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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第15回・後編〉多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編)~アップデートし続けるから古びない~

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

多文化時代のダンス(コンテンポラリー・ダンス編)~アップデートし続けるから古びない~〈後編〉

もくじ

〈前編〉
日本文化を扱ったコンテンポラリー作品
●ベジャールの文化理解の深さ
●チョンマゲ・ボーイズとゲイシャ・ガールズ
●「今」の日本文化を採り入れる
●エンタテインメントとの融合
●日本から世界につながる作品
●日本発祥!?の謎ダンス ミズコとボッコ

ダンスと伝統、それはすでに始まっていた
●戦前の伝統舞踊・民族舞踊ブーム

□ ■ □

〈後編〉
コンテンポラリー・ダンスと伝統舞踊
●1986年を「日本のコンテンポラリー・ダンス元年」とする
●軽く見たあと、その重みを知る

その1:コンテンポラリー・ダンスが伝統を取り込んでいく
●ヨーロッパから他国の伝統舞踊へ
●人生に迷ったらアジアに来る人たち
●問い直すことで縛られる?
●わかり合えない部分を直視し、見続けること
●「伝統が伝統でなくなるギリギリ」とは

その2:伝統がコンテンポラリー・ダンスを利用していく
●「はみ出した天才」の受け皿
●古典の革新にコンテンポラリー・ダンスを使う

その3:伝統もコンテンポラリー・ダンスもフラットに利用していく
●「欧米対アジア」がすでに陳腐である
●問われてくる先住民族への眼差し
●「伝統の作品化」に意味はあるのか?
●伝統は普通に生きてますけど?

その手で「未来」を選び取るために
●「身体を」「身体ごと」動かすプロジェクト
●その「交流」には意図がある!?

コンテンポラリー・ダンスと伝統舞踊

●1986年を「日本のコンテンポラリー・ダンス元年」とする

さて、そこでコンテンポラリー・ダンスである。

戦後の日本はとにかく食うことで手一杯だったが(もっともバレエは終戦の翌年に日本初の『白鳥の湖』全幕公演を実現している)、それでも奇跡と言われた戦後の経済成長を遂げ、1980年代後半からバブル経済に突入していく。それが日本のコンテンポラリー・ダンス黎明期とちょうど重なる。

筆者は1986年「日本のコンテンポラリー・ダンス元年」と呼んでいるが、それはこの年に三つのエポックメイキングなことが起こったからだ。
まずはドイツ表現主義舞踊の巨人ピナ・バウシュのカンパニーが来日して新時代のダンスの表現領域の広大さに日本中のダンス関係者が衝撃を受けたこと。そして勅使川原三郎がフランスのコンテンポラリー・ダンスの登竜門だったバニョレ国際振付コンクール(当時)で受賞してヨーロッパで鮮烈なデビューを飾ったこと。そして舞踏の創始者の一人である土方巽が亡くなったことである。

時代の潮目が変わる。その空気を肌で感じた年だった。

●軽く見たあと、その重みを知る

バブル経済のときは、とにかく企業に金がダブついていたので、企業の名を冠したコンテンポラリー・ダンスの「冠公演」がよく行われた。会社の広告、イメージアップに最適だったのだ。

そしてもちろん、伝統の音楽や舞踊も多く招聘された。フラメンコの公演、韓国のパンソリなどは規模の大小を問わず行われ、アフリカの音楽を大々的に集めたフェスティバル・コンダロータなども多くの観客を集めた。

ただ黎明期の1980〜90年代、コンテンポラリー・ダンスは「新しさ」に偏重しており、つねに新しい動き、新しい表現を追い求めていた。
のちにそんな「新しさ」は幻だったと気づくのだが、アーティストと話していても、伝統舞踊は「受け継いでいるだけで、新しいものを作りだしていない」と見る向きが多かった

そもそもコンテンポラリー・ダンスは、「クラシック・バレエという『伝統的な教育』を受けたヨーロッパの人々が、新しいダンスを創り出そうとしたもの」だったことも、伝統舞踊を軽く見た一因かもしれない。

しかしコンテンポラリー・ダンスは全てを採り入れていく。
そして相手のことを知るようになる。
すると次第に伝統舞踊・民族舞踊が持つ、「千年も生き残ってきた強さ」を再評価するようになっていったのだった。

さらには伝統舞踊・民族舞踊側からも、コンテンポラリー・ダンスのもつ自由な表現へ自ら踏み出してくる先進的なアーティストが現れてきた。

そこで今回は、以下のように出会いの仕方で分類してみよう。

【伝統とコンテンポラリー作品の出会い方の違い】
  • その1:コンテンポラリー・ダンスが伝統を取り込んでいく
  • その2:伝統がコンテンポラリー・ダンスを利用していく
  • その3:伝統もコンテンポラリー・ダンスもフラットに利用していく

その1:コンテンポラリー・ダンスが伝統を取り込んでいく

●ヨーロッパから他国の伝統舞踊へ

伝統に挑む作品は数多い。

中でもシディ・ラルビ・シェルカウイは振付家としての人気も随一だが、自らも驚異的身体性を誇るダンサーである。
中国少林寺の本物の僧侶たちと作った『スートラ sutra』、フラメンコのマリア・パへスとの『ドゥナス Dunas』、インド舞踊のシャンタラ・シバリンガッパとのデュオ『Play』、タンゴダンサー達との『ミロンガ M!longa』などなど、様々な伝統舞踊とも難なく融合し、独自の世界を作ってみせる。

シェルカウイもそうだがヨーロッパは移民の血を引く者も多い。
自らのアイデンティティは彼らにとって生涯ついて回る重要なテーマであり、伝統舞踊はその重要なトリガーとなる。
アクラム・カーンはロンドン生まれのバングラデシュ系イギリス人だが、幼少時から学んだインド北部の伝統舞踊カタックをしばしば作品中に込めている。自らのアイデンティティを廻る旅のようなソロ『DESH-デッシュ』(2012)はベンガル語で「祖国」を意味するタイトル。ユーモアに満ちた作品で来日時も高い人気を得た。

●人生に迷ったらアジアに来る人たち

欧米の小説や映画を見ていると、「悩み事がある欧米人が、東洋など異文化の知恵に触れてリフレッシュする」パターンを目にする。『ダンス・ウィズ・ウルブズ』(アメリカ原住民)、『セブン・イヤーズ・イン・チベット』(チベット)、『ラスト・サムライ』(日本)などだ。

リスペクトを持って描かれているが、結局は「白人の主人公」の目を通したもので、ときに「その文化の真髄を理解している最後の一人」みたいな顔をしていることもある(一番弟子が裏切って師匠を陥れる展開が多いため)。

「有色人種に対する白人の優越感」は、あまりにも長い歴史の中で染みついているので、もはや無自覚の領域に浸透している。
なので白人でも、心ある人は、そういう意識下の差別意識についても自覚的であろうとし、警鐘を鳴らそうとしている。

とくにサイードの「オリエンタリズム」以降、白人や先進国と言われる国に所属するアーティストは、常に自分の立ち位置や振る舞いを問われる
そこに無知・無頓着なアーティストは、欧米のダンス界では「相手にされない」と思ったほうが良いだろう。

●問い直すことで縛られる?

とはいえ、弱い立場の者に対する「配慮」は大切だが、その「配慮」が真の相互理解を妨げていることはないだろうか? という疑問もわいてくる。

ジェローム・ベルピチェ・クランチェンのデュオ『ピチェ・クランチェンと私』は、そのあたりを実にうまく突いている作品だと思う。
クランチェンはタイの古典仮面舞踊劇「コーン(Kohn)」を修めながら、ローザスのアンヌ=テレサ・ドゥ・ケースマイケルとの協働など、幅広い活躍をしている。
そして他の回でも見てきたとおり、ベルは常識や良識を揺さぶって論議を呼ぶ作品が多い。

本作はベルとクランチェンが互いの文化やダンスについて話し合い教えあう、よくある「友好的」な作品に見える。
しかし『ピチェ・クランチェンと私 Pichet Klunchun and myself』というタイトルからして、すでに戦いは始まっている。
わかりにくいのでフルネームで書かれるクランチェンと、「私」で通じるベルの、世界のダンス市場での不均衡が作品の前提になっているのだ。

作品中でタイの古典舞踊の動きを説明されても、ベルは「なるほど」と相づちは打つが、もちろん本気で身につける気はない。観客もそりゃそうだろう、と思いながら見ている。
観客の根底にあるのは「そもそもアジアのダンスは、ちょっと鑑賞して楽しめば充分なもの」「お手軽な娯楽だ」という意識、そしてそう扱われてきた歴史である。

もちろんベルはクランチェンを下に見ているわけではない。
ここでは「白人である自分がヨーロッパのダンス界でアジアのアーティストと作品を創るとき、白人社会から自動的に背負わされてしまうもの」、その「こわばり」を可視化しているのである。

●わかり合えない部分を直視し、見続けること

似て非なるものが山下残『悪霊への道』だった。
山下がバリ島に6週間滞在し、師匠に就いて伝統舞踊を学び、ひたすらその内容を舞台上で再現する作品である。
後ろで踊っている師匠の姿は幕越しにしか見えておらず、カメラで写している映像は上の段の幕に投影されている。

その教えが「人間の肝臓は右に行くほど大きくなっているので、内蔵のバランスは右側が重い。肝臓を意識して動け」など、伝統舞踊なのに解剖学的な知見に基づいていたりして非常に面白い。

ここでの山下は教わったバリ舞踊を一所懸命やるものの、びっくりするくらい「できてない」のだ。ふつう「学んだことをお披露目」するものだが、山下はまったく気にせず、淡々と教えを受け続ける(でもできてない)。
すると次第に、数週間で分かったつもりになる不遜さのない、この「できてなさ」こそが誠実さに見えてくるのである。

「わかろうとする努力と、わかり合えない部分を冷静に見つめ、そして互いを尊重し合うこと」。
わかり合えない部分は、どうしたってある。しかし「わかり合えた」という美談の安全地帯に落ち着くのではなく、「わかりあえなさ」を直視し、見続ける勇気の先にこそ、真のリスペクトはある
そして「理解の困難と可能性」を同時に示せるのも、コンテンポラリー・ダンスの優れた点なのだ。

●「伝統が伝統でなくなるギリギリ」とは

ちなみに日本舞踊とコンテンポラリー・ダンスは、試みがないことはないのだがあまり交流がない。
しかし偶然にも、本稿の前編と後編をアップする間に、「水中めがね∞×日本舞踊家コラボ企画『しき』」があった。日本舞踊とカンパニー作品とコラボ作品の三部作で、なかなか良い出来だった。とくに「善玉悪玉」(日本舞踊の『三社祭』より)は、2人がそれぞれ「善・悪」という漢字がくり抜かれた面で踊り、しかもけっこう撥ねる動きも多いファンキーな作品。これが江戸時代の振りのままだと知って、懐ふけー!と感動した次第だ。監修を務めた花柳源九郎前編に書いたベジャールの『ザ・カブキ』の際に監修に関わっている。
ダンス・カンパニー「水中めがね∞」主宰の中川絢音は子供の頃から日本舞踊とバレエを修め、日本舞踊は名取の腕前。この企画は続けて行くそうなので、期待したい。

ただ、なんであれ伝統に「新しい試み」を付け足しただけでは木に竹を接ぐ結果になるのだが、技術体系が強固な古典にありがちなことでもある
コンテンポラリー・ダンスは、この連載で観てきたように、一度徹底的に解体された。ドラマも表情も音楽も衣裳も剥がれ、最後には動きすらない「ノンダンス」までいった。そこから再び表現を積み重ねてきたのだ。

伝統で新しいことに挑む人々は、ぜひ「伝統が伝統でなくなるギリギリ」を突き詰めてみて欲しい。たとえば無音で、レオタードで踊って、成り立つのか。成り立たないならそれは何故か。あるいは意外に成り立って、伝統の骨組みの強さを再確認するかもしれない。

伝統と他ジャンルのダンスのコラボをするとき、伝統の魅力を「上乗せ」するのではなく、根本の部分で互いを理解した上で新しい表現を積み上げる必要がある。

狂言師の野村萬斎は演劇を始め様々な事に挑戦しているが、「ボレロ」に挑んだ『MANSAIボレロ』は、駄作も多いボレロ物の中でも、ひときわ優れたものだ。
新しい表現がどうこうではない。「狂言師が『ボレロ』を踊る必然性」を、圧倒的に納得させる舞台なのである。

その2:伝統がコンテンポラリー・ダンスを利用していく

●「はみ出した天才」の受け皿

「先進国である西ヨーロッパが、後進国の伝統舞踊を採り入れる(コラボレーションする)」図式にばかり目がいきがちだが、これだけダンスの交流が盛んになってくれば、「欧米以外の国の伝統舞踊の側が、コンテンポラリー・ダンスを使いこなして自らの表現の枠を広げていく作品」が出てくる。

伝統を否定するのではなく、自分の才能の可能性を広げていった結果、伝統の範疇を大きく外れてしまう人がいる。
保守的な人からは「あんなものは伝統じゃない!」と非難されるが、得てして本人は伝統を踏襲しているつもりなので、戸惑いがちである。こういうタイプの天才の受け皿としても、コンテンポラリー・ダンスは重要だ。

前回も述べたが、フラメンコに代表されるスペイン舞踊は多文化の中で磨かれてきた強さもあってか、コンテンポラリー作品を創る人は多い。
コロナ禍にも奇跡の来日を果たし『春の祭典』『SOLO』で熱狂を巻き起こしたイスラエル・ガルバンについては「第11回サイトスペシフィック」でも触れたが、彼などはその最たるものだろう。
どんな新しいアイデアを盛り込んでも揺るがない伝統の強さが、舞台上で彼を自由にしてみせていた。

女性でも怪物的な存在のロシオ・モリーナがいる。コロナ禍で昨年の来日公演は中止になったが、ドキュメンタリー映画の『衝動ー世界で唯一のダンサオーラ』は無事に上映された。

フラメンコは日本でも人気が高く、さらに新しい表現に挑戦する人も多い。
若い世代でも鍵田真由美・佐藤浩希のカンパニー「アルテ イ ソレラ」は、曽根崎心中を作品化したり、津軽三味線とコラボしたりと、積極的に現代的な作品を生み出している。
残念ながら昨年引退公演『michiyuki』を行った野村眞里子は、伊藤キムとコラボレーションした『ututu』などもあり、両者の掛け合いが互いの新しい魅力を引き出し合った作品だった。

●古典の革新にコンテンポラリー・ダンスを使う

前述したピチェ・クランチェンは、タイ古典舞踊の名手でありながらコンテンポラリー作品での協働も多く、古典的技法を一切使わない作品などにも挑戦している。

そんなクランチェンが2020年に発表した『No.60』は衝撃だった。
彼のバックボーンであるタイ古典舞踊「コーン」に立ち返り、基本とされている59の型(テーパノン)を近代的な視線から分析・精査するレクチャー・パフォーマンスを創ったのである。
手首の回転が腕の旋回に発展していくさまなど、CGや実演でみせるので、とてもわかりやすい。

が、それだけでは終わらないのだ。
クランチェンはさらに自らが開発した6つの新しい型を提示・追加してみせたのである。

つまり、タイ古典舞踊の根本を革新しようとしているのだ。
タイで提唱しても、まず間違いなく伝統の人々の固陋(ころう)な壁に阻まれるだろう。しかしコンテンポラリー・ダンス作品として世界に広くアピールすれば、無視できない既成事実となる。タイの伝統舞踊界に「逆輸入」されるインパクトも期待できるわけだ。

古典の根本部分を革新する手段として、コンテンポラリー・ダンスの長所である「国際的に開かれたネットワーク」を利用するとは、なかなかしたたかではないか。

また広大な国土と強い伝統舞踊を持っているインドでも、北のニュー・デリーでは「ガティ・ダンス・フォーラム」、南では「インドのシリコン・バレー」と呼ばれるベンガルールにある「アタカラリ・センター・フォー・ムーヴメント・アーツ」が有名だ。芸術監督であるジャヤチャンドラン・パラジーはイギリスでも活躍していた人。伝統とコンテンポラリー、さらにはテクノロジーとの関わりも深い。
昨年はセンターと国際交流基金の共同制作で、鈴木竜ヘマバラティ・パラニがリモート制作した『-space』がインドで上演・日本で配信された(筆者もプロジェクト・メンターとして関わった)。

その3:伝統もコンテンポラリー・ダンスもフラットに利用していく

●「欧米対アジア」がすでに陳腐である

以上の二つに共通するのは、コンテンポラリー・ダンスとコラボする伝統舞踊のダンサーは「ある程度極めた達人」ばかりだということだ。
たしかに従来はそうだった。
しかしいまやアジア内部の世代によっては、両者はもっとフラットな関係だったりする。

よく「他のアジアの国々では伝統舞踊を大切にして、コンテンポラリー・ダンスと両方を修めて融合しようとしている(それに比べて日本は駄目だ)」と得意げに言う人がいた。
しかしこれは『ダンスバイブル』にも書いたとおり「過渡期における一時的な状況」に過ぎない。
ダンス人口が増えて色々なバックボーンを持つ若いダンサーが参入してくれば、バレエやヒップホップ出身等、「伝統舞踊と無縁に踊る若い層」は増えてくるのが当たり前だ。

たしかに韓国や中国など、学校教育に伝統舞踊の授業は必ずある。しかし筆者は韓国で審査員を長年やってきたが、若いダンサーに聞いても、基礎としているのは圧倒的にバレエやヒップホップである。
たとえば韓国を代表するキム・ジェドク『ダークネス・プンパ』は、韓国に伝わる乞食歌(プンパ)をテーマに、力強いダンスと歌で描く。しかし動きはいまどきの力強いコンテンポラリー・ダンスである。
なにより韓国は世界屈指のヒップホップ大国であり、ゴブリン・パーティなど(作品によっては伝統文化の意匠を使いつつも)その強みを生かした世代もガンガン育ってきている。

ラオスは伝統舞踊が強い国で、2019年に来日したファンラオ・ダンス・カンパニーは首都ヴィエンチャンを拠点にしている。その作品『Bamboo Talk』『PhuYing』はラオスの一日を描き、伝統舞踊の動きを採り入れた物だった。しかし中心人物であるウンラー・パーウドム(通称カカ)とヌーナファ・ソイダラ(通称ヌート)はストリートダンス出身で、伝統舞踊の要素はいわば後付けで利用したのだった。

彼らと行動を共にしているオレ・カムチャンラは、フランスのリヨンで育ち現在も活動拠点にしている。しかしラオスのヴィエンチャンでFMK(Fang Mae Khong ファン・メーコン)国際ダンスフェスティバルを主宰し、筆者が公式アドバイザーをしている韓国のフェスティバルとも連携している。

「どちらかの親が欧米人」「子供の頃からヨーロッパ育ち」「ヨーロッパに留学や仕事をしているが、アジアのルーツも大切にする」「伝統の祭りとレイブが融合している」など、日本人の想像を遙かに超えた広さと深さで真のダイバーシティ(多様性)がグイグイ進んでいる

「ベトナム」のツー・ホアン『TRIAL』という作品で、「シンガポール」のフェスに出場したところ「日本」人の筆者がアドバイザーをしている「韓国」のフェスのコンペティションに招聘され、そこで優勝して「スペイン」のフェスに招かれて入賞したが、普段は「オランダ」在住でIT企業に勤めているものの、いつかベトナムで国際ダンスフェスティバルを立ち上げようとしている……と、ザッと見ても6カ国と関わる活動などは、ふつうのことだ。

とかく日本は「伝統とは隔絶された環境で受け継がれてきたもの」と思いがちだが、そんなことはない。
千年の歴史をもつ京都の祇園祭でも、「鯉山」という山鉾には約400年前のベルギー製の絵画タペストリーが使われていたりする。そういうものなのだ。
これからのアジアでは、コンテンポラリー・ダンスも伝統舞踊も、ともにフラットな選択肢とした新しいダンスが陸続と立ち上がってくるだろう。

コンテンポラリー・ダンスは西洋主導で進んできたが、いまや日本の舞踏や中国のカンフー、イスラエルのGAGA、さらにはフロア・ムーヴメントにおけるヒップホップやカポイエラの影響など「非ヨーロッパ以外の要素」が、コンテンポラリー・ダンスの根幹の部分に溶け込んでいる。
今後はさらにモンゴルなど中央アジアやアフリカの国々の影響が加わっていくだろう。
もはや「西洋対アジア」の対立はとうに越えて、コンテンポラリー・ダンスは「様々な文化の集合知」といえる段階に入ってきた。

文化は混ざり、交差する中で発展していくのである。

●問われてくる先住民族への眼差し

伝統文化といっても異国のものだけとはかぎらない。
自国内の、先住民族との共生も、また大きなテーマである。

オーストラリアのバンガラ・ダンス・シアターは、オーストラリア先住民族アボリジナルの文化を採り入れた作品を発表している。
筆者は2008年にアデレードで開催された国際ダンス・フェスティバルで彼らを見たが、それは、オーストラリアがいかに占領迫害の過去を反省し、先住民族の名誉回復に努め、共に歩もうとしているかを示すイベントの一環だった。
2008年は現役の首相ケビン・ラッドが、歴史上初めて公式に先住民の人々に謝罪した年だったのだ。

自らも先住民族出身のスティーヴン・ペイジ芸術監督による『Spirit』は、先住民族が儀式で使う全身白塗りをしたダンサー達により、神話的な世界を描いていた。

しかし興味深かったのは、2018年に来日した『I.B.I.S』だった。
これはトレス海峡諸島にあるマレー島が舞台の作品。広大なオーストラリア大陸には、様々な「先住民」がおり、ここでは海洋民族の子孫達の現在が描かれる。

タイトルは「諸島産業サービス委員会(Island Board of Industry and Services)」、つまり島々に点在する日用品の小さなマーケットのことだ。
舞台上には缶詰や金属製の買い物かごが並び、「現代社会に馴染んでいる(馴染まざるを得ない)先住民の日常」がメイン。
終盤では、かつての海洋民族として活躍した祖先の勇姿が描かれるが、それは思いを馳せる「想像の姿」に過ぎない。すぐにふたたびマーケットの日常が戻ってくるのだ。

手にしている文明の利器と失われた民族のプライド。その両方ともが、リアルなものだ。
直視するには苦すぎる現実とも、しっかり対峙した作品だった。

こうした問題はもちろん日本にもあって、北海道のアイヌ文化や沖縄の琉球文化がそれにあたる。が、コンテンポラリー作品との本格的な交流はまだまだ充分ではない

かつては首相が「日本は単一民族」と公言して物議を醸す有様だったが、令和2年には、やっとアイヌを主題とした日本初の国立博物館・国立アイヌ民族博物館ができた。
しかし博物館では基本的に伝統舞踊は範疇外のため、「国立民族共生公園」を作って伝統舞踊が上演できるようになった。マスコミが報じた「ウポポイ(民族共生象徴空間)」とは、これら施設の総称なのである。

●「伝統の作品化」に意味はあるのか?

さてもちろん、アーティストが純粋な興味から異文化に触れ、ときに深く関わることもある。

イギリスのダンサーであるショーネッド・ヒューズが、レジデンス先の青森の伝統芸能の手踊りにすっかり惚れ込み、何年もかけて東北を訪れてリサーチし、コンテンポラリー作品を発表している。

ヒューズは真摯なアーティストであり、作品に取り入れる音楽や動きも、たんなるコピーではなく、深い敬意と理解が感じられる。青森の人たちにとっても幸せな出会いだったろう。

しかしだ。
それでも筆者は、ヒューズの作品を見ると、
「どうして伝統芸能を、コンテンポラリー・ダンスの枠に入れなくてはならないのだろう」
と疑問が浮かぶのである。

本来的に「伝統芸能」は、その地方に住み歴史や生活基盤を共有する「共同体の人々のためのもの」だ。外部の人間が見て面白い必要はないし、もちろん他の場所やあまつさえ劇場でやることなど想定されていない。
伝統芸能の素晴らしさを伝えたいのなら、本来の場所で見るのが一番良いに決まっている。
さらに伝統をコンテンポラリーの枠組みに入れたからといって、ダンス作品として魅力があるかどうかはまた別の話だ。

その点バレエは、イタリアで生まれてフランスで育まれ、ロシアで温存され、20世紀以降は、さまざまな異国・異文化の人に見せることを前提とする社会状況の中で発達してきた。

秘伝めいた神秘性・精神性は一切排除され、世界中の天才がアップデートできる、いわば「オープンソース」として成立し浸透した「世界舞踊」といえる。
バレエほど精緻に作り込まれていながら外部に開かれたダンスの技術体系は、他に類を見ない。

黎明期のコンテンポラリー・ダンスがその基礎にバレエを置いていたことが、その後あらゆるアートを取り込みながら拡散的に広がっていくコンテンポラリー・ダンスの成長を可能にしたといえるかもしれない。

●伝統は普通に生きてますけど?

「伝統とコンテンポラリー・ダンス」の話で、非常に面白かったのが旧共産圏である東欧のある国のフェスティバル・ディレクターの話だ。

ベルギー人の振付家がレジデンスしにきたとき、その国の民族舞踊を新作に採り入れたいとの申し入れがあったが、断ったという。

「私たちにとって伝統舞踊は、親しい人たちと小さな部屋でビールを飲みながら踊る、日常的なもの。どうやらベルギーでは『誰でもいつでも民族舞踊を踊っている』のは一般的じゃないみたいだけど(笑)、だからといって私たちの伝統舞踊をリサイクルなんてしてほしくはないから」

たしかに「コンテンポラリー・ダンスに取り組むような先進国」は、いつしか、
「伝統舞踊は現代社会とは乖離した滅びゆくもので、最先端であるコンテンポラリー・ダンスが救いの手を差し伸べよう。最新の作品にして、世界に紹介してあげよう」
という「上からの視線」で接してこなかったろうか。

「現代社会は伝統から乖離している」というのも、「都会に住む者」が無意識に持っている思い込みかもしれない。
これまで見てきた「思い込みに基づく思いやりの迷惑さ」は、我々誰しも持ってしまうものなのだ。

もちろんすでに述べてきたとおり、伝統文化・伝統芸能と出会って素晴らしい作品を生んだコンテンポラリー・ダンスは数多くある。
そして文化とは交流とともに進化するもの。いま交流しなくても、10年後どうなるかは誰にもわからないのである。

その手で「未来」を選び取るために

●「身体を」「身体ごと」動かすプロジェクト

コンテンポラリー・ダンスは他ジャンルや異文化を取り込んでいく。
その過程で理解しようとする。
ならば自国の伝統、あるいは異文化の伝統、あるいは断絶を越えた相手のことも理解できるかもしれない。

そう思うようになったのは、ルーマニアのコスミン・マノレスクが2011年に立ち上げた「エ・モーショナル・ボディズ&シティズ(E-Motional Bodies & Cities)」という交流プロジェクトを知ってからである。

1991年にソビエト連邦(ソビエト社会主義共和国連邦)が崩壊して、ロシアが支配していた共産圏から東欧の多くの国が独立し、自由化された。
しかししばらくすると、周囲のバルカン諸国のことを互いにほとんど知らないことに気づいた。
そこで立ち上げたのが先述のプロジェクトである。

「ボディズ&シティズ」がミソで、「move」には、「身体の部分を動かす」と「身体の所在を移動させる(引っ越す)」という意味がある。ダンサーが他の国の町を訪れて、理解を深めるのが狙いだ。

しかも交流するのはアーティストだけではなく、プロデューサーやジャーナリストといった「アーティストと社会をつなぐ存在」も共に他国へレジデンスさせるのが画期的である。
筆者はこの日本版「イースタン・コネクション」に招かれてブカレストに滞在したが、じつに実りあるものとなった(日本側からは他に山下残・川村美紀子・小野晋司・三宅文子)。

「アーティストがいま生きている場所のリアル」を描くコンテンポラリー・ダンスが、見知らぬ人、見知らぬ都市や国の理解に役立つのは道理だろう。
そして同様のことは、「地理的に近いのに、本当の意味で互いのことを知らないアジアの国々との相互理解」にも有効だろうと思う。島国の日本は特に。

●その「交流」には意図がある!?

……と、明るく締めくくっても良いのだが。
やはりそれは諸刃の剣だということも、書いておかなければならない。

韓国国立コンテンポラリー・ダンス・カンパニーでは、アジア10カ国以上の国々から「伝統舞踊の素地のあるコンテンポラリー・ダンサー」を集めて交流レジデンスさせる「アジア・ダンス・ワークショップ」を2014年に行った。これは形を変えて断続的に続けられている。素晴らしい企画だ。

このとき振付家として招かれたのは韓国のキム・ソルジン、インドのマンディープ・ライキー、梅田宏明。だがダンサー達は東南アジア中心で、そこに「日本と中国」は入っていなかった

ちなみに同じ2014年、東京オリンピック招致のため日本に新しく「国際交流基金アジアセンター」が設立された。
ストリートダンスを基盤にアジア各国を廻る「ダンス・ダンス・アジア」などは大きな成果を上げ、先述のピチェ・クランチェンをはじめ、多くの新しいアーティストが紹介された功績は大きい。
が、アジアセンターの対象もやはり東南アジアが中心で、そこに「韓国と中国」は入っていないのである。

この二つがおなじ2014年なのは偶然だろうか。
じつは前年の2013年、中国とASEAN(東南アジア諸国連合)のパートナーシップについて、次の10年間における「2+7協力フレームワーク」が発表された。経済と安全保障が中心だが、中国は「一帯一路」構想の一環として「海のシルクロード」のために東南アジアへの投資を盛んに行っている。

こうしてみると、一連の文化交流も、日中韓が互いに他の二カ国を出し抜いて東南アジアに影響力を与えようとしているように見えてくる
大げさだろうか?

ブラジルを代表する国際ダンスフェス「パノラマ」のディレクターだったナイセ・ロペスが筆者のインタビュー(国際交流基金パフォーミング・アーツ・ネットワーク・ジャパン 2012年)で、語ったことが参考になるだろう。
ヨーロッパ各国の政府が費用を負担して自国のダンスカンパニーをブラジルのフェスに送り込もうとすることを、「植民地時代の影響を残しておきたい」という考えが根底にあるからだ、と警戒の念を隠そうとしなかったのだ。

もちろんほとんどの関係者は善意で文化の交流、素晴らしいアートを届けるために尽力しているし、筆者も大いに協力してきた。
その一方で、多くの国では国際フェスや渡航援助をするインスティテュートを外務省の下に作っているのも事実なのである。
現代において、文化は「輸出産業」であり、国力や国のイメージ=ブランドを挙げるための「戦略物資」的な側面を持ってしまっているのだ。

こういう戦略を考えるのが、日本はビックリするぐらい下手クソなので(クールジャパンとか……)実感がないかもしれないが、アジアでも力のある国は、すでにこうした戦略をとっている。

アートは、文化は、人と人をつなぐ。
しかし国と国との争いの道具に使われてきた歴史もある。

本稿でも見てきたように、何が「正解」かは角度によって変わってくる
単一解はないのだ。何から距離を置き、何を選び取っていくのか、本稿のひとつひとつの事柄について、もう一度よく考えてみて欲しい。
あなたが、本当に望む未来を選択するために。

□ ■ □

次号は「バレエが原作のコンテンポラリー・ダンス」をお送りします!

★第16回は2021年8月10日(火)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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