「もっと読みたい」の声に
先日このサイトで「バレエファンのためのコンテンポラリー・ダンス講座」を書いたところ、おおいに好評を得た。そして「もっと読みたい」という声が寄せられたのである。
クラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスのファンの間にはまだまだ見えない壁があるものの、「知りたい」という思いを抱えているダンスファンもまた、けっこういるという証しだろう。
要は、その垣根を越えて語ったものがなかったということなのではないか。
海外でも実情はそんなに変わらないが、日本と比べれば両者の垣根は格段に低い。
欧米のバレエ団の多くはコンテンポラリー・ダンス作品をレパートリーに持っている。パリ・オペラ座バレエなどはその最たるもので、国から巨大な予算を得ているぶん、「クラシック・バレエの継承」と「新しい才能の発掘」は団の重要な両輪として力を入れている。コンテンポラリー・ダンスの若い才能を積極的に登用して作品を委嘱してきた。
むろんコンテンポラリー・ダンスにおいて、バレエは最も重要なテクニックのひとつである。
舞踏やヒップホップや伝統舞踊、最近ではGAGAなど様々あるが、大きなダンスカンパニーでバレエのクラスがないところはまずない。本来バレエとコンテンポラリー・ダンスの親和性は高いはずなのだ。
「コンテンポラリー・ダンスはわからない」は本当か
バレエの人たちに限らず、コンテンポラリー・ダンスに苦手意識を持っている人たちの多くは「何をやっているのかわからない」「どこをどうやって見たら良いかわからない」という点ではないだろうか。
バレエのように、一本の揺るぎない芯があり、その上で様々な革新が行われてきたダンスと違い、コンテンポラリー・ダンスは、「ダンスとはこういうもの」だと思われていた「常識」を「本当にそうだろうか?」と一つひとつ疑い、ぶっ壊し、検証してきたダンスである。
なぜ音楽を使うのだろうか? なぜ動きを合わせる必要がある? そもそも動く必要があるのだろうか? 立つ意味すらないのでは? なぜ舞台上に居るの?
コンテンポラリー・ダンスは、そういう「身体と知性の実験」の積み重ねだ。
それはとてもスリリングな、胸躍る体験なのである。
いま注目の「コンテンポラリー・バレエ」も
もちろんバレエにもそうした革新はあった。バレエ・リュスの数々の作品、バランシンのプロットレス・バレエ、モダン・バレエと呼ばれたプティやベジャールの作品群。
そしてすでに目端の利くバレエファンならご存じの通り、現在は、アレクサンダー・エックマン、クリスタル・パイト、マルコ・ゲッケ等、時にコンテンポラリー・バレエと呼ばれる、バレエの特長を活かした若い振付家の一群が、次代を担う活躍をしている。
その「実験の経緯」こそ、人間がいかに身体を捉え、認識してきたかを物語るものだ。
人類が、いかに地球が丸いことを発見したか? 雷が神の怒りではなく電気であることを、風邪が悪魔の仕業ではなくウィルスによることを、仮説を立て、実験し、証明してきたか。それと同じような知的興奮が、コンテンポラリー・ダンスにはある。
クラシック・バレエとコンテンポラリー・ダンスが遠い存在であるわけがない。
コンテンポラリー・ダンスの知的実験の多くはバレエを出発点としているし、その検証もバレエという強固な技術体系なくしてはなしえないことだった。
そうした実例を一つひとつ解説しながら、バレエと共通の話題を通して、両者の理解を深めていきたい。「わからない」と思っていたことが腑に落ちるかもしれないし、「わからない、という理解の仕方がある」ということに気づくかもしれない。
それはバレエファンのみならず、コンテンポラリー・ダンスを見始めた人、興味はあるがどこから入ったら良いかわからない人、ダンスをもっと深く理解したい様々な人の渇きを癒やすことになるだろう。
そしてありそうでなかった、ダンス教育に大きく役立つものになるはずだ。
百年後のダンスのために
このお話をいただいたとき、編集部からは「若いバレエダンサーの中にはコンテンポラリーに興味を持っている人も多いのに、なかなか知る機会がない。彼らが5年後、10年後、世界に出て行くとき、今のままでは心許ないのではないか」という、大きな使命感をもってこの連載に臨んでいる覚悟を聞かされた。
オレも全力で臨みたい。百年後のダンスに役立つような、そういうものを書くよ。
次回予告
……で、連載第1回目のテーマは「キス」だ。
ほとんどが恋愛ストーリーのクラシック・バレエ。
結ばれた二人は、「キス」をするのか、しないのか?
コンテンポラリー作品では?
キスを通して「作品におけるリアリティ表現」を考えてみる。
★第1回は2020年3月10日(火)更新予定です