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【動画あり】スターダンサーズ・バレエ団「シンデレラ」特集②渡辺恭子インタビュー〜やめる時は自分で決める。ずっとそう思ってきました

阿部さや子 Sayako ABE

Videographer:加藤清之(GRANCIEL PICTURES)

2025年2月、スターダンサーズ・バレエ団『シンデレラ』全2幕を上演します(9日=水戸、15・16日=東京)。
今回の舞台は、通常のバレエ公演より鑑賞マナーを緩和して行う「リラックスパフォーマンス」として上演されるもの。これは障がいのある人や小さな子ども連れの家族など、劇場空間での鑑賞に不安がある人も気がねなく舞台芸術を楽しめるようにと取り組まれている公演形態で、同団では2018年から実施しています。

また、今回の『シンデレラ』公演にはもうひとつ、特別なことがあります。
スターダンサーズ・バレエ団の中心的なダンサーとして数々の作品で主役を務めてきた渡辺恭子さんが、今年度をもって現役ダンサーを引退すると発表。
この『シンデレラ』が、渡辺さんのラストステージになります。

5歳から歩み始めたバレエの道。
その足元を支えてくれた“相棒”のこと、バレリーナ人生に自ら幕を引くとを決意した理由、最後の舞台に向かう今の思い。

バレエ団の稽古場で、渡辺恭子さんにお話を聞きました。

渡辺恭子(わたなべ・きょうこ)東京都出身。5歳より胡桃バレエスタジオにてバレエを始める。1999年フランスのスタンローワ・バレエ学校入学。2003年パリ国立高等音楽舞踊学院(コンセルヴァトワール)に編入、2005年首席で卒業。同年チューリッヒ歌劇場バレエ(スイス)入団。2006年ライプツィヒ歌劇場バレエ(ドイツ)に移籍。2008年スターダンサーズ・バレエ団に入団。2009年、鈴木稔版『シンデレラ』で主役デビュー。2013年より2年間、文化庁新進芸術家海外研修制度研修員としてカールスルーエ・バレエ(ドイツ)に派遣。以降、数多くの作品に主演。

🩰

あの頃の弱さが、今の私を強くしてくれた

まずは渡辺恭子さんのこれまでの歩みについて聞かせてください。バレエを始めたのは何歳から?
渡辺 5歳からです。私の母が、バレエに憧れていたけれど自分は習えなかったと。だから娘が生まれたらバレエを習わせたいと、ずっと思っていたそうです。
幼い頃の恭子さんは、どんな女の子でしたか?
渡辺 シャイなところもありましたけれど、家では兄と一緒に大きな声ではしゃいだりして、わりと活発な面もあったと思います。
得意だったことと苦手だったことは?
渡辺 運動は苦手でした。かけっこではいつもビリかブービー。ブービーなら「最後じゃなくてよかった〜」と喜ぶくらいのレベルでしたね(笑)。

好きだったのは絵を描くことで、バレエ教室の他に、絵画教室にも通っていました。その教室の先生が素晴らしくて、「ここでのルールはひとつだけ。単色は使わずに、必ず自分で色を2色以上混ぜて使ってね」と。それが子どもながらにすごく楽しくて、「こういう配合で混ぜたらどうなる?」と考えたり、「こんな色が出てくるんだ!」と発見したりするのが大好きでした。一時はバレエと絵のどちらを続けるか、迷ったこともあったくらいです。

楽しそうな教室ですね! それでもやはりバレエを選んだのはなぜですか?
渡辺 幼い頃は描きたいものがたくさんあったし、自分ひとりの世界に没頭することのほうが好きだったけれど、成長するにつれてお友達と一緒に教室に行くことや、誰かと一緒に何かに取り組む時間のほうが楽しくなって。それで、バレエのほうを選びました。
その後、恭子さんは中学2年生で渡仏。スタンローワ・バレエ学校とパリ国立高等音楽舞踊学校(コンセルヴァトワール)で学びます。
渡辺 父親の転勤でパリに住むことになり、まずはスタンローワ・バレエ学校に入りました。そこではありがたいことに飛び級をさせていただいたのですが、周りよりも早く最終学年になってしまったために、ふと自分を見失ってしまって……。憧れていた先輩たちもいなくなり、自分は何を追いかけていけばいいのかわからなくなって、結局スタンローワは卒業することなく辞めてしまいました。それ以降、しばらく個人レッスンなどで細々とバレエを続けていたところ、知り合いの方が「もしプロになりたいのなら、履歴書に書ける場所で学ぶべきだ」と助言してくださったんです。それで、イングリッシュ・ナショナル・バレエスクールと、パリ国立コンセルヴァトワールの編入試験を受験。どちらも入学許可をいただいたのですが、パリでの生活を続けたかったし、授業料などの費用もかからない等の理由から、コンセルヴァトワールを選びました。
10代後半をフランスで過ごしたことは、その後のダンサーとしてのあり方や芸術性に影響を与えたと思いますか?
渡辺 日本人である私は、フランスでは外国人。もしも日本で暮らしていたら接点がなかったであろう幅広い年代の人たちとふれあう機会が多かったことは、自分の視野をぐんと広げてくれたように思います。また同世代でもフランスの子たちは政治や社会に対して強い興味を持っていて、例えばランチタイムの何気ない会話でも、「私、ホームレスの人と仲良くなって、……」みたいな話が出たりするんです。10代であっても、自分なりの考えを持ち、自分の意見を言い、行動する。それを踊りの表現としても全面に押し出せるみんなの力強さを、その後いろいろな場面で思い出してはパワーをもらってきました。

©Ballet Channel

恭子さんはパリ国立コンセルヴァトワールを首席で卒業。チューリッヒ歌劇場バレエに入団しました。
渡辺 素晴らしい劇場の入団契約をいただいて、ついにプロとして一歩を踏み出せたと思ったのですが……じつは入団したその年に心が折れてしまい、「もうバレエを辞めたい」と思うようになってしまいました。
それはなぜですか?
渡辺 初めて家族のもとを離れた寂しさや、プロのバレエ団ならではの「毎日がオーディション」みたいな緊張感に、心が押し潰されてしまったのだと思います。もう何もポジティブに考えられなくなり、体調や体型の管理も上手くできなくなって、大きな怪我をしてしまいました。

思うように踊れない日々の中で、バレエとは違う世界で仕事をしている友人たちが輝いて見えたこともあります。でも両親に「もうバレエをやめ⁠⁠⁠⁠て日本に帰りたい」と相談したら、「それはだめ。帰ってくるなら、やるべきことを精一杯やってからにしなさい」と。それでいったんはドイツのライプツィヒ歌劇場バレエに短期契約で移籍したのですが、結局気持ちを切り替えることはできず、帰国。今にして思えば、あの頃の自分は本当に弱かったなと思いま⁠⁠⁠⁠⁠⁠⁠す。だけど、あそこまでのどん底があったからこそ強くなれたとも思うんです。日本に戻ってからは、「もう同じ経験は絶対に繰り返さないぞ!」という気持ちをつねに持ってきました。

【Column❶】王子役・池田武志さんのコメント
良い舞台をお見せするには、良いパートナーに恵まれることがすごく重要です。僕は渡辺恭子さんという素晴らしいプリマと組めたおかげで、これまで本当にたくさんの良い景色を見せてもらいました。だから2月16日のステージは、恭子さんにとって最高の締めくくりになるように、そしてお客様にとっても僕らダンサーにとっても忘れられない1日になるように、自分にできる精一杯のサポートをしたいと思っています。

恭子さんは、鈴木稔版『くるみ割り人形』のクララそのものみたいな人です。自分がこうだと思う方向へ、真っ直ぐに突き進んでいくので。そのまっしぐらな勢いに僕は若干振り回されることもありますが(笑)、彼女の絶対的な技術と、天性の魅力と、豊かな経験を、いつも信じています。だから恭子先輩、最後まで、思いきり自由に踊ってください!

©Ballet Channel

バレエが私に教えてくれたもの

恭子さんは、2008年にスターダンサーズ・バレエ団に入団しました。きっかけは?
渡辺 帰国してしばらくは、日本でバレエを教わっていたお教室の先生のもとで、指導のお手伝いをしていました。そこで小さな子どもたちが楽しそうにレッスンをしている姿を見るうちに、「私もこんなふうにバレエが大好きだったな……」という記憶が少しずつ蘇り、「やっぱり私は踊りたい」という思いが膨らんできて。それで、時々オープンクラスを受けに行っていたスターダンサーズ・バレエ団のオーディションを受けることにしました。私、ここのレッスンがすごく好きだったんです。「こういうレッスンを毎日受けられるなら嬉しいな」というのが、いちばんの志望動機でした。
チューダーやバランシンなどバレエ史に名を刻む振付家たちの名作から、常任振付家の鈴木稔さんによるオリジナル作品まで、ユニークなレパートリーを擁するスターダンサーズ・バレエ団。実際に入団してみてどう感じましたか?
渡辺 入団⁠⁠⁠⁠⁠して初めての舞台は、バランシン振付『セレナーデ』、チューダー振付『リラの園』、遠藤康行振付『火の鳥』のトリプルビルでした。当時の私はとくに『セレナーデ』に憧れていたので、「ついに踊れるんだ!」と。リハーサルはとてもハードで、息もできないくらいの緊張感がありましたけれど、嬉しさのほうがずっと大きかったのを覚えています。そして次に来たのが鈴木稔版『シンデレラ』。それがもう、『セレナーデ』を超えてる?と思うほどのハードさで。でも、そういう厳しさや体力的なしんどさも、すべてが楽しいと思えました。
自分にとって転機になったと思う作品を、いくつか挙げるとしたら?
渡辺 まずは2015年、バレエ団の創立50周年記念公演「オール・チューダー・プログラム」で上演された『リラの園』のカロライン役。この時は他にも『火の柱』『葉は色あせて』などいくつものチューダー作品をリハーサル段階から観ることができて、入団したての頃にはわからなかったアントニー・チューダーの世界の奥深さや、バレエ団がこのレパートリーを大切にしている意味を、初めて理解できた気がしました。そして姿勢や佇まいや後ろ姿で感情を語り、間(ま)の使い方や目線の動きひとつでも、役の人物像を描き出す――そういうダンサーとしての究極の表現を私に教えてくれたのも、この『リラの園』でした。カロラインを演じるたびに、本当に失恋した気持ちになって苦しかった。あの感情も、舞台上の雰囲気も、すべてが忘れられません。もう演じる機会がないのが残念なくらい、私にとって大切な作品のひとつです。

『リラの園』渡辺恭子(カロライン)、今井智也(カロラインの愛人)©Shinnosuke Hirai

渡辺 それから2021年に踊ったウィリアム・フォーサイス振付『ステップテクスト』。まさかキャスティングしていただけるなんて夢にも思わなかった作品でしたけれど、自分の知らなかった可動域や感覚に出会い、無意識に「これが自分の限界だ」と決めつけてしまっていたラインを見透かされたような、強烈な体験でした。もちろん「もっとできたはず」という思いは、今でも残っています。それでも、 「自分はこういうラインまで挑戦していいんだ」という新境地を見せてもらえたことが嬉しかったし、感謝しています。

『ステップテクスト』渡辺恭子、池田武志 ©HASEGAWA Photo Pro.

渡辺 もうひとつは、昨年デヴィッド・ビントレーさんが私たちのバレエ団のために振付けてくださった『雪女』でしょうか。あの時は最後の最後まで「私はこれを表現する」という確信みたいなものが見つからず、もう逃げ出したいほど不安と緊張でいっぱいでした。でも作品が完成して、全編を通して踊った時、デヴィッドさんの音楽性とステップ、人と人との関係性の描き方などすべてが噛み合って、深い感情が湧き上がってきました。あの経験も、強く心に残っています。

『雪女』渡辺恭子(雪女)、池田武志(巳之吉)©HASEGAWA Photo Pro.

どれも「渡辺恭子」というバレエダンサーの新たな一面を観ることができた作品で、いち観客としても印象に残っています。
渡辺 転機になった作品を絞るのって難しいですね……。あとひとついいですか?(笑)つい先日、2024年12月8日に踊った『くるみ割り人形』。あの日の舞台は、私にとって特別なものになりました。思い返すと、初めてクララ役をいただいたのは2015年のことでした。当時は鈴木稔先生の描く“元気はつらつな女の子”というクララ像を、どうしても自分の中にしっくり落とし込めなくて。私なりの答えを見つけて舞台に立ったつもりではありますけれど、完全に腑に落ちてはいませんでした。それから2年目、3年目と回を重ねる中で、自分の姪っ子をヒントにしてみたり、また他のアプローチを試してみたり。踊るたびに試行錯誤を続けたものの、毎年クララ役と向き合うことには、ずっと“闘い”みたいな感覚を覚えていました。でも12月8日、自分にとって最後の『くるみ割り人形』で、ようやく私はクララと出会えた――そんな気がしました。あの日のことを思い出すと、今でも涙が出そうになります。だから『くるみ割り人形』も、大切な思い出の作品です。

『くるみ割り人形』渡辺恭子(クララ)©HASEGAWA Photo Pro.

2008年に入団して以来、17年間を過ごしてきたスターダンサーズ・バレエ団は、恭子さんにとってどんな場所でしょうか。
渡辺 「私が私でいられる場所」でしょうか。私はおっちょこちょいのところもあるし、納得がいかない時は「納得がいかない!」という顔をしてしまうし、素直じゃないところもたくさんあります。それでも時間を与えてくれて、許してくれて、私の望むことに耳を傾けてくれた場所。ずっと自分のペースで歩ませていただけたことに、感謝しかありません。
そのあたたかい場所を去り、現役を引退すると決めた理由を聞いてもいいですか……?
渡辺 私は燃え尽きるまで踊るのではなく、自分で決めた時にやめる。それは前々からずっと思っていたことで、自分がいつ現役をやめるべきかは、30歳を過ぎた頃からつねに頭の中にありました。でも作品に出会うたびに「ここはもっとできたはず」「次はこうしてみよう」等々と研究心が湧いてきて、なかなか引退しようという気持ちにはなれずに39歳を迎えました。もうすぐ40歳。これからもバレリーナとして生きるなら、クラスやリハーサル以外の時間もトレーニングや治療に当てて、踊ることに全集中しないと、私の場合は難しいと思っていて。でも実際にはもう指導の仕事も始めていて、やりがいも感じている自分がいます。バレリーナとしてもう一度踊りたい作品も、経験してみたかった作品もあるけれど、指導の仕事にも学ぶべきことがたくさんあり、そちらにエネルギーを注ぐのも、生き方として憧れる。だから「今だ」と思いました。

©Ballet Channel

ダンサーの中には、「自分で“終わり”を決めるなんて、怖くてできない。あとから振り返って、“あの舞台が自分のラストステージだった”という終わり方がいい」と言う人もいます。確かに、自分で線を引くのは勇気の要る決断だと思いますが、恭子さんはなぜ、「自分が決めた時にやめる」と早くから決意していたのでしょうか?
渡辺 バレエダンサーは、怪我などの理由である日突然終わりが来ることも多い職業です。だからこそ自分で最後を決めて、気持ちの区切りをつけて終われたら幸せだと思ってきました。もしかしたら、フランスでパリ・オペラ座のエトワールたちのアデューを観てきたことも、何か影響があるのかもしれません。
恭子さんのラストステージは、2025年2月16日の『シンデレラ』です。
渡辺 『シンデレラ』は私が初めての主役をいただいた作品。それが最後に巡って来たことに、運命を感じています。
シンデレラはたくさんの出演者に支えられて生きる役です。これまで一緒に踊ってきたみんなと舞台上で目を合わせ、交わりながら演じられるので、最後がこの作品で本当に良かったと思っています。
本番に向かう今の率直な気持ちを聞かせてください。
渡辺 先ほど「自分で“終わり”を決めるのは怖いと言うダンサーもいる」というお話がありましたけれど、その言葉の意味が、今の私にはよくわかります。2月16日の舞台では、どれだけ冷静な自分でいられるかが課題になると思います。

このスタジオで練習する時間も、あとわずかです。今はとにかく、1日1日を大切にしたい。一つひとつのことに集中して、一瞬一瞬を大事にして過ごしたいと、それだけを考えています。

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5歳から始まったバレエ人生の中で、大切にしてきた言葉や、自分自身との約束として守ってきたことはありますか?
渡辺 「Qui cherche trouve」(探さなければ見つからない)。チューリッヒ時代、苦しかった時に探して見つけた言葉です。新しい環境や作品に対して一歩引いてしまう自分に「“私はここにいる”と存在を示すところからしか始まらない」と言い聞かせるため、あるいは身体的なコンプレックスに囚われそうな時「この身体で何ができるかを考えよう」と切り替えるために、この言葉を心の中で唱えていました。
これから始まる新たな挑戦は、「後進の指導にエネルギーを注ぐこと」ですね。恭子さんは、バレエのどんな点を大事に伝えていきたいですか?
渡辺 一番にはやはり、フランスで教わってきたバレエの基礎でしょうか。フランスバレエの美しいフットワークやエレガンスを、しっかり伝えていきたいです。それからバレエを通して、自分という人間と向き合うこと。その子がバレエの道に進もうと、別の道を選ぼうと、「自分は何を大切にしていきたいのか」を心の中に持っておけるように。それが踊りを表現するためにも、人生に訪れる壁や困難を乗り越えるためにも、力になるはずだと思っています。
最後の質問です。恭子さんにとって「バレエ」とは?
渡辺 自分がどういう人間かを教えてくれたもの。弱さも、強さも、可能性も――自分という人間を、バレエが私に見せてくれたような気がします。

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【Column❷】渡辺恭子さんの“バレエの相棒”
バレリーナ人生の相棒は、やはりトウシューズです。いろいろなメーカーのものを履いてきましたけれど、私のナンバーワンはブロックのセレナーデ。この靴で踊ることがつらい時もあるし、痛い時もあるけれど、バレエの道をずっと一緒に歩いてくれた大切な存在です。

それから、裁縫道具も。とくに硬いトウの周囲をかがる時に必要な指ぬきは、もう何代目かわからないくらいの必需品。これも、私のバレリーナ人生に欠かせない相棒だったなと思います。

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公演情報

スターダンサーズ・バレエ団
リラックスパフォーマンス
『シンデレラ』全2幕

●日時
2025年
2月15日(土)14:00
2月16日(日)14:00
※上演時間 約2時間(解説・休憩含む)

●会場
新国立劇場 オペラパレス

●詳細
バレエ団WEBサイト

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