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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第5回〉群舞とユニゾン〜強すぎて危険な魅力、その光と影〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

群舞とユニゾン〜強すぎて危険な魅力、その光と影〜

前回は「舞台におけるセンター問題』を取り上げたが、今月はそれと対になる問題、すなわち群舞、そしてユニゾンについて語っていこう。

「同じ動きをする=ユニゾン」には強烈な魅力があり、人間は本能的にキモチイイと思ってしまう。
それはときにダンスが独裁政権やカルト宗教に利用される「黒い歴史」をも生み、以後のダンス作品にも影を落としてきた。
今回は群舞の意味と意義、そしてそもそも、なぜ我々はユニゾンをキモチイイと思ってしまうのか? その秘密にも迫っていきたい。

バレエを支える群舞の魅力

●『セレナーデ』は空気に生命を与える

群舞の美しさは、バレエの醍醐味のひとつである。一糸乱れぬ精度が要求され、ダンサー達の背の高さまで完璧にそろえていたりする。
名作といわれる作品は、主役のみならず群舞も珠玉の美しさを見せてくれるものだ。

数ある美しい群舞の中でも、幕が上がると同時にグッと胸を掴まれるのが、ジョージ・バランシン『セレナーデ』である。
切なさとドラマが同時にこみ上げてくるようなチャイコフスキーの「弦楽セレナーデ ハ長調」に乗せて、たたずんでいる17名のバレエダンサーが、ふっと右手を挙げる。腕の動きだけで舞台上の空気がひとつの塊のように息づき、景を創り出してしまう名シーンだ。

これはバランシンが渡米後初めて振付けた作品といわれ、冒頭のシーンは「クラスの最中に窓から入ってきた西日がまぶしくて皆が一斉に手を挙げた仕草から発想した」という説もある。
その真偽はともかく、「何かを動かすのが振付」だとするのなら、西日がまぶしくて光を遮るために手を挙げたダンサー達は「太陽によって振付けられた」といえる。しかもユニゾンのダンスをだ。

●『ラ・バヤデール』の『影の王国』は空間を制する

「空間を大きく使う」のは群舞の魅力のひとつだが、マリウス・プティパ『ラ・バヤデール』はその真骨頂を味わえる。

恋人を亡くした勇士ソロルが、悲しみからアヘンを吸い「影の王国」へ没入していくシーン。寺院の踊り子であるバヤデール達の幻影が、短い振りを繰り返しながらゆっくりと斜面を降りてくる。
3人、5人……舞台の端に達しても止まることなく折り返してなおも陸続として登場する。
10人、15人……反対側の端に達すると、また折り返した!
いつ終わるんだろう、と思っている間にも続々と出てきて止まらない。
やがて全員が舞台上に降りてきて、4人×8列=32人の精霊が広い舞台一面を満たすのである。

ボリショイ・バレエ「ラ・バヤデール」ザハーロワ&ラントラートフ(DVD)発売元:新書館

初めて見たときはその斬新さに感嘆した。
群舞というと、まず全員がポジションに着いてから一斉に踊り出すことが多い。
しかし「影の王国」は「ポジションに着くまで」を作品化しているのである。
しかもその過程にゆっくりじっくりけっこうな時間をかける。ひとつの振付の繰り返しだけで、変化はない。ともすれば退屈になってしまうシーンを、尋常ではない振付とダンサーの力で見せきるのである。

この「過程を見せる」には、もうひとつの効果がある。
もしも降りてくる過程がなく、はじめから舞台全体に全員がびっしり並んでいるのを見せられても、「たくさんいるな」で終わるだろう。
しかし傾斜面を進むたびに舞台にダンサーが満ち、なにもなかった空間が徐々に狭まっていく過程が、最終的な舞台の広さをあらためて実感させてくれるのである。

『セレナーデ』は板付きではじめからポジションについていて、とくに冒頭はその場から動かずに踊る。
「影の王国」は斜面の移動から平場へと拡散し、舞台空間全体を満たす。
このふたつは、それぞれ群舞の違う魅力を志向している。
それはおいおい見ていくことにしよう。

●『ジゼル』の群舞は意思を拡張する

もうひとつ、ぜひ触れておきたいのが『ジゼル』の2幕である。妖精の女王であるミルタの指揮の下、ジゼルを死に追いやったアルブレヒトを死の踊りに誘うウィリ達。整然とした動きのなかに、ミルタの意思を受けウィリ達によって増幅された殺意が舞台いっぱいに拡張し、アルブレヒトひとりに差し向けられる瞬間は、ぞっとさせられる。

この「数の威力」も群舞の魅力のひとつ。『ジゼル』では殺意の具現化だが、ダンサー達は表情を使うわけでもなく、整然とした仕草だ。しかしそれが群舞になることで「意思」を持つのである。

この群舞のポイントは「数の威力」による「意思の拡張」である。
これは主人公の激烈な感情を表現するときに効果的な使い方だ。

この「群舞による意思の拡張」の新しい形を生み出したのが、現代を代表する振付家シディ・ラルビ・シェルカウイである。
『テ ヅカ TeZukA』『プルートゥ PLUTO』など、マンガが原作の作品では、俳優の周りに数人のダンサーがまとわりつくようにからむ。これによりキャラクターの複雑な感情を周りのダンサー達が外部に拡張して視覚化するのである。その根底には、ダンスにおける群舞、あるいはオペラにおけるコロス(合唱隊)の意識もあるだろう。ときに文楽人形と人形遣いのように主客が入れ替わるように見えるなど、新しいドラマの描き方を発明した。

この「意思の拡張としての群舞」の流れでは、モダンダンスによくある「動く背景としての群舞」もある。燃え立つ炎や、戦争などで苦しむ民衆など、状況の説明として使われる。
しかし残念ながら単に説明するだけ、あるいは「弟子達に見せ場を作ってやるためだけのシーン」で、振付自体には魅力のないものも多い。

バリバリの群舞を避けるコンテンポラリー・ダンス

●なぜバリバリのユニゾンを避けるのか

コンテンポラリー・ダンスにおいても群舞はもちろん大事だが、それをメインにバーンと見せる作品は少ない。身体性と技術の高さを誇りたいアジアのカンパニーには「速く強くの身体性の群舞」でグイグイくるものも多いが、ヨーロッパでは「一昔前のスタイル」と言われたりする。

昨今のコンテンポラリー・ダンスが群舞を使う場合、高い身体性よりも、ゆっくりめに動き、動き自体のユニークさをじっくり見せることが多い。
どやぁ!というイキった感じではなく、「いやむしろ『あえて』!『あえて』のユニゾンですやん」という雰囲気を漂わせている。

コンテンポラリー・ダンスは、なぜバリバリのユニゾンを避けるのか?
その理由はいくつも複合的にからんでいる。

〈昨今のコンテンポラリー・ダンスが、バリバリのユニゾンを避ける理由〉

  1. 個人のキャラクターの重視。さらにコンセプトなど動き以外の要素が重視されてきた。
  2. そもそも大きなカンパニーが減り、群舞を必要とする作品が少なくなった。
  3. ストーリー性のある作品が減り、「動く背景」や「意思の拡大」の必要性の減少。
  4. 大人数が揃って動けば、人間は本能的に楽しいと感じてしまう。そういう「条件反射的に生み出される感動」に安易に頼ることは、新しい芸術を創り出す姿勢の放棄だ、と見なされる。
  5. 「動きを合わせるだけなら、スポーツでも何でも、技術があればできる。『その人にしかできない表現』等を追求するべきだろう。
  6. 集団のダンスがもたらす陶酔感は、かつて独裁政権やカルト宗教などの洗脳やプロパガンダに使われてきた歴史がある。そのことに無反省であるべきではない。

といったところだろうか。

❹と❺は連携している。欧米では「既成の技術をアレンジしてより楽しいものを作る」というのは演芸であり、それにはミュージックホールやエンタテインメントの舞台が用意されている(優劣ではなく、当然こちらのクオリティも高い)。
しかし「劇場とは新しい価値観を生み出す場所でなくてはならない」という意識が強いのだ。
「やれば受けるに決まっていること」ではなく「世界の見方が変わるような表現」にこそ挑んでいく場なのである。

●黒歴史に触れる

「なんか❻は、最後だけ急に重いこと言い出してるんですけど……」
と思ったかもしれないが、これはけっこうマジなのである。とくにヨーロッパでは。

「熱狂と陶酔で大衆から正常な良識ある判断を奪う」ことを最も効果的に利用したナチスは、アートにも積極的に干渉し、その力を戦略的に政治利用していった。

ナチスの大規模な党大会の記録映画『信念の勝利』(1933年)や『意志の勝利』(1935年)、ベルリンオリンピックの記録映画『民族の祭典』(1936年)など、集団で右手を挙げて「ハイル!」と叫ぶ「振付」がもたらす一体感と陶酔の力は、いま見ても健在だ。

これらの映画監督であるレニ・リーフェンシュタールがダンサー出身なのは有名な話だ。リーフェンシュタールは「美しいものを撮っただけ」としてナチスへの協力および戦争責任において無罪となったが、その才能によってパンドラの箱を開けてしまったのかもしれない。

特にナチスは優生思想から「美しく健全な身体」をアピールするために、ダンスや体操を積極的に取り込み、ディシプリン(訓練・鍛錬・調教)の側面が強調された。そして人間のネガティブな部分を描くものは「退廃芸術」という烙印を押して弾圧したのである。ゴッホやゴーギャン、ピカソなども対象となった。
当時のドイツダンス界の巨匠にしてピナ・バウシュの師匠クルト・ヨースは、ナチスに抵抗しドイツを追われることになる。

その後も「群舞とユニゾン」は様々に利用されてきた。
北朝鮮の記録映画『金日成のパレード』にも見られる独裁国家の国民を挙げての式典、あるいはカルト宗教が歌やダンスで一体感を高める陶酔感を布教に利用するのも常套手段である。

日本でも地下鉄サリン事件を起こしたオウム真理教が積極的に歌やダンスを使っていた。彼らはきわめて高い科学力を誇っていたものの、アート方面のセンスが壊滅的にひどかったのは幸いである。そうでなければさらに爆発的に信徒が増えていたかもしれない。

欧米ではアートが作者の意図とは無関係に政治に利用されてきた歴史が刻まれていて(実は日本だって山ほどあるのだが)、現代のアーティストはそういう歴史に無知であってはならず、慎重であるべきという共通認識がある。

●アートに潜在する暴力性

実際に「無自覚の怖さ」を感じる作品をみたことがある。
それはストリートダンス系の作品だった。
ストリートダンス系の群舞はユニゾンが多く、ほとんどが「速く強くの身体性の群舞」だ。もちろん素晴らしい作品も普通にある。

ある若い振付家が、数十人を使って世界平和がテーマで、大いに才能のきらめきを感じさせる作品だった。
しかしやっていることは、大きな旗を振り回して行進し、そろいのユニフォームを着て、完璧なユニゾンでひたすらシャープに動く等、見た目は完全に「軍隊っぽいカッコ良さ」になってしまっていたのだ。

じつはナチスの本当にヤバい部分がここにある。
ナチスの旗や軍服など意匠デザインだけ見ていると、ナチスは実に「カッコいい」のである。ファッションもまた無条件に人間の情動を動かしてしまう力をもっているので、ナチズムそのものにも親近感を持たせてしまう。だからドイツでは今なおナチスを賞賛すること自体を法律で禁じているのだ。

アートは個人の創造性を保障する。しかし作品を社会に対して発する以上、歴史と社会に内包される様々な差別や暴力に加担することは許されない。たとえそれが無知からだったとしても。

なぜならアート行為とは、他者に対する力の行使に他ならないからだ。
刃物の危険性を認識していない者は、刃物を扱うべきではない。
今日のアーティストにはよりいっそう自覚的であることが求められている。
アートに求められる批評性は、まず最初にアーティスト自身にこそ向けられなければならないからである。

●下島礼紗 ケダゴロ『sky』

「大人数でユニゾン」が悪いことのように聞こえるかもしれないが、そんなことはない。
理由はのちほど述べるが、もちろんバレエの群舞をディスっているわけでもない。
群舞はダンスの本質的な魅力のひとつであり、効果的に使っているコンテンポラリー・ダンス作品ももちろんたくさんある。

さらには「大人数でユニゾン」に対して、新しいアプローチで挑んでいるアーティストもいる。
最近驚かされたのが下島礼紗率いるケダゴロ『sky』である。
「ダンスに内在する暴力性と、政治や宗教に潜む暴力性がリンクすること」を描いているのだ。

女性ばかりの中に男性一人。のっけから女性ダンサーの尻を赤くなるまで打擲したり、2㎏ぐらいありそうな氷塊を素手で持ち、ひたすら耐え続けている、というシーンが続く。
無意味だし、馬鹿馬鹿しい。
だが誰も止めようとは言い出さない。そして誰かが脱落しそうになると、「がんばって! 冷たいのは皆同じだよ!」と声を掛け合う。励ましという「善意」によって互いを縛りあう。「同調圧力」というものだ。

同調圧力は、閉ざされた集団内に向かうと過激化し、暴力化する。連合赤軍の集団リンチ殺人事件や出家して共同生活を送らせていたオウム真理教、さらには今回のコロナ禍での「自粛警察」もこの心理だろう。
「皆が(とくに私が)我慢しているのに、お前だけ楽をするのは許されない」というわけだ。

もちろん『sky』で行われるのは、あくまでもダンス。政治やカルトに対する直接的な言及はない。しかし氷を持ち続けるという無理で無意味な行動を強いる同調圧力は、体育やダンスカンパニーに蔓延する根性論や年功序列など、ディシプリン(訓練・調教)として普通に使われていることが想起させられる。

これを下島が意図的にやっているのは、作中で使われる曲からも明らかである。
ひとつは共産主義革命歌「インターナショナルの歌」。1970年代の日本で盛り上がった学生運動で歌われていた勇ましい革命の歌である。集団リンチの連合赤軍も歌っていたろう。
もうひとつは地下鉄サリン事件のカルト宗教「オウム真理教」が修行や洗脳のために使っていた「極限修行者音頭」である。なぜ「音頭」をチョイスしたのかは謎のセンスだが、なんと教祖・麻原彰晃本人が歌っており、途中で励ましの掛け声をかけたりするレアな逸品である。

このふたつの曲を流し、たっぷりとユニゾンの群舞が踊られるのだ。

観客はダンスが「同調圧力を内包する芸術」であることを見たあとでも、ユニゾンの群舞を本能的にカッコいいと思ってしまう。
ということは、同じく同調圧力を内包しているイデオロギーやカルト宗教でも、ユニゾンの群舞のようにカッコよければ受け入れてしまうだろう。
いま目の前のダンスを楽しんでいるあなたは、イデオロギーやカルトにはまる人と、本質的には変わらないのだ。
「カルトもダンスも、根っこではたいして違わないよ」と、下島は自分たちにも刃を突きつけているのである。

日本のダンスには政治的な作品が少ないが、まだ二十代の下島が、こうした過去の日本のダークサイドに切り込み、返す刀でダンス自体の危険性まで描いて見せたのは驚きである。この作品は日本国内のみならず世界各国のフェスティバルに招かれて上演している。

なぜ人は群舞・ユニゾンに惹かれるのか

●ユニゾンの気持ちよさ

ここでちょっと視点を変えてみよう。

「人間は大勢がユニゾンの動きをすると、本能的に気持ちいいと思ってしまう」と前提のように書いてきたが、それは一体なぜなのだろう。

ダンスを解体してきたコンテンポラリー・ダンスにとって、「我々は、何にダンスを見るのか」を考えることは、「ダンスと、ダンスならざるものとの境目」を考える上で重要なテーマである。
なので、しばし考察してみたい。

●「大勢でユニゾン」1 群れ

そもそもダンス以外で「大勢がユニゾンで動いて気持ちいいもの」は何があるだろう。
「本能的に美しいと感じる」ことからして自然界を見渡してみると、これが意外に少ないのである。
雲の動き、川の流れ、木の葉の動きなど、いずれも個々の動きはランダムだ。分子や微粒子のブラウン運動など、極小の世界でも同じ。むしろそこに人間は「ゆらぎ」を感じて落ち着くといわれている。

思い浮かぶのは、鳥や魚や羊などの群れだろう。
巨大な塊となってひとつの大きな生物のように振る舞うもの。とくに敵を避けたりするときに、大きな塊がグッと姿を変える様は、まさにダンス的だ。

だが同じ群れでも大発生して飛来するイナゴのように無秩序な群れには「ダンス」は感じないだろう。
その点、鳥や魚はあまりにも唐突に滑らかで素早く動く。
人間はそこに、なんらかの意思の疎通と合意を見て取るかもしれない。

しかしそれは勝手な擬人化で、実際には群れに意思の疎通どころか、リーダー的な存在もいないとされている。反射的に身の危険を感じて即応して、一斉に動いているだけなのだ。
おまけに個々の鳥や魚はそれぞれのペースで動いているので、厳密に言うとユニゾンですらない。
にもかかわらず、「大勢でユニゾン」のダンスと通底するものを感じる。
すると重要なのは、個体の動きではなく、鳥や魚が「個体と個体の空間を保ったまま」で「不意に方向を変える」ことなのではないか。

じっさいダンスでも、本当に良い群舞は個々の動きにもまして「ダンサーとダンサーの間の空気の密度」に魅了されることが多い。
動かす手足の精度に目が行きがちだが、じつは「ダンサー間の空気」が舞台空間全体の空気をグッと動かすとき、そこにみなぎる「個を越えたエネルギー」「生命に直結した動きの力」に、我々はダンス的な魅力を感じるのだ。

そしてこれは「群舞の落とし穴」にも繋がっている。

差し障りがあるので名前は伏せるが、ダンスで超メジャーな男性グループは、高いスキルのダンサーを山ほど集め「素晴らしいソリストのためのダンス」を大人数でやっていたりする。しかしそれでは「たくさんのソロダンス」であって、「ひとつの群舞」としてのパワーに欠けるんだよねえぐざいる。

またこれはしばしば指摘するのだが、日本のコンテンポラリー・ダンスの群舞は他人と動きをそろえることにいっぱいいっぱいで、「動きと動きを繋ぐエネルギーの流れ」がブツ切りになっていることが多い。しかもそれをシャープさと勘違いしている。
しかしその中に「振付の内容を自分なりに解釈してエネルギーの流れを作って動いているダンサー」が混ざると、その違いは一目瞭然だ。
個々の動きの説得力が全く違う。動きを合わせる意識しかない奴は「習い事のダンス」にしか見えない。プロフェッショナルのダンスとはなにか、もう一度考えてみてくれ。

●「大勢でユニゾン」2 文明的なもの

さてダンス以外で「大勢がユニゾンで動いて気持ちいいもの」は、もうひとつある。
自然界には少なくて、かつ人間が大好きなものとなると、答えはひとつしかない。

人工的なものだ。
織機など工場に、多くの機械が並んで、一斉に同じ作業を繰り返す様である。
歯車などひとつの系を成す駆動機関や、流れ作業の機械のように、個々の動きが同期して連関するものを含んでもいい。ズレながらも、同じ動きの繰り返しだ。

約100年前に映画が発明され、とにかく「動く物」を撮りまくったとき、最も人気があったのが、人間と機械である。
機関車の車輪や振り子など動く物質と、踊る手足や眼球や唇など動く身体はしばしば同一視された。人形と人間を同一視するピグマリオン幻想は古来からあるが、映像のクローズアップという新技術により、より細かく人間の動きに機械を見、機械の動きに人間を見るようになったのだ。

カレル・チャペックが初めてロボットという言葉を戯曲『R.U.R.』(1920年)に登場させ、フリッツ・ラングの映画『メトロポリス』(1927年)ではマリアの姿はアンドロイドとダンサーがオーバーラップして描かれた。もちろん日本でも1928年に「アジア初のロボット(本物かどうかはともかく)」と謳われた学天則が大人気を博していた。

この時期は産業革命以降の工業化が際限なく大規模化していく時代で、多くの機械を導入し、「同じものを大量生産」していった。

自然は画一性を嫌うが、人間は愛する。比較し、サイズをそろえ、よりよいものを効率的に生み出していくことで生活は豊かになるからだ。

街には直線の道路、四角い窓が並んだビル、店には同じパッケージの商品が並び、田や畑でも等間隔に作物が植えられている。
整然と並んだそれらを、我々は気持ちいいと思う。

それが文明であり、文明への希求は人間の本能に組み込まれているものだ。
そして動く物ならば体操やダンスや行進(最近では「行進しながらギリギリぶつからずにすり抜ける」等のパフォーマンスで注目を集めた日本体育大学の「集団行動」も)という「大勢でユニゾン」の動きを気持ちいいと感じる情動」へと繋がっていくのである。

●バレエは群舞の気持ちよさの根源を含む

以上、「人間がユニゾンをキモチイイと思う根源は、『生命のエネルギー』と『文明・知性を希求する本能』に繋がっている」といえそうだ。
そしてこのふたつは、すでにバレエでは自家薬籠中の物とされているのである。
冒頭で述べた『セレナーデ』「影の王国」をもう一度見てみよう。

『セレナーデ』ではダンサー達の冒頭は直立のまま手の動きだけ。やがて足の動きが追加されてもその場所で踊る。
ポイントは「直立して動かない身体によって、一斉に動き出すダンサー達の腕の間にある空気・空間が強調される」ことだ。「個体間の幅が固定されたまま動く魚の群れ」同様、エネルギーの流れが増強されるのである。

このシーンの「スタジオに入ってきた西日がまぶしくて、生徒達が一斉に反射的に手を挙げて光を防いだ動きから作られた」という逸話も、魚群が「リーダー的な存在もなく、反射的に身の危険を感じて一斉に動く」のと符合していて面白い。

対する「影の王国」は、徐々に増殖していくダンサー達がつづら折りに斜面を降りてくる。やがて舞台の平場へ「流入」してきたあとも、列を成すダンサー達は互い違いの方向へ進みつつ、空間を徐々に満たしていく。

ダンサー同士の前後の空間は保たれているが、折り返すたびに列が増えていくので、正面から見ると幾重にもダンサー達が重なって視界がだんだん悪くなり、少しモヤモヤしてくる。
すると! 最後に4人×8列ビシリと整列した瞬間、舞台奥までスッ! と一気に視線が通っていくのである。

もちろん『セレナーデ』の冒頭も幾何学的に美しい斜めのラインで並んではいるのだが、「影の王国」は一見カオティックだった舞台へ、ふっと秩序が顕現する衝撃がある。まるで分子配列を見ているような美しさ。知的・論理的な快感なのである。

エネルギーの実感と知的快感という、人間がユニゾンに望む二大要素は、この二つのバレエ作品で見事に実現されている。
群舞のあり方、スタイル、効用に様々な試みが尽くされてきたバレエは、いまもまだ革新が続けられているのである。

そしてもちろんバレエの群舞は、コンテンポラリー・ダンスの課題である「ユニゾンの条件反射的な快感」に頼っているわけでもないし、「大衆を操作するために熱狂と陶酔に巻きこむような単純な動き」とも無縁だ。そして「意識を共有し空間を動かすことが重要」という点も、全てのダンサーに共有されているのである。

●新しい群舞の形

さて最後に、コンテンポラリー・ダンスの群舞も、いろいろ進化しているのを紹介しておこう。
最近はアソシエイト・アーティストという支援の形も広がり、自前で大カンパニーを持たなくても大人数の作品を作れる環境が整ってきたヨーロッパでは、若手でも新しい形の群舞のセンスを見せている。

クリスタル・パイト『フライト・パターン』の群舞は、モノトーンの衣装で、テーマは難民だ。
一昔前の「速く強くの身体性の群舞」のユニゾンとは明らかに違う質を持っていることを感じられるだろう。動きをピッタリ合わせる精密さよりも、ダンサー間の空気の密度を重視し、ゆっくりめの動きで舞台空間全体の空気をうねらせる。

ひとつの塊として動くことが、難民という「無名の人々の一群」であることを鮮やかに浮き上がらせる。しかもその動きはダイナミックで生命力に満ちており、決して見捨てられるべき存在ではないのだと強く訴えかけてくるのである。

最近の若い振付家にはこうした「群衆としての群舞」という描き方が見られる。
これまで群衆を描くときは、「戦っている主人公がいて、戦いに参加するまたは苦しんでいる大衆」など、主人公に付随する存在が多かった。しかし最近は、群衆そのものが主人公として描かれているのである。これは前回述べた「物語・役割からの解放」が影響しているかもしれない。
今後も増えてくると思うので、ぜひ意識しておいて欲しい。

逆に「人工的な群舞」に振り切ったスタイルで注目されているのが、ギリシャのクリストス・パパドプロス Christos Papadopoulos 率いる「レオン&ザ・ウルフ」である。チェコのフェスティバルで見た『Elvedon』はかなり驚かされた。
カチカチカチと細かく刻むような音の中、6人の男女が少しずつ身体を揺すっている。次第に手、腕……揺れてる。今度は足……と展開はするものの、ほぼこれだけの作品なのだ。

しかしどうにも目が離せない。
ヴァージニア・ウルフの小説『波』からのインスピレーションだという。ユニゾンではあるが人工的な反復により陶酔的な熱狂を退け、ダンサー間の距離は変化しつつも保たれてエネルギーを生じさせている。
こんなことがダンスになるんだなーと感心していると、一緒に観ていたロシア人のバレエダンサーも興奮していた。バレエダンサーから見ても魅力があるようだ。

ダンスの世界の新しい挑戦は、まだまだ続いているのである。

□ ■ □

さて今回のテーマ、じつは東京オリンピックにぶち当てていこうと思っていたのだが、残念ながら延期になったので、繰り上げで書いてみた。

次回は「ダンスと衣裳」である。
これまで見てきたように、「役割」がないことも多いコンテンポラリー・ダンスの時代、「衣裳」が果たす必要性は?
衣裳が持つ、「単に着る、という以上の役割」とは?
全裸は衣裳か? などなどについて、掘り下げていきたい。

★第6回は2020年8月10日(月)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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