
「ソワレ・ド・バレエ」撮影:岡村昌夫(テス大阪)
ダンサー、振付家、指導者として、日本のバレエ界に多くの作品と記憶を残した深川秀夫。
2025年4月、深川と親交の深かったダンサー、音楽家、スタッフが大阪に集って上演された『深川秀夫 バレエの世界』は、彼の偉業を回顧するだけでなく、作品が人から人へ、身体から身体へと、いかにして受け継がれていくかを示した舞台でした。
深川秀夫という存在の大きさ、そして彼の作品がいまなお踊り継がれる理由——。
同公演の記録を、舞踊ジャーナリストの菘あつこさんの寄稿でお届けします。
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バレエ発祥の地であるヨーロッパはもちろん、ロシア、豪州等々……いま、世界中のバレエ団で日本人バレエダンサーが活躍する。その“さきがけ”がこの人ではないだろうか?
深川秀夫。2020年9月2日、コロナ禍のなか、73歳で惜しくも永眠。
1947年8月23日に名古屋で生まれた。14歳から越智バレエ団(現・越智インターナショナルバレエ)で学び、1965年にヴァルナ国際コンクール4位。1969年の第1回モスクワ国際コンクールでは第2位銀メダル、同時にパリ国際舞踊大学から日本人初のニジンスキー賞も受賞。この時の1位はというと、ロシアから後にアメリカに亡命して世界のトップスターになったミハイル・バリシニコフ。
同年、深川は東ベルリンのコミッシュ・オペラのソリストに。ソ連時代で、東西ドイツの分断されていた時代のことだ。
翌70年のヴァルナ国際コンクールでは1位なしの2位。実質の最高位なわけだが、もしも彼が西洋人だったなら、1位だったのだろうか……?
この後、彼は西独のシュツットガルト・バレエに入団した。この時のシュツットガルトは、このバレエ団を世界トップレベルに引き上げたジョン・クランコが率いていた。深川は彼のもとで活躍。複雑なテクニックを次々とこなす深川に、クランコは“Hideo”と彼の名を付けたパ(バレエの動き)を作ったとも聞く。
ジョン・クランコ作品は、いまも世界中で上演されている。深川は、そんな“バレエの神様”と共に仕事をしたわけだ。
45歳の若さでクランコが急死した後、彼の作品の多くをレパートリーとしているミュンヘン国立オペラ・バレエ劇場とエトワールとして契約。1980年に日本に帰国するまで活躍した。
帰国後、もちろん、日本でスターとして活躍。従来のクラシック・バレエに留まらない企画に次々と出演、振付も手掛けるようになっていった。
その振付が、また、センス良く、素晴らしいものがふんだんにあった。ダンサーとして素晴らしい人は振付がそれほどではない場合が多いように思うが、深川は違う。素晴らしいダンサーとしての経歴を持ちながら、振付もとても魅力的、珍しい両刀使いだ。しかも、日本のバレエ団体の事情——女性がほとんどで男性は少ない、ゲストに頼ることも多い——そんな現実をしっかりと知った上で創っていたのも興味深い。

深川秀夫
その偉大さを実感する素晴らしい公演が2025年4月27日に大阪・吹田メイシアターで行われた。もともとは、それよりも前、2024年の9月1日に開催予定だった公演。チケットは早々とソールド・アウトと聞いていた中、台風のため延期されてのもの。延期公演としてのソワレに加えて、追加公演としてマチネも行われた。また、館内の展示室では前日から当日、『深川秀夫バレエの世界』展として、思い出の衣裳やプログラム類の数々、深川の自宅のデスクなどが展示され、その充実した内容に長い行列が出来ていた。
観客の期待溢れる中での開演。守山俊吾指揮シンフォニア・アルシスOSAKAの演奏で進んだ舞台は、ピアノ・コンチェルトが4曲あり、それを担ったのは沼光絵理佳。「サウンド・オブ・サイレンス」で幕開け。深川のリサイタルはいつもこの曲で幕開けたという。スクリーンが降りて、ヴァルナ国際バレエコンクールで深川が受賞した折の映像が映し出された。ガリーナ・ウラノワ、谷桃子といった錚々たる審査員たち、『バヤデルカ』のソロルを踊る金メダルを獲得したミハイル・バリシニコフ、そして銀メダルの深川の『眠れる森の美女』より青い鳥のヴァリエーション。本当に鳥のように飛んでいってしまいそうな——現地で“フライング・ジャパニーズ”と呼ばれたという。

撮影:岡村昌夫(テス大阪)
スクリーンがはけて、最初の演目は『ディ・フェーダー』。ヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」に乗せて、背中にカラフルな羽根を着けたジュニアたちが、時に高い声を上げながら、この年頃ならではの元気なエネルギーいっぱいに踊った。深川は「白鳥」を夢見る少女たちを「カルガモ」に見立ててこれを創ったのだという。続いては、ラフマニノフの「ピアノ協奏曲第1番第3楽章」に振付けられた『ラフマニノフ・コンチェルト』。関西地区のダンサー18人の群舞。スパニッシュを思わせる動きや、ネオ・クラシックと思える動きなどがおしゃれに組み合わされた振付。燃えるような赤い衣裳のダンサーたちの強い意志を感じる視線のラストが印象的。

「ディ・フェーダー」撮影:岡村昌夫(テス大阪)

「ラフマニノフ・コンチェルト」撮影:岡村昌夫(テス大阪)
休憩を挟んだ第2部では、内面表現をともなって心に響く小品が並んだ。深川が大塚礼子のために振付けたという『光の中で』を踊ったのは、長年バーミンガム・ロイヤル・バレエのプリンシパルとして踊ってきた佐久間奈緒。バーンスタインのオペラ『ミサ』の「シンプル・ソング」に乗せて、周囲のスポットライトに照らされ、ハンガリー風の威厳あるポーズを取るところから。プリマ・バレリーナとしての毅然とした自らを律するたたずまい、威厳、誇り、そのなかの孤独感などが静かに伝わって来た。続いては名古屋地区のダンサーたちによる『レ・ゼトワール』。ショパンのピアノ協奏曲第1番第3楽章のキラキラ輝くような音に乗せての軽妙で高貴さを持ってキラキラ輝くような8人でのバレエ。踊りとともに、沼光のピアノがとても心地よかった。

「光の中で」佐久間奈緒 撮影:岡村昌夫(テス大阪)

「レ・ゼトワール」撮影:岡村昌夫(テス大阪)
続いては、東ベルリン時代に深川が実際に身近で体験した出来事と重なる“亡命”を描いた『新たなる道へ』。普通の庶民の女性たちの心の葛藤が丁寧に描かれる。長年、深川作品を踊り続けているダンサーなど7人が深みを持って踊り、心に沁みた。そして『顔のない女』は、牧阿佐美バレヱ団プリンシパルの青山季可が4人のダンサーとともに。音楽はモーツァルトのピアノ協奏曲第23番第2楽章。社交界随一の花形だった女性が老いを受け入れられず仮面で顔を隠したまま死を待っている——青山はその切なさ、声にならない叫びを繊細さと激しさの両方を持って踊り、観ている私たちは心がキュッと鷲掴みにされるようだった。これらを観て、深川は、女性ダンサーの魅力を最大限に引き出す振付家だとつくづく感じた。

「新たなる道へ」撮影:岡村昌夫(テス大阪)

「顔のない女」青山季可 撮影:岡村昌夫(テス大阪)
ラスト第3幕は『ソワレ・ド・バレエ』。グラズノフの「四季」に乗せた、宝石がキラキラと煌めくような作品。私はこの作品をもう何度も観ているが、今回のソリスト5カップル+コール・ド・バレエは、これまで観た中でもっともレベルの高いダンサーたちかと思う。中心のカップルを中村祥子と厚地康雄、それに、米沢唯と中家正博、池田理沙子と奥村康祐、上山榛名と水城卓哉、春木友里沙と今井大輔と、東西のスターたちが並び、コール・ド・バレエも精鋭メンバー。贅沢な夢を見ているような時間だった。

「ソワレ・ド・バレエ」ソリスト左から:上山榛名と水城卓哉(貞松・浜田バレエ団)、米沢唯と中家正博(新国立劇場バレエ団)、中村祥子と厚地康雄、池田理沙子と奥村康祐(新国立劇場バレエ団)、春木友里沙と今井大輔(法村友井バレエ団) 撮影:岡村昌夫(テス大阪)

「ソワレ・ド・バレエ」中村祥子 撮影:岡村昌夫(テス大阪)

「ソワレ・ド・バレエ」米沢唯 撮影:岡村昌夫(テス大阪)
そして最後は、スライドで、ジャン・クロード・ルイーズ振付『ナルシスト』を深川が踊る映像。マーラーの「アダージェット」に振り付けられた作品で、生演奏が映像とぴったり合っていたのも感動。カーテンコールは、オープニング同様に、深川のリサイタルはいつもそうだったというサイモンとガーファンクルの「コンドルが飛んでいく」。大きな拍手に包まれて幕が降りた。
観終わって、深川が病に倒れた後に話した電話での声が耳に蘇った。「菘さん、僕は倒れて一つだけ良かったことがあった。僕が倒れても、来年も僕の作品を上演したいと言ってきてくれるところがたくさんある。だから、もし僕が死んでも、僕の作品はきっと残っていくだろうと思えて」。あらためて、こんなに良い作品の数々が、ずっと引き継がれていくことが確信できるような。『深川秀夫の世界』を継承する会がそれを守っていくだろう。

撮影:岡村昌夫(テス大阪)