ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。
“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく連載エッセイ。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、読者のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。
更新は隔月(基本的に偶数月)です。美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。
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ピアニスト道
時折思うのです。私はなぜピアニストという道を選んだのだろうと。
性格的にあまりにも向いていないのではないかと思ってしまうのです。格別本番に弱いわけではなく、むしろ強いほうなのだと思う。だけど、無性に本番への道が苦しいのです。
演奏家やバレエダンサーは、時にギリギリのところで勝負することが求められます。芸術の深淵に迫るために、そして自分のすべてを表現するには崖っぷちに咲く花を摘む勇気が必要なのです。舞台というものは一回勝負で、やり直しがききません。その一回で自分がどう演奏できるか、持てる力をいかに出し切るか。本番に向けて、そのプレッシャーとどのような気持ちで向き合い臨むか。
これは音楽家として生きる限り、永遠のテーマなのかもしれないと思い、書いてみることにしました。
このたび、ウィーン国立歌劇場2023/24シーズンの最後を飾る「ヌレエフ・ガラ」で、ジョン・ノイマイヤー振付『椿姫』の黒のパ・ド・ドゥを弾くことになりました。この演目を公演で弾くのは2014年の「ヌレエフ・ガラ」以来10年ぶり。曲はショパンのバラード1番。私にとって特別な一曲で、CDに録音しており、昨年のソロリサイタルでも弾いています。
この曲はとても有名で、多くのピアニストが弾きますが、決して弾きやすい曲ではありません。ピアニスト泣かせの曲と言えるでしょう。ピアニスティックな技巧も散りばめられていて、コーダの速いパッセージは鍵盤を掴みづらくパワーが必要。さらにノイマイヤー版では、音楽で激情を煽るため、爆速のテンポが要求されます。とにかく大変。
「ヌレエフ・ガラ」のお話をいただいたのは3月。『椿姫』全幕公演のリハーサルを弾いていた頃でした。振付のジョン・ノイマイヤー氏、ケヴィン・ヘイゲン氏の指導を毎日賜っていて、この作品における踊りと音楽の関係性の理解が深まっていたので、それをガラで弾けるなんてこんな素晴らしい機会はありません。
10年前の「ヌレエフ・ガラ」では、この作品を弾くのが初めてだったにも関わらず、ゲストダンサーが公演当日にいらした関係で、ほぼぶっつけ本番、しかもオケピのライトが点かなくて、手暗がりのなか弾いたのです。今その録音を聴くと「ああ、なんて未熟なんだ……」と赤面してしまうほど。でも今回はダンサーと2月から毎日稽古してきて、あうんの呼吸で通じ合えるまでになっています。CD録音やリサイタルも経て演奏経験も積んでいます。それなのになぜでしょう。本番が近づくにつれ、苦しくてしょうがなくなってきたのです。練習、技術が足りていない不安ではなく、自分が本番どのような状態で演奏できるかという不安です。ソロリサイタルと違い、ダンサーに迷惑をかけることは許されないという気持ちも大きい。このような大きな公演で、ライブ配信されるということもプレッシャーでした。ウィーンに就職して13年、この劇場で協奏曲含めたくさんのソロ演奏をしてきましたが、10年前に弾いたこの作品がいちばん大変だったという記憶にも囚われていたかもしれません。実体のない幻影に怯える日々でした。
そんななか、6月10日に現代最高峰のピアニスト、ユジャ・ワンのウィーンリサイタルがあり、聴きにいきました。ラッキーなことに、ショパンのバラード全曲もプログラムに入っていたのです。彼女はまるで超一流アスリートのようで、その演奏も存在感も人間離れしていました。本編1時間半の後にアンコールを40分間も悠々と楽しそうに弾いた彼女は、“ピアニスト”を超越した最高のエンターテイナーでした。でも、一度だけ、ショパンのバラード1番で右手と左手で別の小節を弾くというミスが起こりました。どんな芸術家でも、思わぬところで思わぬことが起こるのが本番の怖さ。生の人間ですものね。でも、それは大きな問題ではない。それよりも全体がどうであったかが問われると思いました。
私は昔からアスリートの語る言葉が好きで、それによって救われてきたところがあります。
今をときめく大谷翔平選手が大リーグに移籍した当初、思うように成績を残せない時期があったそうです。そこで偉大な先輩であるイチロー選手に相談をしたところ、実技を通してアドバイスをくれたうえ、こんな言葉をかけてくれたそうです。「自分の才能ややってきたこと、ポテンシャルをもっと信じたほうがいい」。きっと大谷選手は誰よりも努力を重ねてきて、それでも自分を信じることが難しかったのだろうと、その言葉を聞いた私も我が身に重ねて涙が出る思いでした。
また、サッカーのクロアチア代表選手のルカ・モドリッチ選手は、同僚ゴールキーパーに「君の弱点はミスを恐れすぎること。ミスをしない人間なんていない。恐れるのをやめなさい」と語ったそうです。あるいは私のピアニストの友人は、巨匠ピアニスト、ルドルフ・ブッフビンダー氏と共演した際、「緊張するよね。でも、最初の一音だけちゃんと弾けたらそれでいいと思ってステージに向かってごらん」とアドバイスしてもらったと話してくれました。
偉人たちのこれらのアドバイスはシンプルにして深く、哲学的でもあり、不安にかられていた私の心に響きました。不安を取り除くために最大限の努力をして、あとは天に任せる。その境地に毎回至れたらと願うのです。
以前『白鳥の湖』公演にゲストで踊りにいらしたマリアネラ・ヌニェスさんが、本番前に「手が冷たいの、緊張している、どうしよう」と不安を吐露されていたことがありました。ウィーン国立バレエでとても人気のあるプリンシパルダンサーも、公演前は毎回吐きそうになるくらい不安だそうで、今回も本当につらそうでした(本番は強い輝きを放ち、観客は熱狂していました!)。舞台の怖さというのは、人に弱音を吐くことはできても、結局は自分で抱えるしかなく、孤独な旅路だとも思います。高みにいる芸術家も、自分の弱さと向き合い戦いながら、舞台へ向かっているのです。その葛藤や過程も含めて、人間が作る芸術の素晴らしさなのかもしれませんね。
6月29日、「ヌレエフ・ガラ」本番の日。最後のリハーサルを終え、オケピで一人になれる時間があったので、心ゆくまで自由に弾きました。今回は特別にベーゼンドルファーのフルコンサートグランドピアノをレンタルしていただいたので、その深い音色を味わいました。ここで今夜、自分のすべてを出しきれますようにと祈りながら。
そして夜、自分の出番直前。オケピの入り口で一人で待っている時、それまで抱えていた不安がまるで蜃気楼が消えるようにすっとなくなりました。嫌な緊張もありません。スポットライトのなかオケピに入り、しんと静まり返った心でピアノに向かいました。ただその世界に没頭する。あっという間の10分間、『椿姫』の黒のパ・ド・ドゥを生ききったと思いました。思わぬミスもあったのだけれど、それよりも自分の限りを尽くして演奏できたことが嬉しく、カーテンコールの幕が降りてから、マルグリット役のケテヴァン・パパヴァ、アルマン役のティモール・アフシャーと抱き合って充実感を分かち合いました。3人の心が繋がり、バレエと音楽が一体化してその世界を語り尽くせた喜びは、他には代えられないものです。
嗚呼、こんな瞬間を味わえるからやめられないのです。もうダメかもしれないと思った先に絶景が広がっていて、また一歩、先へ歩みを進める。あんなにつらかったのに、もうまた次の舞台を楽しみにしている。自分の弱さにも向き合いながら、その度に少しずつでも成長できたら。
例年になく、オケピでたくさんの本番を弾いてきた今シーズンが終わりました。後半は『椿姫』と『レ・シルフィード』でショパン尽くしだった幸せなシーズンでもありました。たくさん休んで英気を養って、また新たな季節と新たな舞台に備えたいと思います。さあ、夏休み!!!
今月の1曲
というわけで、『椿姫』第3幕より黒のパ・ド・ドゥ、ショパンのバラード1番を抜粋でお届けします。この曲はこれまでに公に録音もしているのですが、椿姫の為に弾くのはまた別物だなと感じるので、公演前日のオケピでの演奏を。ベーゼンドルファーのフルコンサートグランドピアノの美しい音色も伝わると嬉しいです。
★次回更新は2024年8月20日(月)の予定です
Now on Sale
Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き
滝澤志野による、珠玉の作品を1枚に収めたピアノソロアルバム。
<収録曲>
1.『眠れる森の美女』第3幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
2.『チャイコフスキー・パ・ド・ドゥ』よりアダージオ(チャイコフスキー)
3.『ジュエルズ』ダイヤモンドよりアンダンテ/交響曲第3番第3楽章(チャイコフスキー)
4.『瀕死の白鳥』/「動物の謝肉祭」第13番「白鳥」(サン=サーンス)
5.『マノン』第3幕 沼地のパ・ド・ドゥ/宗教劇「聖母」より(マスネ)
6.『椿姫』第2幕/前奏曲第15番「雨だれ」変ニ長調(ショパン)
7.『椿姫』第3幕 黒のパ・ド・ドゥ/バラード第1番 ト短調(ショパン)
8.『ロミオとジュリエット』第1幕 バルコニーのパ・ド・ドゥ(プロコフィエフ)
9.『くるみ割り人形』第1幕 情景「松林の踊り」(チャイコフスキー)
10.『くるみ割り人形』第2幕 葦笛の踊り(チャイコフスキー)
11.『くるみ割り人形』第2幕 花のワルツ(チャイコフスキー)
12.『くるみ割り人形』第2幕 グラン・パ・ド・ドゥよりアダージオ(チャイコフスキー)
●演奏:滝澤志野
●発売元:株式会社 新書館
●販売価格:3,300円(税込)
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Dear Chopin(ディア・ショパン)〜Music for Ballet Class
滝澤志野さんの5枚目となる新譜レッスンCDがリリースされました!
志野さんがこよなく愛する「ピアノの詩人」ショパンのピアノ曲で全曲を綴った一枚。
誰もがよく知るショパンの名曲や、『レ・シルフィード』『椿姫』などバレエ作品に用いられている曲等々を、すべて志野さんの選曲により収録しています。
それぞれのエクササイズに適したテンポ感や曲の長さ、正しい動きを引き出すアレンジなど、レッスンでの使いやすさを徹底重視しながら、原曲の美しさを決して損なわない繊細な演奏。
滝澤志野さんのピアノで踊る格別な心地よさを、ぜひご体感ください。
♪ドキュメンタリー風のトレイラーや全収録曲リストなど、詳細はこちらのページでぜひご覧ください
♪ご購入はこちら
●CD、52曲、78分 ●価格:3,960円(税込)
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Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class
バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)
★収録曲など詳細はこちらをご覧ください
- ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野 Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
- バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
- ●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)
配信販売中!
現在発売されている滝澤志野さんのベストセラー・CDを配信版でもお買い求めいただけます。
下記の各リンクからどうぞ。
★作曲家シリーズ
♪Dear Tchaikovsky https://linkco.re/pEHd0G2A?lang=ja
★「Dramatic Music for Ballet Class」シリーズ