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【12/20-21上演】Noism「マレビトの歌」金森穣インタビュー〜世界が閉じていくこの時代に、私たちはマレビトとどう向き合うか

阿部さや子 Sayako ABE

Noism0+Noism1「マレビトの歌」金森穣、井関佐和子 photo: Shoko Matsuhashi

2025年12月20日(土)・21日(日)、彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール〉にて、Noism0+Noism1『マレビトの歌』が上演されます。

この作品は、2023年に「黒部シアター2023 春」の野外ステージで初演され、2025年には利賀村での「SCOT サマー・シーズン2025」で再演、さらにスロベニアとイタリアで国境をまたいで開催される「Visavì Gorizia Dance Festival(ヴィザヴィ・ゴリツィア・ダンス・フェスティバル)」の2つの国際的フェスティバルから招聘を受けて再々演。そして12月5日〜7日、Noismの本拠地であるりゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館で凱旋公演を果たしました。

埼玉公演を目前に控えた12月中旬、演出振付の金森穣さんに話を聞きました。

金森穣(かなもり・じょう) 演出振付家、舞踊家。Noism Company Niigata芸術総監督。 17歳で単身渡欧、モーリス・ベジャール等に師事。ルードラ在学中から創作を始め、NDT2在籍中に20歳で演出振付家デビュー。10年間欧州の舞踊団で舞踊家、演出振付家として活躍したのち帰国。2004年4月、りゅーとぴあ新潟市民芸術文化会館舞踊部門芸術監督に就任し、日本初の劇場専属舞踊団Noismを立ち上げる。

まずは本拠地・新潟での凱旋公演を終えて、手ごたえは?
金森 Noismは新作を上演することがほとんどで、このように本番を重ねられる作品というのはなかなかありません。ひとつの作品を稽古して、本番を迎え、再び稽古して、また別の場所で本番……という経験ができたのは、Noismの初期代表作である『NINAー物質化する生け贄』以来、久しぶりのこと。しかしこれは舞踊家にとって絶対的に必要なプロセスであり、演出振付家にとっても、本番を通してしか気付けない作品の力や課題があります。実演芸術にとって「再演すること」がいかに重要であるかを、あらためて実感しているところです。
今回のタイトルにある「マレビト」とは、民俗学者の折口信夫が提唱した概念で、時を定めて他界から訪れる神や霊的な存在のこと。金森さんがこの概念に出会い、惹かれたきっかけは?
金森 正確には覚えていませんが、もうずいぶん前に、「死んだ人はどこに行くのか」という問いや、亡くなった人が年に一度この世に帰ってきて再会できるという「お盆」のような精神文化に、強く惹かれた時期がありました。折口の「マレビト」という概念に出会ったのは、その頃だったと思います。
いっぽう「舞踊とは何か」ということもずっと考え続けていて、そのルーツたるシャーマニズムや神事などについてリサーチしていると、信仰と結びついた芸能のあり方や民俗学的なアプローチというものにも、当然向き合わざるを得なくなってきます。そうした過程において、私はマレビト的なものについてずっと考えてきたと言えるし、そのキーワードをタイトルにした作品を作るのも、時間の問題だったのだと思います。
金森さん自身は、「マレビト的なるもの」の存在や訪れを実感することがありますか?
金森 直接的な答えにはならないかもしれませんが、例えば、ヨーロッパにいた頃にお世話になった方が亡くなったというニュースが入ってきて、大きな喪失感を覚えるとします。ただ、その方とはもう、ここ10年も20年もお会いしていない。会っていなかったのだから、その方が存命であっても逝去しても、いまここにいる自分には直接的に何も変化をもたらさないはずです。それなのに、亡くなってしまったと聞き、もう二度と会えないと思った瞬間に、ものすごく悲しくなったり、その方のことを思い出したりしてしまう——つまり、「いま目の前にいない」ということと、「この世にいない」ということの境界はどこなのか。そんなことを、ずっと考え続けています。

Noism0+Noism1「マレビトの歌」 photo: Shoko Matsuhashi

本作に寄せた金森さんの演出ノートには、「個と集団」「彼岸と此岸」という2つの創作テーマが書かれています。これら2つのテーマは互いに関連していますか? それともまったく別のことでしょうか?
金森 ある意味ではまったく異なる2つですが、突き詰めればどちらも「舞踊とは何か」という問いにたどり着くテーマだと思っています。

22年前、集団でなければ表現できない実演芸術の強度を目指して、Noismは発足しました。「金森穣」「井関佐和子」といった個は個としてありながら、日々みんなで一緒に稽古し、集団で活動するということを、私たちはずっと大事にし続けています。

そのいっぽうで、集団を構成するメンバーは随時入れ替わり、いま在籍している舞踊家たちは第5世代くらいです。かつてはここにいて、いまはいないメンバーたち——もちろんみんな元気に活動を続けているけれど、いま自分の目の前にある現実が「此岸」だとすれば、この目に見えない領域は「彼岸」と捉えることもできる。そしていまの自分は、過去に関わり現在は「彼岸」にいるたくさんの人たちの影響によって作られています。

作家として作品を作れば作るほど、舞踊家として踊れば踊るほど、亡き師・ベジャールや牧阿佐美先生など自分に多大な影響を与えてくださった方たちへの思いは、どんどん強くなってきています。いまも元気にしているけれど会わなくなった人たち、もしかしたらこの先もう会うことがないかもしれない人たちへの思いも、つねに自分の中にあります。そして舞台に立った時、彼らと共に経験してきた愛や憎しみ、喜びや苦悩など、この身体で感じ味わってきたものすべてが、そのまま立ち現れる——今回久しぶりに舞踊家として踊りながら、そのことを如実に感じています。もちろん作品ごとにテーマや音楽があり、表現されるものは都度異なるけれど、ベースにはつねに「金森穣である」ということがある。その生々しさ、抗いようのない赤裸々さが、舞踊芸術の大きな特色なのだとあらためて痛感しています。

Noism0+Noism1「マレビトの歌」井関佐和子(写真中央)photo: Shoko Matsuhashi

「個と集団」について、ひとつ聞いてみたいことがあります。先日、金森さんの“古巣”でもあるNDT 2が来日しましたが、上演した3作品すべてに通底していたのがまさに「個と集団」というテーマだったように感じました。「個と集団」の問題が、いまこの時代のアーティストや観客に響くのはなぜなのか。金森さんはどう考えますか?
金森 いくつかあると思いますが、社会的な変化の面でいえば、ひとつには現代の日常生活が確実に個人化してきているということ。例えばエンターテインメントの享受のされ方も個人で楽しむ方向へと明確に移っていて、その傾向は2000年代以降ずっと続いています。SNS的なもので共通の関心を持つ人とつながっているとしても、実際には極めて孤独です。なぜならそこで生まれている「つながり」は、肉体的に同じ時間と空間を共有する集団性とは性質がまったく違うから。そういう時代の中で、「個とは何か」「集団とは何か」ということがあらためて問われているのだと思います。

もうひとつ、もしかしたらこれがいちばん大きいのかもしれませんが、世界の情勢がかなりきな臭くなってきていること。自国主義というか、世の中が排他的な方向へ急速に傾いている。そうした状況に対する、芸術家としての焦りや不安や憤りが創作の源流になった時に、「集団」というものを問う作品が次々と生まれてくるのは必然だという気がします。

そのように国も人も閉じていく潮流の中で、私たちは無意識に、マレビト的なるものに対しても扉を閉ざす傾向にありますね。
金森 今回あえて「マレビト」という言葉をキーワードに創作をしたのは、まさにそのような時代に対する危機感が自分の中にあるからです。得体の知れないものや、目に見えないもの、外部からやって来るものに対してどう向き合うか。それらは本来、文化と呼ばれるものが醸成していくために、非常に大事なものだったはずです。ところがいまはそうしたものがどんどん蔑ろにされ、ドアを閉ざされ、人々は「自分たちの理解できる範囲だけでいい」という方向に向かっている。そんな世の中に対して警鐘を鳴らしたいという思いがあります。

さらに言えば、ここ新潟においては金森穣もまた「外来物」です。もう22年間ほどここで活動していますが、いまでも時々「侵入者」のように扱われることがある(笑)。でも、それは自分自身が望んでいることでもあります。なぜなら、芸術家とはマレビト=外部の人間であるべきだ、という信念があるから。 芸術家はつねに、集団を外部から見つめる冷静な批判性を持っていなくてはいけません。

Noism0+Noism1「マレビトの歌」金森穣、井関佐和子 photo: Shoko Matsuhashi

『マレビトの歌』新潟公演の前にりゅーとぴあで行われた囲み取材で、金森さんがふと口にした「踊ることでしか伝えられないものがある」という言葉が印象的でした。あらためて、その意味を教えてください。
金森 公演のたびに綴る演出ノートであれ、行政に対する説明であれ、私はいろいろな場面で言葉を駆使し、自分たちの活動の重要性を伝え続けています。けれどもやはり、踊ること、自分の生身の肉体や精神を晒すことでしか、伝えられないものがある。しかも、ただ舞台に立てばいいわけではありません。とくに私はもう51歳ですから、今回の舞台に臨むにもかなりの時間をかけてトレーニングし、自分の身体と向き合ってきました。そうした「献身の時間」や自分自身と対峙するプロセスの果てにしか、舞台は存在し得ないのです。それはもう、理屈ではありません。Noismがどうだとか、舞踊とは何かとか、そういった御託(ごたく)も、この身体をポンと見せた瞬間に説得できないなら舞台に立ってはいけない。そういう覚悟を持って、この夏からずっと自分自身と向き合い、いまようやく舞台に上がっています。だから、観てもらうしかありません。観れば感じていただけるくらい突き詰めてきたつもりだし、この身体で伝えられることは必ずある。そう信じて踊っています。
その囲み取材でもうひとつ、「金森穣もいい歳なので、いま見ておかないと後悔することになる」と冗談めかして言った言葉も気になっています……。金森さんも、「舞踊家としてあと何年踊るか」みたいなことを考えたりするのでしょうか?
金森 先ほどの話ともつながりますが、別に何もトレーニングしなくても、舞台に立つこと自体はできるのです。ただ、私はそういうものを目指しているわけじゃない。自分が納得できるまで、自分自身と対峙すること。その困難と向き合えるうちは舞台に立つし、それがしんどくなって「これはもう人に見せたくないな」と自分で思ったら、実演家としての活動からは身を引くと思います。
さらに食い下がりますが……金森さんは舞踊家としても第一級で、「踊る金森穣をもっと観たい!」と熱望するファンは多いと思います。金森さん自身の中にも、「できる限り長く踊り続けたい、実演家として舞台に立ち続けたい」という気持ちが強くありますか?
金森 自分が納得できるなら。さすがにもう20代前半の頃の瞬発力や可動域や動きの軌跡を求めているわけではありませんが、それでもやはり、いまの身体での感覚や可動域やスピード感が自分の理想と見合わないなら、舞台には立ちたくない。そこは、自分の感覚を信じていたいと思っています。
ただ、Noismはいま、若いメンバーが非常に多くなっています。平均年齢が20代中盤ですから、年齢的には私の息子・娘です(笑)。そんな彼らと同じように踊ることはもちろんできないけれど、それでも自分が踊ることでしか伝えられないこと、見せてあげられないものがある。だから彼らのためにももう少し頑張らなくては、という気持ちはあります。

Noism0+Noism1「マレビトの歌」金森穣、井関佐和子 photo: Shoko Matsuhashi

メンバーが非常に若返っているという現在のNoismの、集団としての個性や特徴をどのように見ていますか?
金森 これが時代的なものなのか、それとも彼らの資質なのかは一概に言えませんが、集団としての強度は、明らかに過去よりも現在のほうが強いと思います。 みんなで話し合いながら踊りを揃えていったり工夫したりと、メンバーどうし本当に仲が良い。その強度はNoism史上いちばん強いのではないでしょうか。
いっぽう一人ひとりが個として立った時には、ひと昔前のメンバーたちのほうが良くも悪くも我(が)が強かったぶん、強度としては上だったかもしれません。ですからいまのメンバーたちが、集団的な強度を保ちつつも一人ひとりが個性を磨き、それを自分たちでもっと表現できるようになると、Noismはさらにおもしろくなるはずです。
「個の強さ」と「集団の強さ」は、必ずしもトレードオフの関係ではなく、両立し得るものでしょうか?
金森 両立し得ると信じています。ここまでの22年間、Noismはずっと同じメンバーでやってきたわけではなく、その時代の構成メンバーによって、それぞれの集団のあり方や個性を発揮してきました。そうした積み重ねの上に現在の集団があり、技術的な水準も上がっていて、集団的な強度も高まっている。客観的に見ても、カンパニーとして非常に良い状態にあると思います。
ところで、金森さんは今年3月に牧阿佐美バレヱ団に『Tryptique~1人の青年の成長、その記憶、そして夢』を振付け、来年5月には東京バレエ団『かぐや姫』の再演も控えています。バレエダンサーに振付けたいものと、Noismで表現したいもの。そこには大きな違いがありますか?
金森 全然違います。そもそもNoismは、同じメソッド・同じ精神性を共有し、日々一緒に活動しているメンバーでしか表現し得ない芸術を生み出すために存在しています。いっぽうバレエ団に振付ける場合は、彼らは彼らで日々活動している、その一端に金森穣が参加して、クラシック・バレエの技術で磨かれた身体の強度を活かした 作品を作る。アプローチが根本から違います。
だとすると、振付家・金森穣にとって、自分のカンパニーを持つことはやはり極めて重要ですか?
金森 大事です。自らの芸術性を真に舞台上で体現してもらうためには、自分の集団を持つことが不可欠だと思ってやってきましたし、その考えはこれからも変わらないでしょう。たとえ経済的な理由で規模が小さくなろうが、場所が変わろうが、「自分と志を同じくする舞踊家たちを集め、集団で活動する」ということは続けていくと思います。

Noism0+Noism1「マレビトの歌」 photo: Shoko Matsuhashi

『マレビトの歌』埼玉公演が間もなく開幕します。会場は彩の国さいたま芸術劇場ですね。
金森 あの劇場の良さは、舞台の広さに対して客席がキュッとコンパクトに設計されているところです。舞台の奥行きが通常の2面分くらいあるのに、客席数は770席あまりですから、非常に贅沢な造りですよね。新潟のりゅーとぴあは、客席から舞台を俯瞰で見下ろす構造になっているので、床面がよく見えます。対してさいたま芸術劇場は、客席と舞台が地続きで、目線の先に空間がどこまでも遠のいていくような感覚がある。今回はそうした劇場の特徴を存分に活かした演出をしたいと思っています。
読者のみなさんにメッセージを。
金森 舞踊とは「非言語」であり、その場に居合わせなければ感知できない表現です。あらゆることが個人の手元、二次元の画面の中で完結するこの世の中で、不特定多数の人々が同じ空間に集い、豊かなひとときを共有する。それが劇場という場所であり、そこで過ごす1〜2時間が、人生の忘れ得ぬ体験になります。いまこの時代にNoismが存在し、私たちが舞台に立っていること。その一期一会の奇跡を、ぜひ劇場で体験してください。

Noism0+Noism1「マレビトの歌」井関佐和子(写真中央)photo: Shoko Matsuhashi

公演情報

Noism0+Noism1『マレビトの歌』

日時

2025年

12月20日(土)15:00

1221日(日)15:00

会場

彩の国さいたま芸術劇場〈大ホール

詳細・問合 Noism 公演WEBサイト

 

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