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小林十市 連載エッセイ「南仏の街で、僕はバレエのことを考えた。」【第16回】世界バレエフェスティバル、そして「表紙」の思い出。

小林 十市

ベジャール・バレエ・ローザンヌ(BBL)のスターダンサーとして世界中の舞台で活躍。
現在はBBL時代の同僚であった奥様のクリスティーヌ・ブランさんと一緒に、
フランスの街でバレエ教室を営んでいる小林十市さん。

バレエを教わりに通ってくる子どもたちや大人たちと日々接しながら感じること。
舞台上での人生と少し距離をおいたいま、その目に映るバレエとダンスの世界のこと。
そしていまも色褪せることのない、モーリス・ベジャールとの思い出とその作品のこと−−。

南仏オランジュの街から、十市さんご本人が言葉と写真で綴るエッセイを月1回お届けします。

***

「世界バレエフェスティバル」は1976年に始まり、今もなお3年おきに開催され、このままコロナが終息し安全にアーティストたちが来日できるようになれば2021年8月には第16回世界バレエフェスティバルが開催されるはずなので……そう願います。

第1回目の時にマーゴ・フォンテインや、アリシア・アロンソ、マイヤ・プリセツカヤと今や伝説といわれる各国のトップが顔を揃えることで注目を集め、バレエフェスティバルの歴史が始まったわけで、こういう今ではよく見かけるバレエのガラ公演を1970年代当時に先見の明を持ってやった故・佐々木忠次さん(日本舞台芸術振興会[NBS]代表/東京バレエ団創設者)は、さすがというか凄いですよね。それと確か1985年の世界バレエフェスティバルってテレビ放映されなかったかな? なんか観たような記憶が……。とにかくその超有名なバレエフェスティバルに自分が参加できるなんて夢にも思っていなかったわけですが、僕が参加したのは1994年の第7回世界バレエフェスティバルで、ある意味「世代交代」的な時でもあったのです。例えばこの第7回を最後の出演にしますと言ったマルシア・ハイデとリチャード・クラガン、それにフェルナンド・ブフォネスやエヴァ・エフドキモワ、その他にイヴリン・ハート、ジョン・ノイマイヤー。ノイマイヤーさんはハイデさんと、ベジャールさん振付の『椅子』を踊っていた。そんな錚々たる顔ぶれの中、新人枠で参加したのがボストン・バレエのジェニファー・ゲルファンドや世界有数のコンクールで賞を取ったマキシミリアーノ・グエラ、それにウラジーミル・マラーホフで、ベジャール・バレエからはクリスティーヌと僕だった。その他にオペラ座組がもちろんいて、アレッサンドラ・フェリとかドミニク・カルフーニとか、とにかくスターが集まる夏の上野の文化会館だったのだ!

もともと、夏休みの1ヵ月間を何もしないで過ごすのが嫌いだったので、夏休み中に日本に帰国できて、踊るといっても普段バレエ団で踊りこなす時間の何倍も短く楽で(もちろんプレッシャーは半端なくてまったく楽じゃないんだけど)それでギャランティーを頂けるのだから最高の夏休みなわけです(出演者は皆そう思っていると思うんだけど……)。

さて、僕はフェスティバルの1年前に『M』でブレイクし(自称)、そしてバレエフェスがあった1994年の春にベジャール・バレエの公演で来日し、ダンサーキャリアをノリノリで過ごしていた時期でもある……大袈裟かな少し。
佐々木さんがベジャールさんに「今回は誰をバレエフェスに出しますか?」って聞いてたんだと思うんですけど、実際はどうなのか? たぶんジル(・ロマン)なら知っていると思うけど……。それまで世界バレエフェスティバルに出演するのは、必ずジョルジュ・ドンさん、そしてミッシェル・ガスカールとジルだった。例外的な年は1991年の第6回世界バレエフェスティバルで、(僕には謎の)当時バレエ団を退団したカタジェーナ・グダニェックとヨーラン・スヴォルベリの2人。90年の来日公演での『ニーベルングの指環』で人気がドーンと出たからだろうか? 僕は佐々木さんが名指しでベジャールさんに頼んだのでは? と思っている。その時はきっとまだ退団届を出していなかった時だと思うし。クリスティーヌは、あれはバレエ団内では結構スキャンダルな出来事だったと思い返している。僕はあまり覚えていないけど……2人はバレエフェスに出場したけど、踊った演目がベジャールさんの作品じゃなかった! きっと多くのベジャールファン的に救いだったのは、ドンさんと玉三郎さんの『デス・フォー・ライフ』と、ドンさんと東京バレエ団共演の『ボレロ』だったと思う。

とにかくまあ、1994年はBBLもバレエ団を縮小して2シーズン目も終わろうとしていた時で、確かにジル、クリスティーヌ、そして自分はバレエ団の要としてすべての作品を踊っていた頃。だからベジャール・バレエの代表で参加させてもらえるのは、当時の自分としてはまあそうだろうなあと思っていたかもしれない。
しかし、他に参加している顔ぶれが凄すぎてそんな余裕のようなものはまったくなく、Aプロの初日は心臓が飛び出るかと思ったくらい緊張したのでした(笑)。

周りに押しつぶされそうになっても結局は「自分の踊り」を踊るしかないわけで、前にも書いたけど、この時のバレエフェスのためにベジャールさんが創作してくれた『ドン・ジョヴァンニ』のパ・ド・トロワを思いっきり踊るしかなかったわけです。そしてこの時僕が良かったのは、Aプロでは第1部の最初のほうの出番だったから先に終わり、あとは思いっきり気持ちを緩め、袖からスターダンサーたちの踊りを見られたことです!

あとAプロの時、ジルは僕とクリスティーヌと一緒に『ドン・ジョヴァンニ』を踊った後、第4部で『アダージェット』も踊っていた。前はあまり参加者がひとつのプログラムで2演目踊ることはなかったように思う。それからノイマイヤーさんやベジャールさんの作品は、その振付家が率いるバレエ団に所属するダンサーたちが踊る、というのが普通だった気がする。

Bプロでは、バレエ団の公演で回数踊ってきた作品でフェスティバル用にベジャールさんがアレンジしたもので踊りやすかった。この時の出番は第2部の後半だったかな? とにかく第3部・第4部でなければとりあえずOKという感じでした(笑)。

世界バレエフェスティバルはAプロ・Bプロのほかに「ガラ」がある。ジルはそのガラ公演には参加せず、クリスティーヌと僕だけが残り、ベジャールさんは僕らのために演目を2つ用意してくれた。
なぜ2演目かというと、今まで東京と大阪の2ヵ所でやっていたのを、この第7回(1994年)のバレエフェスから名古屋公演が付け足され、大阪では2日間ありそこでもうひとつ別の作品をということだったのだ。夏休みだけど13公演4演目と結構な量ではあった。が、若く疲れを知らない自分は毎日のレッスンも欠かさず参加していた。

そんな中、フェスティバル中に1回しかレッスンに来なかったダンサーが1名……それはパトリック・デュポン! 彼は自分の出番が終わるとメイクを落とさずサングラスをしてパチンコに行くという伝説を残している(笑)。
なぜパトリックがレッスンに来たそのたった1回を覚えているかというと、彼が稽古に現れてみんなが冷やかしたから!(笑)

東京公演を全て終え、名古屋に移動した日。その日は舞台稽古なしの劇場のスタジオでレッスンだけだった。その時にレッスンに参加していたのはたった数名で、「いつも最後まで偉いね」といつも毎回最後までいるマニュエル・ルグリさんに言われたのを覚えている。

とにかくものすごく充実した夏休みだった(休みじゃなかったけど)。
第7回の世界バレエフェスティバルが無事に終わり、もちろん、その3年後の第8回も出たい! と思ったのは言うまでもない。

1997年の夏、第8回世界バレエフェスティバル……もうそろそろ出場メンバーが発表されてもいい頃だろうに? という時期に僕はベジャールさんに声をかけてもらえなかった……。そしてなぜか? どのタイミングでだったか? 母が東京である占い師に僕のことをみてもらったら、「その時期には“棚からぼた餅”的なことがありますよ」と言われたのだった。

すると……!?!
しばらくして本当に“棚ぼた”が!(人生って決まっているのでしょうか?)

ベジャールさんから「佐々木のフェスティバルだけど、ジルがAプロとBプロを踊るので、十市はガラ公演から参加しないか? それからジルは名古屋と大阪は行かないので十市が行ってくれ、何を踊るかは考えておく」と!!

そう言われたあと、割とすぐにベジャールさんからガラ公演では『ギリシャの踊り』から抜粋でジルとパ・ド・ドゥを踊り、それプラス『恋する兵士』のソロ、そして名古屋と大阪は『ハムレット』のソロ、と言われ1人でビデオを観て覚え、まだツアー公演中だったバレエ団の空いている時間にひとり稽古をした。

僕はガラ公演からの参加だったけどジルと一緒に帰国し、実家から上野の東京文化会館に通い、レッスンを受けて文化会館のスタジオで自主練をした。ジルが『ハムレット』のソロを稽古してくれたのはガラ公演の1日前の1回だった。けれどその1回がかなりためになり、劇的にソロのレベルが上がった気がした。
『恋する兵士』は前もってベジャールさんから「周り(アンサンブル)を東京バレエ団のダンサーたちにお願いして踊ってもらおう」と話が通っていたので、何回か東京バレエ団で一緒に稽古をさせてもらった。

そんな第8回バレエフェスティバルを盛り上げたのはキューバ組のホアン・ボアダやホセ・カレーニョ、新人枠ではロベルト・ボッレやマリアネラ・ヌニェスだった。そして出演者ほぼ全員が袖に来て見ていたのが、ガリーナ・ステパネンコの踊り!(とくにオペラ座組が大喜びして見ていた)。
あとこの時のBプロでベジャールさんの作品『バクチ』をシルヴィ・ギエムとローラン・イレールが踊り、周りの6人のバクチボーイズを僕が振り写し稽古をした(これもベジャールさんに言われていたと思う)。

さて今回の本題に入ろう……(え! ここから?)

1994年の世界バレエフェスティバルの時、東京文化会館はまだ改装される前の古いままで、楽屋も引き戸で仕切る感じであった。集まっているのは世界中のスターたちなんだけど、夏休みだし、自分の所属するバレエ団の外だし、出会いはあるし東京は楽しいし美味しいし、みんな穏やかで楽屋を歩き回り話をずっとしているダンサーたちがほとんどで、とてもリラックスした雰囲気だった。その中で話に出たのが日本の「ダンスマガジン」がいかに素晴らしいか!という話。カラー写真が多く、雑誌じたいがしっかりした紙でできていて欧州と比べもにならない!と。

みんな、その「ダンスマガジン」にイタンビューされるのがひとつのステータスになるのだと。その頃『M』を終えてノリノリな僕になんと「ダンスマガジン表紙」の撮影依頼が!!

ノリノリな僕は撮影後に生意気な発言をした。それは「僕を日本人初の表紙にしてください」だった(笑)。

今も覚えている……が、しかし「日本人初表紙」は熊川哲也くんだった!!
そりゃ〜そうだ! と、もちろん異論はないです。思えばあの時代、結構な回数のインタビューを受けて、必ずといっていいほど、まず哲也くんで次に僕、という順番で頻繁にダンスマガジンに登場させてもらった。そのおかげで「小林十市」という名前を知ってもらえたのだから。クラシックバレエダンサーで名前が出てくる人は、とにかくしっかりしている。個人の力が無いと上に上がれない。それに比べ、自分はモーリス・ベジャールという傘の下にいて守られていたに過ぎない。その違いは大きい。それに当時、哲也くんは英国ロイヤル・バレエのプリンシパルに昇格したばかりだった。

ということで(笑)。

Aプロで踊った衣裳で。
表紙に出たのは第7回世界バレエフェスティバルから約2年後の1996年だった。(めでたしめでたし)
なんか中途半端なポーズだけど……。

今はSNSでいつでもバレエ団の情報とか得ることができるけど、当時、例えばBBLのパリ公演の最中に、どんな感じで何の演目を上演しているのか? そんなことを「ダンスマガジン」の電話インタビューで答えたこともあります。

さて、「表紙」となると、やはりそこに載る日本人は少なかった。
哲也くんと吉田都さんはもちろん別格で、森下洋子さん、あとは首藤康之くんや斎藤友佳理さん……そのくらい? はっきりとはわからないけど。

僕はベジャール・バレエにいる時から今に至るまで、日本から毎月「ダンスマガジン」を送ってもらっています。
それで、ここ数年、日本人ダンサーの表紙が多くなった! ということに気がつきまして、もちろんみなさんご存じだとは思いますが、どれだけ多くなったかのかをちょっと写真で見ていきましょう!

まずはこの「ダンスマガジン」人気投票〈ダンサーベストテン〉殿堂入りのお二方ですね。
ちなみにダンサーベストテン、僕の最高位はやはり『M』を踊った年の1993年とバレエフェスに出演した1994年の両年で、ともに「5位」でした。(ありがとうです!)

今から紹介するのは、僕が南仏に来た2013年の4月以降の表紙たちです。

あと思うのは、ここ20年くらいの間に海外のバレエ団で活躍する日本人ダンサーが増えたということでしょうね。
過去20年だとあれかな? ここ10年くらい?
逆に海外で活躍し日本に戻ってきて活躍するダンサーも増えましたよね!

正確にはわからないですけど、インスタグラムを見ていると「お! こんなところで踊っているのか!」という日本人ダンサーが結構いるので、すべてを把握してみたいですが、バレエ団によっては日本人が何人もいるバレエ団もありますよね。

あと、去年から今年にかけてがいちばん日本人ダンサーの表紙が多かったですね。
それはきっと、このコロナ禍で海外のバレエ団が来日できず、国内のバレエ団が特集されたことが大きくあると思うし、海外からもオンラインでより頻繁に繋がれるようになってきたこともあるのだろうなあと。

もちろんそれぞれのポテンシャルが高く、一人ひとりが素晴らしいのは言うまでもないのですが。

今や、バレエは西洋のもので……とか言われる時代じゃなくなったことは感じられますね。

僕的にいうと、とくに男性ですが、本当にタイツが似合うダンサーが増えた!
自分はなんちゃってですから、ベジャールさんに出会えて本当に良かった! と思っているのでわりと外側から話しているつもりですけどね。

SAB(スクール・オブ・アメリカン・バレエ)在学中には「白Tシャツに黒タイツで白ソックスに白シューズ」というドレスコードがありました。それが自分はとても似合わないっていうコンプレックスがあって、当時はそこまで厳しくなかったのをいいことに、僕は黒ソックス黒シューズだったんです。注意されたことは一度もなかったですけどね。

以前のように「◯◯バレエ団に日本人が初入団!」的なことも少なくなってきていないですか?
もう普通に海外で活躍する感じ。(もちろん個人の努力はあるでしょう)
違和感みたいなものもまったくないし。これが次世代バレエダンサーの姿! というか、頼もしいですよね。

昔はスターが少なかった。
世界バレエフェスティバルに各国から集まり、華を競う。そんな存在の絶対数が少なかったと思う。

何と言うのか、今の時代は「表紙」になり得るようなスターダンサーの数が多くなり、それは逆に言えば、ますます踊りの世界が厳しくなっているということではないのか?……とも思いますね。

いや、よくわからないな(笑)。
今、思いつきで喋ってるだけで……何を適当なこと言っちゃって自分……。
ただ、華のある人が増えたのは事実ではないでしょうか? ねえ?
要するに「枠がとれた」というか、グローバル化されたバレエ界において国際的に活躍する人が多くなり、ファンのみなさんがその生活スタイルやファッションに憧れる対象が、今や日本人になっていると。そういう社会現象の現れが、「ダンスマガジン」の表紙にも出ているってことですよね?

さてオマケの一枚を……。

クリスティーヌも「ダンスマガジン」の表紙を飾りました!
なんか似たような中途半端なポーズで……も〜夫婦そろって何やってんだか(汗)。

最後に近況を。
フランスでは今月15日から外出制限が解除されるはずでしたが、目標であった1日あたりの感染者数5,000人以下が達成される見込みがなく、現在の状況ではまだ第二波の終わりに到達していない。ということで、僕のオランジュ・バレエスクールもクリスマスヴァカンス前にスタジオでレッスンをするつもりでいたのですが、どうもそれは無理なようです。すでに6週間のオンラインレッスンをしていますが、とくに小さな子たちには難しく、11月と12月分の月謝の払い戻しを何人かの生徒さんたちにすることになり、厳しい状況です。

日本も感染者数が増えてきているようで、公演はやっているようですが、みなさん気をつけてお過ごしください。

今年は本当にとんでもない年でしたが、来年はドーン!とみんなで飛躍する年になることを祈るばかりです。

いつもお読みいただきありがとうございます!
そして、みなさま良いお年をお迎えください。

健康であることが一番! 健康であれば踊れるし、舞台も観に行けるのですからね!

2020年12月15日 小林十市

★次回更新は2021年1月15日(金)の予定です

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

元ベジャール・バレエ・ローザンヌ、Orange Ballet School 主宰、振付家、俳優。 10歳より小林紀子バレエシアターにてバレエを始める。17歳で渡米し、スクール・オブ・アメリカン・バレエに3年間留学。20歳でスイス・ローザンヌのベジャール・バレエ・ローザンヌに入団。以後、数々の作品で主役をはじめ主要な役を踊る。2003年に腰椎椎間板変性症のため退団。以後、世界各国のバレエ団でベジャール作品の指導を行うほか、日本バレエ協会、宝塚雪組などにも振付を行う。また舞台やテレビ、映画への出演も多数。 現在はフランスのオランジュにて Orange Ballet Schoolを主宰。

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