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【新連載】ステージ交差点〜ようこそ、多彩なる舞台の世界へ〈第1回〉「言葉」

高橋 彩子

ダンス、バレエ、オペラ、演劇、文楽、歌舞伎、ミュージカル……〈舞台芸術〉のあらゆるジャンルを縦横無尽に鑑賞し、独自の切り口で世界を見わたす舞踊・演劇ライターの高橋彩子さん。

「いろんなジャンルを横断的に観ると、舞台はもっとおもしろい!」ーー毎回ひとつのキーワード(テーマ)をピックアップして、それぞれの舞台芸術の特徴やおもしろさ、共通するところや異なるところに光を当てていただきます。

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はじめに

みなさんは舞台芸術を観るために、1年にいくつの劇場に行くだろうか? 地域にもよるが、例えば東京なら、東京都生活文化局のホームページによれば、平成31年3月時点で、50人以上収容のホール・劇場は約1,300あるという。50人以下の小規模なスペースを入れたら数字はもっと大きくなるわけだ。しかし実際には、バレエしか観ない場合、5〜10くらいの劇場にしか行かない人もいるだろう。舞台芸術を愛する人に、一つのジャンルしか観ない人は決して珍しくない。

オフの時間も出せるチケット代も限られているので、無理からぬことだ。しかし、同じ舞台芸術として、相違点と共に共通点も多い様々なジャンルの魅力を、知らないままというのは余りにもったいない。せっかくなら多種多様な舞台芸術の面白さを味わってほしいし、それらの魅力を知ることで元々のジャンルへの発見もある。筆者自身、バレエを観ていたことで身体の軸に着目して能を興味深く観たし、クラシック音楽、特に弦楽器に親しんでいたからこそ義太夫節の三味線の奥深さに開眼した。バレエやダンスの“リズム感”や“踊り心”が形は違えど歌舞伎や日本舞踊にもあることにも、実感をもって気づけたように思う。さらに言えば、あなたの大切なジャンルが危機に陥った時、最も理解してくれやすいのは同じ舞台芸術の演者や愛好家であろうと考えても、舞台芸術のファンには近接するジャンルを多く知っておいてほしいのだ。

そんなわけでこの連載では、毎回異なるテーマから、様々な舞台の魅力を少しずつ紹介していきたい。

舞台で紡がれる「言葉」たち

 さて、第1回で扱いたいテーマは「言葉」

聖書に「はじめに言葉ありき」と書かれ、日本にも「言霊」という概念がある通り、言葉は洋の東西を問わず人間にとって根源的で必要不可欠なもの。芸術の世界では「言葉にならないものを表すのが芸術」「芸術に言葉は要らない」などと少し下に見られる傾向もあるが、舞台ジャンルそれぞれ、言葉とは深い関わりを持っている。

まず、バレエにもマイムというれっきとした“言語”があるのはご存知の通り。中でも単なる感情表現にとどまらず、かなり厳密に物事を説明できるタイプのマイムは、言葉を動きに置き換えた手話にも近い。言ってみればこのマイムを文字とセットにして行っているのが、日本舞踊だ。日本舞踊の古典では、音楽に歌詞が付いていて、歌詞の内容をそのまま表す振りが多い。その表現は、酒についての歌でのお酌をしたり飲んだりといった仕草に始まり、歌詞に出る様々な傘の描写をそのまま踊りで表現したり、あるいは例えば「生野暮(きやぼ)」の言葉を「木」「矢」「棒」の形で表したり……と、遊び心もいっぱい。だから日本舞踊は、美しさをなんとなく味わうのもいいけれど、歌詞をわかっていたほうが、断然楽しめる

★〈日本舞踊〉宗家藤間流藤間勘十郎のYouTubeチャンネルより。出演は藤間勘十郎と市川猿之助。ぜひ歌詞を見ながら踊りをご覧ください↓

逆に、究極まで説明的な要素を削ぎ落としたのが、能。能の有名な仕草に、泣いていることを表す「シオリ」があるが、これとて目の前に手を差し出しうつむくといった程度。声を上げて泣いたりはしないし、主役の“シテ”は大抵、能面をつけているため、表情も見えない。それなのに、熟練した演者が演じると、喜怒哀楽が手に取るように伝わって来る。シテやワキ(脇役の演じ手)、地謡(いわばコーラス)らが語る言葉=「詞章(ししょう)」には、昔の和歌やそのエピソードが多く取り入れられていて、とても奥深い。筆者は、能とは妄想の芸術だと思っているのだが、舞台を鑑賞しながら、どれだけ詞章に書かれた世界を想像できるかがポイント。その際、演者側の喚起力が大切なのは言うまでもないけれど、観客も詞章を事前に読んで、それを受け取れる態勢にしておきたい。

★〈能〉大槻能楽堂のYouTubeチャンネルより。解説つきです↓

人形劇として視覚的なイメージが強い文楽でも、言葉は重要な位置を占める。「太夫」があらゆる登場人物の台詞や心情や筋の進行や情景描写などを一人で語り、「三味線」がその音色で太夫の語りを支えながら様々なものを音で表現する文楽は、「音曲の司(おんぎょくのつかさ)」と呼ばれるほど聴覚的な要素も大きい。そして、昔の人が書いたものだけに突飛だったり詰めが甘かったりするかと思いきや(そういうものもあるが)、極めて理路整然としていて、驚くほど。さらには、掛詞(かけことば)になっていたり詩的だったりと、本当に美しい。現代よりもずっと語彙が豊かだったのだなあと思わされる。

★〈文楽〉国立劇場YouTubeチャンネルより。期間限定公開:令和2年6月30日(火)12時まで。

いま、掛詞と言ったが、こうした趣向は歌舞伎ほかの芝居、欧米の演劇ミュージカルにも見られるものだ。海外ものに関しては日本語になった時点で消えてしまうが、翻訳者もそれぞれ工夫をしているので、違った面白さがある。

また、「言葉とは裏腹」の表現も見逃せない。それが最も発達しているのは、音楽という軸があるぶん、冒険もしやすいオペラだ。歌詞に沿った演出ももちろんあるが、歌詞とは異なる演出も少なくない。例えば2018年に新国立劇場で上演されたカタリーナ・ワーグナー演出『フィデリオ』では、本来はヒロインのレオノーラが悪人によって政治犯として不当に捕らえられている夫フロレスタンを救い出しハッピーエンドとなるべきところを、悪人がレオノーラ&フロレスタン夫妻を負傷させて生き埋めにし、悪人および偽のレオノーラとフロレスタンが勝利を歌う傍らで死を運命づけられた夫妻が愛を歌うという、衝撃のバッドエンドになっていた。喜びの歌詞からなる歌を聴けば聴くほど、皮肉さや恐怖が増す仕組みだ。

いずれにしても舞台上の言葉は、声を発する身体と密接に繋がって一つの表現になっている。ぜひ、その豊穣さを堪能してほしい。

表現者として、あるいは観客として

ここまで舞台上での「言葉」のことを書いていったが、その周辺の言葉についても少しだけ触れたい。

筆者は2011年の東日本大震災、そして2012年の橋下徹大阪市長(当時)の文楽バッシングを通して、社会における文化芸術の地位の危うさを痛感した。そしてCOVID-19、いわゆる新型コロナが蔓延するいま、舞台芸術は大きな危機に直面している。緊急事態宣言が出されている間、劇場は閉鎖され、生の舞台を観ること、見せることはできなくなり、いまも再開に向けて苦闘中だ。舞台芸術の価値や補償の重要性を訴えようとした芸術家の何人かは、言葉遣いで反感を買い、「炎上」してしまった。ここでその一つひとつを論じるのは避けるが、文化芸術の意義を伝えるにあたって、それを当たり前と断ぜず、様々な意見に配慮しながら丁寧に説明することの重要さと難しさを、あらためて感じずにはいられない。

そのためにも、表現者には、普段から自分の言葉で、自身がやっていることややりたいことを言葉にできるようにしておいてもらいたい。「舞台を見てもらえばわかる」と考えるのは潔いし、実際、口ばかりが達者で表現が伴わないのはカッコ悪いわけだが、娯楽が多様化し、また助成金などにもきちんとした書類が求められる時代には必要不可欠な能力だろう。

これは観客にも言えるだろう。よく「言葉にするとつまらない」「言語化せず感じたい」といった言い方を聞く。実際、胸にたぎる熱い感情や、心洗われるような感動、あるいは呆然自失したひとときの静寂といった感覚は、言語化するそばからこぼれ落ちてしまう。言葉で全てを言い表すことは恐らく不可能だ。しかし、言葉にしないと、人にはなかなか伝わらないという事実も忘れないようにしたい。一緒に体験して「いいね」と微笑み合った相手ですら、同じように感じているかはわからないのだ。もし感動を伝えたいと思うなら、やはり極力、言葉にする努力をしたほうがいい。

自戒を込めて言うのだが、言葉にできないものを大切にしつつ、言葉を味わい、自身もしっかりと発する努力を怠らないようにすること。それがいま、舞台芸術に関わる者や愛する者には必要なのではないだろうか?

★次回は2020年7月1日(水)更新予定です

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舞踊・演劇ライター。早稲田大学大学院文学研究科(演劇学 舞踊)修士課程修了。現代劇、伝統芸能、バレエ・ダンス、 ミュージカル、オペラなどを中心に取材・執筆している。年間観劇数250本以上。第10回日本ダンス評論賞第一席。現在、Webマガジン『ONTOMO』で聴覚面から舞台を紹介する「耳から“観る”舞台」、バレエ雑誌『SWAN MAGAZINE』で「バレエファンに贈る オペラ万華鏡」を連載中。撮影=中村悠希

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