ベジャール・バレエ・ローザンヌ(BBL)のスターダンサーとして世界中の舞台で活躍。
現在はBBL時代の同僚であった奥様のクリスティーヌ・ブランさんと一緒に、
フランスの街でバレエ教室を営んでいる小林十市さん。
バレエを教わりに通ってくる子どもたちや大人たちと日々接しながら感じること。
舞台上での人生と少し距離をおいたいま、その目に映るバレエとダンスの世界のこと。
そしていまも色褪せることのない、モーリス・ベジャールとの思い出とその作品のこと−−。
南仏オランジュの街から、十市さんご本人が言葉と写真で綴るエッセイを月1回お届けします。
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牧阿佐美バレヱ団の芸術監督でいらっしゃる三谷恭三さんとジル(・ロマン。ベジャール・バレエ・ローザンヌ芸術監督)って同じ時期にモナコで学んでいるんですけど、その時にジルが三谷恭三さんに習ったといいますか教わった歌があるんです、日本の。タイトルも誰の曲かも僕は知らないのですが、昔ジルはツアー中にちょっとお酒が入って気持ちよくなってくると、その歌を歌い出すことがあったんですね(笑)。その歌い出しの歌詞が「悲しい時に♪」でちょっと恥ずかしそうに僕をチラッと見ながら歌うんですけど、だんだん乗ってくるんです(笑)。初めて聞いた時は「え!!」って思いましたよ、もちろん。それで三谷恭三さんから教わったという経緯を教えてもらったんです。なぜこのことを書くかというと、そのジルの歌う歌がたまに脳内再生されるからなんです。それがまさに今です(笑)。
ただ歌詞が自分の中で繋がらなくて断片的なので「どうしてもっと素直に♪」とか「わ〜たし♪」とか「行けなかった♪」とかジルの歌う言葉が途切れて浮かんでくるのですがその時のジルの顔は思い浮かぶので面白いなあって。(この話をしたことをジルに言わないでください!)
2013年、BBL(ベジャール・バレエ・ローザンヌ)に「中国の不思議な役人」の指導をしに行った時 ©︎Jessica Hauf
あとよく思い出すのが、ベジャールさんの作品で『Mr. C…』というチャーリー・チャップリンを題材にした作品で、オーディションの場面があるのですが、その時にダンサーたちが発した言葉とか台詞とかたまに独り言で喋ったりしてます。
何でしょうね? こういう記憶がふっと戻ってくるのって。
「Mr. C…」のカーテンコールから
まあ今は今回の連載に何を書くか? を考えているからなのですが、何だか今回はこのまま雑談で終わるかもしれません。前回の連載から私生活が淡々とし過ぎて何も話題がないんです。2月の冬休み明けから5週間経ちます。未だスタジオでのレッスンが出来ずオンラインクラスも6週目に突入しました。また数人の生徒が辞めて、月謝の払い戻しをしたりと状況はあまり良くありません。
先日、オランジュにある3つのスタジオ(コンテンポラリーのお教室と、元アヴィニョン・オペラ座出身の夫婦がやっているお教室と、僕たちオランジュバレエスクール)と、オランジュ市の劇場関係者とのミーティングがありました。発表会の日程は去年決めたまま動いていなくて、うちのスタジオは本番が2021年6月5日、6月2日が舞台稽古の日となっています。ただ政府がそれを認めるかどうか? の問題らしいです。それと6月17日にあるオランジュ市の音楽祭で、市庁舎前に舞台を設置し、この3つのお教室がそこでパフォーマンスできるということが決まりました。各お教室30分以内の作品で、ということで。元アヴィニョン・オペラ座にいた夫婦はここオランジュ出身で、オランジュでバレエ教室を始めて40年になります。彼らいわく、昔はただで劇場が借りられてローマ劇場でも踊ることができた。オランジュ市のイベントには必ずダンスも参加してたいのに最近は市役所は何もやってくれない! というところから今回の音楽祭の話に繋がりました。
今フランスでは外出可能な範囲が家から10km圏内でほとんど人にも会わずオンラインレッスンが毎日あり、ニュースは見ていますが自分の生活感覚がたまに麻痺した感じになって何をしていいいのか? これでいいのか? わからなくなる時があります。ただそれでも、悩んでも、立ち止まることはできないので。できないというか止まれないんですね自分は。心配性だから。だから何もしないで落ちるならどん底まで落ちろ! って思ってもできないんですそういうの……。
この1ヵ月間、週に2回か3回ですがジョギングを始めました。ジムに行かなくなって1年経ち、なのでたったの2kmなんですけどね、これが最初は大変でした。脛や股関節が痛くて。けれど続けていたら痛みも無くなり脈拍も落ち着き、太ももが少したくましくなった感じがします。なので続けてみてもう少しこの2kmになれたら距離を伸ばそうと思っています。それから走り終わった後に庭に置いてあるトランポリンでアントルシャ・シスをしています。内転筋、内転筋!(笑)
発表会用に作った振付の練習をリモートでやっているのですが、生徒たちの家の環境から動き回れない子もいるので、パズルのピースを組み合わせるみたいに一つひとつのパを説明し、つなげられる箇所はつなげて……という感じでやっています。生徒によっては踊れる場所が自分の部屋の狭いスペースしかなくて、その場で動かなければいけない子もいて大変です。小さい子たちの振りは完全にほぼその場で踊るものになってしまいましたが、オンラインレッスンに残ってくれている生徒は基本踊り好きな子たちなので、文句も言わずやってくれています。
フランスではワクチン接種が結構なスピードで行われているようですが、この事態の終息は見えないままです。
以上が現状です。あまり面白い報告ではないので、ここからまた少し思い出話を続けますね。
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ツアー中の夕飯はいつも外食でした。ツアーが長い場合はベジャールさんと食事ができる機会も多くありました(自分はそうだった)。モンペリエで公演中に一度ベジャールさん、ジル、舞台監督、ジェネラルマネージャー、そしてクリスティーヌと自分というメンバーでご飯に行きました。僕は通路側のテーブルの端に座っていたのでワインのテイスティングを任され、良いと思ったので「OUI(ウィ)」(フランス語で「はい」という意味)といい、そのワインがみんなのグラスにも注がれました。そして「乾杯」した後……!?! 舞台監督が「これブショネだよね」と。ブショネ(Bouchonne)とは細菌に汚染されたコルクが原因で起こるワインの劣化のことです。その後もちろんワインを取り替えてもらったのですが、なんかものすごく恥ずかしかったことを覚えています。
いちおう言い訳はあるんです(笑)。ワインの保存温度って16℃くらい? 冷えた感じがしたので見極めるのが難しかったという……悪しからず。
このワインはワイナリーを営む生徒さんの家から頂いたものです
イタリア・ヴェネツィアのフェニーチェ歌劇場では2回踊ったことがあります。いちばん最初に行ったのはまだバレエ団が大きかった時で、『ニーベルングの指環』を上演しました。2回目はバレエ団を縮小してから『中国の不思議な役人』『オペラ』『パ・ド・ドゥの芸術』というプログラムで踊りました。ローザンヌからは電車で行きます。乗り換えなしで約6時間くらいで行けるんです。2回目に行った時はちょうどカーニバルの最中でした。ヴェネツィアじゅうが仮装している人たちであふれ、地面はたくさんの紙吹雪で覆われていて、マスクを売っているお店、屋台、それらの写真を撮る観光客で賑わっていました。その公演中に一度ベジャールさんとご飯を食べに行ったのですが、その時はクリスティーヌと自分と他にもダンサー数人が一緒だったと思います。レストランまでの道中にたくさんのお土産やマスクを売っている屋台があり、そこでベジャールさんがその時いたダンサーたちみんなにマスクを買ってくれました。それがこの写真の物です。
左が僕が買ってもらったマスクで右がクリスティーヌの。この時の夕飯でベジャールさんが頼んだワインはピノグリージョというイタリアの白ワインでした。
なぜワインの名前を覚えているかというと、毎回イタリアでご飯を食べる時は、ベジャールさんは必ずピノグリージョを飲んでいたからです(僕の記憶では)。
例えば東京バレエ団の佐々木忠次さんだとカンパリオレンジというように。あれは2004年の東京バレエ団のヨーロッパツアーでのことでした。僕はベジャールさんに言われて、『ギリシャの踊り』とその他の振付確認的な指導をするために、イタリアのモデナ公演とドイツのヴォルフスブルグ公演に参加しました。モデナで佐々木さんと東京バレエ団の何人かのダンサーたちと食事に行った時、佐々木さんが飲んでいたのがカンパリオレンジでした。これもいまだに鮮明に目に浮かぶのですが、みんなが座っている長テーブルを、グラスを持った佐々木さんが楽しそうに行ったり来たりして、みんなに話しかけながら歩いている姿をよく思い出します。
今年の4月30日で佐々木さんが亡くなって5年経つんですね。
この写真、僕は何かの上に立っているんでしょうか? 背の違いが変ですよね?(笑)
佐々木さんとベジャールさん。
いやあ、もう本当に感謝しかないです。
今月もお読みいただきありがとうございます。
2021年4月15日 小林十市
追記
2003年の秋頃に、ダニエル・バレンボイム指揮シカゴ響+シルヴィ・ギエム&東京バレエ団《奇跡の響演》(と書いてミラクル・ガラ!)という公演がありました。上演作品がベジャールさんの『火の鳥』『春の祭典』そして『ボレロ』というプログラムで、僕はこの年の3月に腰椎椎間板変性症という腰の病でバレエ団を辞めていましたが、ベジャールさんから頼まれてパリ・オペラ座に『火の鳥』を教えに行ったり、BSで放送されたヴェルサイユの宮殿と庭園を巡る番組で案内役を務めたり、この《奇跡の響演》の指導にあたったりで忙しくしていました。
さて、まずこの公演で来日していたシカゴ交響楽団の演奏者の方たちですが、なんとこの時が初めてオーケストラピットに入るという経験だったらしく、NBSのスタッフさんたちは彼らのクレームに応えるのが大変だったようです。「暑い」「空気が薄い」等々……(汗)。
ベジャールさんの作品は基本、ベジャールさんが選んだ録音済みの音楽を使用します。それは東京バレエ団でも同じでした。しかし、同公演はバレンボイムさんとシカゴ響との共演です。あまり覚えていないのですがバレンボイムさんとはゲネプロ前にスタジオで1回、そして本番前に劇場での稽古が一緒にあったと思います。『火の鳥』なんですけど、オペラ座の時もそうでした。オーケストラの生演奏だと、テンポが速いんです。僕らがふだん使用している音源よりも。そしてオペラ座の指揮者の方も(今ちょっと名前が出てきませんが)おっしゃっていたのが、「ストラヴィンスキーの楽譜はそのように書かれていない!」ということでした。それは理解できるのですが、踊りにはパとパの間の呼吸があるのです。踊る側からすると、「このステップからプリエ無しでそっちにはいけない!」ということがあるわけです。オペラ座の時はベジャールさんがいらしたのでベジャールさんが直接指揮者の方と話をしてくれました。ですがこの時は僕がバレンボイムさんに話をしなければならなかったのです!!! 僕は挨拶の時に「ベジャール・バレエから来た指導者です」と言っています。ですがバレンボイムさんが当時の僕みたいな若造にテンポことで何か言われたくないでしょう? 僕は何とかして理解していただこうと粘りましたが、やはりストラヴィンスキーの楽譜に忠実にということで首を縦に振ってはくれませんでした。ここでベジャールさんに電話して相談した記憶があるような? ないような? はっきりと覚えていないのですが、翌日、バレンボイムさんから提案がありました。それは楽譜と僕の意見の間をとるということ(笑)。頑固親父め!(すみませーん)
もちろん僕はお礼を言いましたよ。そこからゲネプロ稽古に入りました。『火の鳥』のテンポはまだ少し速い感じもしましたが踊れないことはない速度でクリア。『春の祭典』も問題はなく、そしてギエムさんが踊る『ボレロ』、その『ボレロ』が始まり暫くすると、何を思ったのかバレンボイムさんがオケピから出てきて僕ら指導陣が座っているほうへツカツカやってくるではないですか!?! 演奏は続いているし、ギエムさんも踊り続けている、そしてバレンボイムさんは僕の前に立ち「『ボレロ』のテンポはこれでいいかい?」と聞くのです!!
僕は一瞬何を言われているのかわからなかったのですが、「問題ないです」と返し、「戻らなくていいのですか?」と聞くと、バレンボイムさんは「『ボレロ』は一度テンポを与えてしまえばあとはずっと同じだから大丈夫」というのです。そしてしばらく何の話をしていたか覚えていませんが、話している間に音楽がだんだん速くなっていき明らかにテンポアップしていく(笑)。そうしてこれはさすがに戻らなきゃまずいと思ったのでしょう、スッと振り向きタタタタターッとオケピへ戻っていかれました。彼がゲネプロの後にギエムさんと話をしているのを客席から舞台へ向かう途中に見た思い出があります。いやあ、あの天下のバレンボイムさんとテンポの話をしたなんて今でも信じられない。ちょっと笑える思い出話です。最後には喜んでくれて「ベジャール氏によろしく伝えてくれ」と、この写真も一緒に撮ってくれました♪
わりと饒舌な方だったのかなあって今思い返すとそんな印象です。
絶対フクロウっぽい、とも思っていました(すみません!)。
さて、なぜこの話を追記したかと言いますと、上記の連載に書いた話で2004年の東京バレエ団海外ツアーに参加した件ですが、最初僕は2005年の出来事だと思っていたのです(どこかに数字の5が入っているはずと思ったら、このツアーは2004年の5〜7月に行われたものでした)。ですが調べてみると2004年ということが判明しまして。自分はわりと年代別に物事を覚えている記憶力が正確だと思っていたのですが、念入りに頭の中を整理していたらちょっと1年ずれていた。この《奇跡の響演》も2004年だと思っていたのが、じつは2003年だった!……ということからこの話を思い出しました。昔、何かのトークショーで話したかもしれません。そんな記憶もありますが、ここに記しておきます。
そりゃ、だんだん記憶も薄れていくんだよ、と思った瞬間でした。
忘れないうちに本にしないとね! なーんてね(笑)。
★次回更新は2021年5月15日(土)の予定です