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【第29回】ウィーンのバレエピアニスト〜滝澤志野の音楽日記〜生まれ変わった身体と心で。

滝澤 志野

ウィーン国立バレエ専属ピアニストとして、バレエダンサーを音楽の力で支えている滝澤志野さん。
彼女は日々の稽古場で、どんな思いを込め、どんな音楽を奏でているのでしょうか。

“バレエピアニスト”というプロフェッショナルから見たヨーロッパのバレエやダンサーの“いま”について、志野さん自身の言葉で綴っていただく月1連載。
日記の最後には、志野さんがバレエ団で弾いている曲の中から“今月の1曲”を選び、バレエチャンネルをご覧のみなさんのためだけに演奏した動画も掲載します。

美しいピアノの音色とともに、ぜひお楽しみください。

「生まれ変わる」医療

8月末、人生初めての手術をウィーンで受けることになった私は、その前日、病室に一人ポツンと残され、心細い気持ちに襲われていました。

私は数年前から良性腫瘍を抱えており、日本でもオーストリアでも定期的に経過観察をしてきました。手術の可能性を話し合いながらも先送りにしていたのですが、今年に入って目立ちだした体調不良が、腫瘍のせいであることは明らかでした。

徐々に悪化していく体調。でも、その頃オーストリアはロックダウンの最中で、緊迫性のあるものでなければ病院に行くことは憚られる時期で。そのうち、階段を上がることも坂道を上ることも辛くなり、突然目の前が暗くなることも珍しくなく、夜も熟睡できなくなりました。身体はむくみ、傍目にも腫瘍が目立ち、日に日に太っていくけれど、運動したら倒れるのでそれもできない……。

(この記事を書くことでご心配をかけるかもしれません。が、私の病気(というか不調)は決して難しいものではありません。ただ、身体のことは自分にとっては繊細で、病名を公開することは今は憚られています。ごめんなさい)

6月になり、ようやくロックダウンが解けて病院に行くことができ、そこで一人の医師に出逢いました。その先生は私と同年代で、先生にとっては、できたばかりの美しい分院での初めての患者が私だということで、その時、なんとなく良い風が吹いたようなご縁を感じました。先生は「これはもう手術をしましょう。僕はこの手術のスペシャリストなので安心してください」そうおっしゃいました。今まで国内外でいろんな先生に診ていただいてきましたが、そんな風に決断してリードしてくれる医師に初めて会い、とても嬉しかったのです。

かくして、清々しい気持ちに加え、海外での手術はいい社会見学になるなんて呑気な気持ちもあったのですが、その日が近づくにつれ、不安が膨らみ眠れなくなり、ついに友人に泣きついて、入院前最後の麻酔の問診と検査についてきてもらうことになりました。待ち合わせで彼女の顔を見たら、ほっとして涙ぐんでしまいました……。

全摘か手術中止か

手術前日の夜でした。その時とんでもない思い違いが発覚したのです。私は腫瘍だけを摘出すると思っていたのですが、どうやら臓器を全摘する手術が予定されているらしい……。なんということでしょう。私の語学力が足りていないこと、その医療を理解しきれていなかったこと、思い込み、などが原因です。どうしよう。看護師さんは主治医に連絡してくれたのですが、その日は話すことができませんでした。その夜は近しい人たちがとことん付き合って相談に乗ってくれたのですが、答えを出せず、眠れない夜を過ごしました。

朝9時に手術開始予定だったのですが、主治医が早朝から来てくれ、私の友人(その道のスペシャリスト)とも電話で話してくれました。先生はすべて自分の責任だと謝罪してくれたうえ、「100%納得できない手術は受けるべきではないから手術を中止してもいい」と私の気持ちを尊重してくれました。私の腫瘍は大きく、それだけを取り除くことが難しく、また今後のことを考えても医師的には臓器全摘がベストというお見立てでした。

手術中止にしたらゆっくり考える時間ができるけれど、また2ヵ月手術を延期する間に私の身体はどうなってしまうのか。コロナ禍の波がまた来るかもしれない。腫瘍も心配だし、これ以上この体調で仕事を続けるのは不可能のように思えました。

こんな難しい決断をその場で迫られた(手術時間が迫っていて麻酔科の先生たちが横でじっと待機している)経験は未だかつてありませんでしたが、迷った末に私が出した結論は「全摘します」との答えでした。

決断したら、もう迷いはありませんでした。主治医を信じていたし、明るい未来も信じられたのです。ですが、手術室に運ばれるベッドの上で涙が後から後から溢れでてきました。それは臓器を失う悲しみではなく、あたたかい涙でした。「あ、この気持ち、いつだったか経験したことある」。

10数年前、私にとっては望まぬ方向に人生が進んでいった時。この流れはなんだろう、と落ち込み、不思議に思いつつも、周りの方々が心を尽くして応援してくれて、そのおかげで感謝して一歩を踏みだすことができたのでした。今回も同じ。すごくポジティブな決断ではない。だけど、これもご縁であり運命であり、周りの方々のあたたかい想いをダイレクトに感じ、また前へ進めると信じることができたのでした。

麻酔から覚めたらそこは処置室で、少し喉の痛みと吐き気を感じましたが、麻酔効果と前日の睡眠不足で術後何時間もこんこんと眠り続け、「まだ寝るの?」と看護師さんに何度も起こされました。

その夜、主治医の先生と話すと、また驚きの事実が(何回め?笑)。

当初、腹腔鏡術式で手術を始めたけれど、大変難しく、出血多量で輸血をしながら開腹手術に変更になったこと。腫瘍は1キロ以上あったもののほぼ全部取り出し、そして最終的に全摘せず、臓器を残せたこと!

全摘の決断をしたつもりだったけれど、今度は先生が逆の決断をしてくれた。こんな決断は医療の難しさだと思うのですが、素晴らしいなと感じました。腹腔鏡手術を経ての開腹手術なので、お腹は傷だらけ。でも、これは信頼する主治医がチャレンジして闘ってくれた証だと思いました。ちなみに、当日は満身創痍でものすごい倦怠感、身体も全く動かせませんでしたが、痛みの度合いを聞かれて、10のうち3と答えたくらいで、当日夜も穏やかに眠りました。辛かったのは咳くらい。聞くところによると、こちらではペインマネージメントが盛んで、いかに無痛であるかにもこだわる医療がなされているそうです。

その後も連日で輸血したりといろいろありましたが、病院関係者と周りの方々に本当によくしてもらい、病室の大きな窓からぶどう畑に落ちる夕陽を毎日眺め、病院に縁のなかった私にはなんだか感動の日々でした。

ぶどう畑に落ちる夕陽

病人面(笑)

あまりにも居心地がよく、離れがたくて、自ら進んで延泊してしまったほどです(笑)。

オーストリアの社会保険料は決して安くはありませんが、公立病院なら入院手術にかかる費用は基本的にありませんし、いろんなことが整っていて(新しい病院だったことが大きいかも)、オーストリアの医療に大満足、最高の入院生活でした。二人部屋をほとんど一人で使わせてもらったことも大きかったです。

朝にテラスでいただくコーヒー

診察に付き添ってくれた友人、電話で主治医と話してくれた友人、相談に乗ってくれた方々、連日お見舞いに来てくれた友人たち、助けてくれた同僚たち、車で迎えに来てくれた友人、傷跡を見るのが怖いとベソをかく私の体を洗ってくれた看護師さん、そして主治医の先生……みんなへの感謝の気持ちと生まれ変わった自分の身体に幸せを感じています。過去に時を戻せたとしても、この手術入院の経験は絶対したい、と思えるほどに。

本当は、今月の連載は休載させてもらうつもりでいました。プライベートなことですし体調も万全ではなく。でも、きっとこの経験は今後の自分の大切な糧になり、音楽にも影響を与えていくのではないか。現場でピアノを弾くだけが「音楽日記」ではない。「一瞬」の蓄積、出逢いや経験が、音楽と人生観を形作っていくのではないかと思えたので、書き残すことにしました。今月いっぱい劇場を休ませてもらうので、静かな時間を味わいつつ、生まれ変わった身体と心で稽古場で弾く日を楽しみにしつつ……。

今月の1曲

そんなわけで、今月はまだピアノがあまり弾けず、新しい動画は撮れません。が、先月日本で収録したバレエカレッジのオンライントーク&コンサートの動画がYoutubeにアップされたので、そのダイジェスト動画を載せようと思います。ピアノはともかくトークはだいぶ恥ずかしいのですが、ウィーンのバレエ、そしてバレエピアニストの仕事を実演交えてご紹介、リクエスト頂いた曲もいろいろ弾いたので、楽しんでいただけたら幸いです。本編はこちらからどうぞ。

2021年9月20日 滝澤志野

★次回更新は2021年10月20日(水)の予定です

【NEWS】 配信販売スタート!
滝澤志野さんのベストセラー・レッスンCD「Dramatic Music for Ballet Class」(ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス)、大好評のvol.1に続き、vol.2&3の配信販売がスタートしました!

★滝澤志野さんのアーティスト情報ページはこちら

New Release!

Dear Tchaikovsky(ディア・チャイコフスキー)〜Music for Ballet Class
ウィーン国立バレエ専属ピアニスト 滝澤志野

ベストセラーCD「ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス」でおなじみ、ウィーン国立バレエ専属ピアニスト・滝澤志野の新シリーズ・レッスンCDが誕生!
バレエで最も重要な作曲家、チャイコフスキーの美しき名曲ばかりを集めてクラス用にアレンジ。
バレエ音楽はもちろん、オペラ、管弦楽、ピアノ小品etc….
心揺さぶられるメロディで踊る、幸福な時間(ひととき)を。

●ピアノ演奏:滝澤志野
●監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:3,960円(税込)

★収録曲など詳細はこちらをご覧ください

 

ドラマティック・ミュージック・フォー・バレエ・クラス1&2&3 滝澤志野  Dramatic Music for Ballet Class Shino Takizawa (CD)
バレエショップを中心にベストセラーとなっている、滝澤志野さんのレッスンCD。Vol.1では「椿姫」「オネーギン」「ロミオとジュリエット」「マノン」「マイヤリング」など、ドラマティック・バレエ作品の曲を中心にアレンジ。Vol.2には「白鳥の湖」「眠れる森の美女」「オネーギン」「シルヴィア」「アザー・ダンス」などを収録。Vol.3ではおなじみのバレエ曲のほか「ミー&マイガール」や「シカゴ」といったミュージカルナンバーや「リベルタンゴ」など、ウィーンのダンサーたちのお気に入りの曲をセレクト。ピアノの生演奏でレッスンしているかのような臨場感あふれるサウンドにこだわった、初・中級からプロフェッショナル・レベルまで使用可能なレッスン曲集です。
●ピアノ演奏:滝澤志野
●Vol.2、Vol.3監修:永橋あゆみ(谷桃子バレエ団 プリンシパル)
●発売元:新書館
●価格:各3,960円(税込)

この記事を書いた人 このライターの記事一覧

大阪府出身。桐朋学園大学短期大学部ピアノ専攻卒業、同学部専攻科修了。2004年より新国立劇場バレエ団のピアニスト。2011年よりウィーン国立バレエ専属ピアニストに就任。 レッスンCD「Dramatic Music for Ballet Class」Vol.1、2、3、「Dear Tchaikovsky~Music for Ballet Class」、「Dear Chopin〜Music for Ballet Class」をリリース(共に新書館)。国内のバレエショップを中心にベストセラーとなっている。2023年7月大阪・東京で初のピアノソロリサイタルを開催。初のピアノソロアルバム「Brilliance of Ballet Music~バレエ音楽の輝き」も同時発売。

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