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【新連載】バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第2回〉言葉とダンスーー魅惑の罠からの脱出

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

言葉とダンスーー魅惑の罠からの脱出

●モーリス・ベジャール『バレエ・フォー・ライフ』

今回は、ダンスと言葉の関係について見てみよう。

そこには陥りやすい罠があり、「新しさ」を出そうと安易に言葉を使うと大失敗することになる。コンテンポラリー・ダンスがいかにその罠を察知して回避してきたか、というスリリングな知恵比べの歴史をひもといていこう。

一般的にバレエで台詞を使う作品はあまりない。いわゆる「説明」が必要な部分でも、必要ならばマイムや特定のゼスチャーで補完される。
いわば言葉を使ったダンスは、もっともバレエ的でない、いかにもコンテンポラリー・ダンスっぽい作品だと思っている人も少なくないだろう。

もっともバレエはその誕生からオペラと密接な関係にあるので、歌との相性は悪くはない。2020年2月上演の「アリーナ・コジョカル ドリーム・プロジェクト」でナンシー・オスバルデストンが演じた『エディット』はピアフのシャンソンに合わせて踊った。自身の振付・出演ソロだが、小品ながらも情緒豊かで見応えのある作品だった。

歌で踊る長編のバレエ作品もある。
ローラン・プティには、『ピンク・フロイド・バレエ』(1972年初演、2004年に新制作版として牧阿佐美バレヱ団が上演)や、同団の創立45周年に振付けた『デューク・エリントン・バレエ』(2001年初演、2012年改訂版を上演)などがある。プログレの王者ピンク・フロイドは魔的な魅力が溢れるスケールの大きな曲想であり、またジャズのビッグ・バンドの巨匠デューク・エリントンはオーケストラもあるくらいなので、バレエとの相性はまずまず。とはいえ、ミュージカルでも活躍したプティの才気は堪能できるものの、どうしてもボードヴィル的な寄せ集め感は否めない。

2020年5月に上演予定のモーリス・ベジャール『バレエ・フォー・ライフ』(1997年)は、2018年に映画『ボヘミアン・ラプソディ』が大ヒットしたイギリスのロックバンド、クイーンの曲(とモーツァルトの曲)で構成されている。かつてベジャールのダンスを最も体現していたジョルジュ・ドンと、クイーンのボーカルのフレディ・マーキュリーは、ともにAIDSで亡くなっている。これはそうした天才達へ捧げられた傑作なのである(ちなみに1991年に坂東玉三郎とともにドン自身が作った舞台のタイトルが『デス・フォー・ライフ』)。

『バレエ・フォー・ライフ』の来日公演では、ぜひ注目してほしいシーンがある。
「真っ白い壁に囲まれた小さな部屋へ、次から次にダンサーが入ってくる。満員になってもまだまだ入り、やがて壁が倒れる」というシーン、じつは映画に元ネタがあるのだ。ヒントは、この少し前、舞台上に顔が映し出されるアメリカを代表する三人のコメディアン、マルクス・ブラザーズである。
じつはこの「狭い部屋(船室)に次々と人が入ってくるシーン」は、マルクス・ブラザーズの代表作『オペラは踊る』(1935年)という映画の有名なギャグなのである。

ではなぜこのシーンにこの映画のパロディが使われるのか。『オペラは踊る』の原題が『A Night at the Opera(オペラ座の夜)』だからである。クイーンのファンならピンとくるだろう。あの名曲『ボヘミアン・ラプソディ』が収録されているアルバムのタイトルが『A Night at the Opera(オペラ座の夜)』と、マルクス映画のタイトルから採られている。アルバム発売時にはマルクス兄弟から「僕らと同様の成功を祈る」という祝電をクイーンが受け取っているのもファンの間では有名な話だ。

……と以前某書に書いたときに、とある大学の先生が「マルクス・ブラザーズの顔は出てこなかった」とクレームをつけてきた。よくよく聞くと、授業で使ったビデオの話をしているらしい。そりゃあハリウッドは俳優の肖像権にうるさいから、そこだけカットしたんじゃないの? と答えた。ビデオだけで文句を言われても困るよ。みなさんは、ぜひ劇場で確かめて欲しい。

「言葉とダンス」

さてあらためて今回のテーマ「言葉とダンス」を考えてみよう。
これは取り組み甲斐のあるテーマである。
「言葉」には、「わかりやすさ」という甘い罠がある。そこに乗ってしまってはダンスの負けだ。
なにより前回述べたように、「好きだという情報」ではなく「そこにまつわる様々な情動」を伝えてこそダンス。
だからもしも「それ、言葉だけでよくね?」と思われたら、そのダンスは力不足だということだ。そんな気持ちを圧倒するダンスこそが、深く観客の心を共振させるのである。

しかし頭ではわかっていても、言葉の力が持つ強烈な引力からは、なかなか逃れられるものではない。
なぜなら人間とは「言葉で世界を理解する生き物」だからである。我々は様々な感情、事柄や関係性も、言葉にされると「腑に落ちた」とスッキリする。気持ちいい。この快感は、何千年も文明を積み重ねる原動力のひとつでもある、強烈なものだ。

だがダンスも負けてはいない。
ダンスは言葉が生まれる以前から人間が手にしていた、原初のアートのひとつだからである。それは本能に直結した強さを持っている。ダンスに心揺さぶられる感動も、また強烈なものだ。
「言葉とダンス」とは、ともに人間の本能と知性が渦巻く戦場なのである。

●言葉とダンスの関係を整理してみると

ではダンサー達は、言葉という諸刃の剣と、いかに対峙してきたかを見てみよう。
そのスタイルをわかりやすくするため、以下のように分けてみる。

〈言葉の使い方の分類〉
A:歌を使う  B:言葉を使う
a:第三者や音響で流す  b:本人が発する

Aの「歌」に関しては、

〈Aa:他人の歌で踊る〉
世界中ほとんどの伝統舞踊は、歌や音楽と共に踊られてきた。その多くは歌い手と踊り手が別である。
中にはハワイのフラや日本舞踊のように、「私は、あなたを、愛します」と手話並みに動きと歌詞が一体化しているものもある。

〈Ab:本人が歌う〉
ミュージカルなど。オペラでは基本的に歌手が踊ることはないので、これは1930年代にボードヴィルが長編ミュージカルへ転換していく過程で確立していったものと思われる。

「歌とダンス」そのウットリには罠がある

最近はストリートダンス系の若いアーティストが作品を作ることも増えてきたが、自分が好きな、同年代の流行歌で踊ることが多い。歌詞もビビッドに響いてくるだろうし、好きな歌を大音量でかけて踊るのは気持ちいいに決まっている。
しかし、ちょっと考えて欲しい。
その歌は、あなたのダンスがなくても十分に人を感動させる力がある。しかしあなたのダンスは、歌がなくても同じくらい感動させられるだろうか?
あなたのダンスは、「歌の魅力に乗ってウットリしているだけ」なのではないのだろうか?

むろん音楽との一体感はダンスの魅力のひとつで、悪いことではない。しかし舞台芸術として見た時、「音に乗せて踊って気持ちいい」だけでは、ダンスは歌に隷属しており、単なる盛り上げ役に堕してしまっている。

先述の『バレエ・フォー・ライフ』はどうだろうか。
ここでもクイーンの歌、とくに歌詞は大きな役割を果たしている。しかしその前に十分な時間をかけて、亡くなった二人のアーティストへの哀悼の気持ち、その意志を継いでいく決意が、十分にダンスによって語られている。そのうえで『ショウ・マスト・ゴー・オン』が流れてくるので、涙腺が崩壊するわけだ。

歌と一体化する前に、ダンスの力で表現が積み上がっているのか、歌と拮抗する強さがあり、そしてなにか新しい価値観を生み出しているかどうかが、大きく分かれるポイントになるのだ。

もっとも「歌謡曲で踊る」なかでも、ひとひねりしているものもある。

ストリート系ながら笑いと涙の舞台で人気の梅棒(うめぼう)である。主宰者の伊藤今人は歌謡曲を使うものの「曲を編集せず、必ず1曲まるまる使う」というハードルを自分に課している。
観客が歌詞の内容を聞き取っているのを逆手にとって、歌詞の部分とダンスをリンクさせるのである。たとえば、若い男女が抱き合っているときに、ちょうど「まだ早いだろ!」と歌詞が流れる、そのタイミングで親が割って入る、という具合。

歌とダンス、それぞれの流れが奇跡的に交差する一瞬を創り出すのがニクい。
これもまたダンスと言葉の新しい関係である。

●急に叫ぶな、うるさいから

ついでに言っておくと、オレはダンサーが作品の途中で急に絶叫したり、狂ったように笑い出したりする演出が本当に苦手だ。嘘をつくときに声が大きくなるように、人間、慣れないことやると過剰になりがちなのか。

何がダメかといって、ダンサーが笑いや叫びをするための十分な練習を積んでいないことだ。付け焼き刃的に頑張りはするのだろうが、ダンスがそうであるように、演技には理論もあれば技術もある。形だけ「あーっはっはっは」とかやられても、見ているこっちはドン引きなのだ。

「台詞とダンス」罠を避けるための距離感

では次に、「言葉とダンス」の関係を見てみよう。

〈Ba:言葉を背景で流す〉
台詞や原文の一節を読み上げ、背景で流す場合である。音楽という伴奏者がないぶん、よりいっそう「意味」に意識がいきやすい。
ここで「意味/物語」の「わかりやすさ」に乗っかるなら、そのダンスは「説明で済むことしか伝えていない」ことになる。

そこでダンスは、言葉から距離を取る
位相をずらせて、言葉の便利さに乗らないようにするのだ。

●言葉を音として使う

よくある手法は、言葉を、あえて「音」として使うもの。
アラビア語やヘブライ語など、観客が意味をとれなさそうな言語を使う。
もしくは意味はわかるが、文章として意味をなさない断片的なテキストを使う。

それでも意味を理解されてしまうリスクは常にある。
ストリートダンスの作品で、恋人同士が愛を確かめ合うシーンなのに『Time to Say Goodbye』を流しているものがあった。曲調がロマンティックだから使ったのだろうが、英語はさすがに考えなきゃな。

逆に海外で日本語の歌が使われている作品に出会うこともある。意外に人気があるのが昭和歌謡だ。
おそらくクエンティン・タランティーノ監督の映画などを通して広まり、その独特な節回しが珍しがられているのだろう。筆者は海外の劇場で、ロマンティックなシーンにいきなり梶芽衣子の『怨み節』が流れてきて、一人客席でのけぞったことがある。

もうひとつは、歌や台詞を加工して「意味」をわからなくさせる手法だ。
あえてノイズをかぶせて聞き取りづらくする、あるいはわざと聞こえるか聞こえないかのささやき声にする。さらにそれを幾重にも重ねる(映画『ベルリン・天使の詩』のユルゲン・クニーパーの曲のうち、図書館のシーンで流れる歌/音楽がまさにこれで絶品だ。無数のナイショ話が大きなうねりになっていくもので、ダンス作品にもよく使われていた)。

●あえて、物語として使ってみせる

しかしこうした定石を上回る作品もある。
物語をはっきり意味がわかる形で朗読し、あえてその内容に沿って踊る作品だ。これらはどうやって「わかりやすさの罠」を回避しているのだろう。

例えばいま最も注目されている一人クリスタル・パイトの作品『ザ・ステイトメント』。2019年のNDT(ネザーランド・ダンス・シアター)来日公演で上演された。ダンサーが言葉を発することはないのだが、大きな楕円形をした会社の会議テーブルを中心に、互いの会話や偉い人からの命令の音声が背景に流れる。コミカルでダークな世界観がとにかく面白い。動きは台詞とリンクしたシャープなものだが、オリジナリティが高く抽象化された動きで、見事に言葉と両立していた。

ここで重要なのは、ジョナサン・ヤング(カナダのエレクトリック・シアターの芸術監督)によるテキストが、会話の内容をしっかり聞かせながら、極めて音楽的な抑揚とリズムに溢れている点だ。ダンス側のみならず言葉側からも工夫がされている。

パリ・オペラ座バレエに3度も作品を振付けている唯一の日本人勅使川原三郎は、これまでも稲垣足穂や宮沢賢治など、様々なテキストを様々な形で作品に活かしてきた。しかし近年取り組んでいるのが、ブルーノ・シュルツの小説集をダンス作品化するシリーズだ。

シュルツはポーランドを代表する作家で、ナチスによって白昼の路上で撃ち殺された人である。クエイ兄弟による奇怪な人形アニメ『ストリート・オブ・クロコダイル』の原作者として記憶している人も多いだろう。

シュルツは、重厚な文体と裏腹に、イメージの赴くままに虚実入り交じる世界を描く。勅使川原のテキストの使い方は様々だが、中でも『シナモン』は、ほぼ全シーンに原作『肉桂色の店』の朗読が流れる。内容と動きはリンクしているが、ダンサーの佐東利穂子による抑揚を抑えたささやき声と、圧倒的に強靱なダンスによって、物語と屹立してみせたのだった。

勅使川原は、登場人物のみならず、疾走する馬車の暴馬として踊ったりするのだ。「踊るにしても、そこ踊るの!?」という意外さ。言葉でも描くのが難しい「わかりにくい部分」をあえて踊ってみせ、「わかりやすさの罠」など寄せ付けもしない。作品との距離感の自由さは、まさに貫禄勝ちといえる。

「語りながら踊る」難しいが、名作も多い

〈Bb:本人が語りながら〉
そして最後は、「本人が語りながら踊る作品」を見てみよう。

よく「ミュージカルは急に歌い出すから苦手」といわれる。たしかにさっきまで普通に話していた人が急に歌い出し、ましてや踊り出すなど、日常生活ではおかしな状況ではある。フラッシュモブですらこっぱずかしいのに。
だが演出とパフォーマーに力があれば、もう歌って踊るしかないところまで十分に観客の気持ちを盛り上げるので、あとは自然に流れだすことになる。

しかし話者とダンサーが同じ場合、「意味」はよりダイレクトにダンサーの気持ちとして観客に受け取られる。つまり「説明臭い」「なんで急に踊ってんの?」と思われるリスクが高まるのだ。
さらには「語りから踊り」「踊りから語り」へ切り替える時がとにかく難しいのだ。ヘタクソがやると「じゃあ踊りますよー」と段取り臭さを感じさせ、しらけるったらありゃしない。

……と、壁が高いがゆえに、そこを超えた作品には、名作が多くある。

熊谷拓明はシルク・ド・ソレイユで活躍するなどダンスでも活躍しつつ、「ダンス劇」と名付けて、がっつり演劇とダンスを融合させた作品を発表している。芝居部分での人間の描き方に魅力があり、台詞の段階ですでに踊りの呼吸に入っているので、ダンスへの推移も無理がない。

康本雅子は予想のつかない動きとキャラクターで、一時期テレビなどにもよく取り上げられていたが、結婚出産を機にしばらく舞台から遠ざかっていた。2人の子どもを産み、活動を再開した数年後、久しぶりに上演したのが『子ら子ら』(2017年)である。
子育てにまつわる母親の赤裸々な心情……可愛いと思いながらも、ふとすべてを投げ出したくなる。ネットでエロ動画を見て自慰をし、絶頂を迎える直前に子供が夜泣きして「あーあ」と子育てに戻っていく……といった「日常」が淡々と語られる。
共演の小倉笑との関係が親子のようにも見えるが、ダンスのさなかにスッと差し込まれる透き通った殺意のようなものが光る。「言葉でしか表現できない領域」と「ダンスでしか表現できない領域」を見据えた、バランス感覚の妙である。

山田うん『ディクテ』も衝撃的な作品だった。タイトルは韓国系アメリカ人の作家テレサ・ハッキョン・チャの著作に基づいている。軍事政権の韓国を逃れ、暮らしていたNYで暴漢に襲われて命を落とした著者が、よりどころなく書いた言葉や叫びを、山田は床をゆっくりと歩き、這い回りながら語り踊る。
元のテキストが多言語による詩的な断片で、はなから「わかりやすさ」からは距離がある。心をえぐる原作のリアリティを血肉化し、ダンスを深く共鳴させることで作品化した。生命の瀬戸際のようなダンスなのだ。

演劇的なダンスを掲げる者はいるが、演劇界の登竜門である岸田國士戯曲賞まで受賞しているのはニブロール矢内原美邦ぐらいのものだろう(2012年『前向き!タイモン』)。2005年には「演劇作品」を作るためのミクニヤナイハラプロジェクトを立ち上げている。もっともニブロールはアーティストの集合体なので、初期から言葉を使ってはいたが。
ダンスも台詞も圧縮して加速する、高圧高速の舞台。演者は走りながら踊りながら台詞を言う。台詞と動きの内容は必ずしもリンクしておらず、ダンスが言葉に頼るヒマ自体与えない。にもかかわらず「これしかない」という研ぎ澄まされた瞬間を積み重ねていく。その緩急は誰にも真似できない領域を切り開いているのである。

海外作品は言葉を使うものが多い。ダンサー個人のキャラクターをそのまま作品に使うことも多く、世間話でもするかのごとき気軽さだ。ダンス教育の過程で演技や心理学なども学んできているので、きわめて自然に語りかける。

スウェーデン拠点ながら日本でも活躍する大植真太郎は、けっこうなパワーリフト系コンタクト・インプロビゼーション風の最中も終始しゃべくり続ける。平原慎太郞・森山未來と共演した『談ス』などは、その真骨頂である。

ドイツで見たクリストフ・ウィンクラー『バーダー』は、強く印象に残っている。
1960年代にドイツ赤軍を率いていたテロリストの一人、バーダー・マインホフ・グルッペを描いたソロダンス作品だ。第二次大戦後のドイツでは政府要人や軍需産業幹部の多くに旧ナチス支持者の残党が生き残っていたので、民衆の反感を買っていた。彼らを誘拐や殺害のターゲットとしたバーダーは民衆の支持を集め、次第にヒーロー扱いされていくのである。
膨れ上がる自らの虚像に、次第に呑み込まれていく。早口でしゃべりながら痙攣的に自分の身体をまさぐり、どんどん奇怪な動きになっていく様は、精神のねじれが身体を侵食するようで、目を奪われた。
言葉の表面的なわかりやすさではなく、さらにその奥にある本質のみをダンスによって視覚化したのである。

分離共存させる手法 字幕やレクチャー・パフォーマンス

言葉とダンスには多くの試行錯誤があり、以上の類型にも収まらない手法も多々ある。
言葉とダンスの力関係はそのままに、共存させる手法だ。

たとえば字幕
ストリートダンスをベースにしながら、物語性の強い作品を作るDAZZLE。海外でも高い評価を得ている『花ト囮』は和風テイストと兄弟の愛情を描いているが、物語や会話を字幕で綴るアイデアを見せた。耳から入る音声ではなく、字幕は目から入り観客の脳内で変換されるので、同じ視覚情報のダンスとの違和感がない。
しかし普通は舞台上部や横などに固定して表示される字幕とダンスを交互に目で追わねばならず、興がそがれる。しかし『花ト囮』は舞台上の扉や小物など、話の流れに合わせて様々な場所に投影させた。視線の移動が最小限で済む上、字幕自体がダンスのように舞台上に存在していたのである(朗読を使っている作品もある)。

海外によくある「レクチャー・パフォーマンス」とは、大学の講義のように資料等を見せながら話すパートと、ダンスを見せるパートを結合させたスタイルである。
その方法は千差万別だが、たとえば日本でも木野彩子『ダンスハ體育ナリ』のシリーズは面白い。「日本におけるダンス教育は『芸術』ではなく『体育』で行われ、その実態は『体操』だった」という着眼点から、明治時代からの体育教育についてレクチャーしながら様々な「○○式体操」などを実演し、話が次第に第1回東京オリンピックにまで繋がっていく様は、じつにスリリングだ。

自分だけの「罠破り」を磨け

「言葉を使う」といっても、その使い方には様々な方法があることがわかっていただけただろうか。
それは常に「言葉のわかりやすさ」という魅力的な罠から適正な距離を取り、ダンス本来の魅力を引き出し、再発見していく試みだ。

言葉の使い方が稚拙な作品を見て「コンテンポラリー・ダンスは苦手」と思っている人は、他に様々な魅力的な作品があることを知ってほしい。
またダンサー達も、言語という魅力的な罠の恐ろしさをしっかりとわかった上で、独自の使い方を編み出し、さらに深いダンスの表現に挑んでくれ。

さて次回は「ダンスと音楽」の関係について見てみよう。このふたつは親密なようで、意外に大問題を抱えた仮面夫婦のような面もあるのだ。
お楽しみに!

 

#おうち時間どうしてますか?
基本的に書くときは家に閉じこもっているので、そんなに大きな違いはじつはないです。観劇の機会が減り、新規の仕事がバンバン飛んでしまうので、遅れていた原稿をとにかく進めるのと、並行して資料整理を行っています。あとは朝と夜のストレッチ&筋トレ&空手とダンスの独自メニューと、ときおりの深酒(家で)。

★第3回は2020年5月10日(日)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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