バレエを楽しむ バレエとつながる

  • 観る
  • 踊る
  • 知る
  • 考える

バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第4回〉ダンスにおけるセンター問題〜ヒエラルキーを無力化する戦い〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスにおけるセンター問題〜ヒエラルキーを無力化する戦い〜

前回まで2回連続で大幅な文字数オーバーが続いた。どうも「○○とダンス」というテーマだと長くなりがちなので、今回は少し目先を変えてみよう。

ダンス、というか舞台における「センター」の問題だ。
それはバレエであれば主役の二人が愛を語り、別れを告げる聖なる場所だ。主役が踊るとき、他の人々は舞台から去り、あるいは両脇に下がって主役の演技を見守るのみ。邪魔することは許されない。

「センター」は、また、様々なヒエラルキーを生み出す装置でもあった。そして現代のダンスは「センターを消失させる」ことで、舞台表現の幅を、さらに広げていったのである。
今回はその辺を見ていこう。

「舞台のセンター」と「物語のセンター」を消せ

●ジェローム・ベル『ヴェロニク・ドワノー』

センターに立つことが許されるのは、選ばれし者のみ。
そしてセンターが主役のための場所なのはバレエに限ったことではない。エンターテイメントも神事も基本そうだし、日本の某商業的女子タレント集団などは、センターを決める「総選挙」をテレビで放映したりする。馬鹿馬鹿しいが、「センター」こそ、集団におけるヒエラルキーの頂点であることを如実に示している。

パリ・オペラ座バレエなど多くのバレエ団にはダンサーに階級があり、主役を踊るのはトップの階級のダンサーだけ。彼らは主役以外の役を踊ることはほとんどない。厳然とした壁がある。
その残酷なまでの現実を裏側から描いたのが、ジェローム・ベル『ヴェロニク・ドワノー』(2004年)という作品だ。

これはベルがパリ・オペラ座バレエから依頼されたソロ作品で、演じるのはタイトルでもあるドワノー本人だ。彼女は長年同団のダンサーを務めたが、階級は3番目の「スジェ」である。群舞がメインであり、年齢制限規定のため、同団で主役を踊ることがないまま引退を控えている。

がらんとしたオペラ座のステージに練習着で登場し、センターに歩み出て、身の上を語りだす。彼女はついぞジゼル役を踊ることなく去るわけだが、もちろん振付は頭に入っている。ドワノーは曲を口ずさみながら踊ってみせるが、本当の曲で踊ることは、彼女には許されていない。

そして『白鳥の湖』の曲が流れてくると、彼女はじっとポーズを取ったままほとんど動かない。なぜならそれが、主役が踊っている間の「スジェ」への振付だからだ。そして、これこそが長い間ドワノーがパリ・オペラ座バレエで踊り続けてきた現実の『白鳥の湖』なのである。

理想と憧れ、そして現実。年齢と共に去らねばならないが、最後にこうした形で『ジゼル』をパリ・オペラ座のセンターで踊るドワノーの胸に去来する思いは、とても一言ではいえないだろう。

振付のジェローム・ベルは、とにかく議論を巻き起こす作品を作る男だが、本作は優しくダンサーに寄り添うと同時に、バレエという極限の美を実現するための現実と、その現実を超えるほどのバレエへの愛、そして今に残るダンサー間のヒエラルキーに対しても問題提起をしている。

もちろん素晴らしい舞台に群舞は欠かせないものだ。
現代バレエではドラマ部分も重要視されているので、主人公以外のキャラクターもしっかりと描かれるようになった。
必ずしも主役以外がおろそかにされているわけではない。
そしてダンサーの階級やヒエラルキーを堅守することが、クラシック・バレエを支える枠組みとして重要な役割を果たしていることもまた確かなことだろう。

しかしそもそもセンターが特別な場所でなければ、「主役とそれ以外」といったヒエラルキーは生まれないのではないか
あらゆるものを疑ってみるのがコンテンポラリー・ダンス。
舞台上から「センターという特別な場所」をなくしてみたらどうだろうか?

●「舞台のセンター」を消す

といっても物理的な「センター」はできてしまう。そこで「舞台上のセンターは特権的な場所」という意味づけを排除してみよう。
すなわち「舞台上は、どこも等価である」とすると……

〈舞台のセンターの「消失」で起こること〉
  • 「センターで踊る、特別な役割」つまり主役はいらなくなる。
  • 役割による物語やドラマも必須ではなくなる。
  • スターダンサーの超絶技巧で最後を締めくくる必要もない。

全員が一定以上の技術を有していて、舞台全体の演出を完璧に遂行できれば、それでいい。
即興もアリだが、その場合はウィリアム・フォーサイスやオハッド・ナハリンのように、「徹底的に自分のダンスのスタイルを刷り込んだダンサーたちによって行われること」が理想的ではある。

たとえばウィリアム・フォーサイス『失われた委曲』(1991年)は、舞台上のあちこちで様々なことが同時に起こる。雪のような白い粉が降り注ぐ中、踊り狂う者、走る者、そしてモップを持って掃除する者……
主役はおらず、ナラティブな物語もない。様々な場所で起こることは、どれがメインということもない。舞台上にチリひとつなさそうなバレエに比べると、さながらカオスである。

このカオスが何をもたらすか、それは追々語っていこう。

この続きは電子書籍でお楽しみいただけます

kindleで購入して読む
紀伊國屋書店 で購入して読む
Rakuten kobo で購入して読む
ebook japan で購入して読む
honto で購入して読む
AppleBooks 購入して読む
GooglePlay で購入して読む
セブンネット で購入して読む
BookLive で購入して読む
DMM電子書籍 で購入して読む
ブックパス で購入して読む
BookWalker で購入して読む
Yodobashi.com で購入して読む
AnimateBookStore で購入して読む
コミックシーモア で購入して読む
Renta! で購入して読む
※本ページはアフィリエイトプログラムによる収益を得ています。

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

もっとみる

類似記事

NEWS

NEWS

最新記事一覧へ