするようにしています。こうすると体も温まるし、免疫力も高まるし、一石三鳥です。
- 食事はどうしていますか?
- 石井 朝はホエイプロテイン30gとビタミン剤、それからコーヒーを飲みますね。お昼は劇場で、ブロッコリーやジャガイモを山盛りいっぱいと、お肉やチーズなどのタンパク質をしっかり食べます。あとは糖質も。いろいろ試したのですが、私は糖質を摂らないとふらふらするんです。だから菓子パンとかカッテージチーズケーキみたいなものをちょっと食べるようにしています。そして夕方5時頃にも同じ量を食べて、2時間半後に公演。それで夜帰ってきてまたプロテインとビタミン剤を飲んで寝ます。
- ダンサーによっては、リハーサルや本番前にたくさん食べるとお腹が重たくて動けないと言う方もいますが、久美子さんはそういうことはないのですか?
- 石井 全然大丈夫です。自分の場合は何を食べたら体が重くなるかわかっているので、それを食べなければ平気です。何が合うか・合わないかは人によってまったく違いますが、私の場合は炭水化物、とくに麺類を食べると体が重くなりますね。本当はパスタとかいちばん好きな食べ物なんですけど。あとは塩分も大敵。体がすごくむくみます。
- しかし返すがえすも、それだけクラスもリハーサルも舞台もある毎日なのに、あれだけの動画を作っているんですね……。
- 石井 鬼しんどいですよ(笑)。でも、どんなに疲れていてもスイッチが入ると、クッと作業に集中できるんです。やっぱり好きなんですよね、動画を作ることが。こうして発信を続けていれば 、日本のバレエ界にとって重要な情報だということがいつかきっと伝わると思いますし。やっていて、とても楽しいです。
- 石井久美子 Kumiko ISHII
- 1994年、東京都生まれ。8歳でバレエを始め、東京バレエ劇場、橘バレヱ学校、祥子バレエ研究所、東京バレエ学校等で学ぶ。17歳よりワガノワ・バレエ・アカデミーに留学。同アカデミーで2年間学び、2013年卒業。同年マリンスキー・バレエに日本人として初めて正団員入団した。
- ●Twitter→ @kumikoshka0907
●Instagram→ @kumiiishiii
\お知らせ/
2020年4月3日(金)夜8時より、石井久美子さんのオンラインレッスンがYouTubeチャンネルにて配信されます!
➡️ https://www.youtube.com/channel/UC-LDo-K0bca_G1jl5yk5sFA