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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第13回〉ダンスにおける「美しさ」問題〜それは疑いつつ信じ抜くもの〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスにおける「美しさ」問題〜それは疑いつつ信じ抜くもの〜

舞台芸術の中でも、バレエといえば美の極致。
バレエダンサーは人間という限りある身でありながら、終わりなき究極の美の体現者たることを求められる。
あらゆる面で完璧であること。そこには往々にして身体的な美しさとともに容姿も含まれる。

しかし現代では容姿への評価が、人間の能力や価値まで左右してしまう「ルッキズム」への批判も高まってきている。

「見る芸術」「身体表現」であるダンスにおける「美しさ」のあり方についてみてみよう。

「若さ」と「美しさ」の楽園

●役割としての「美しさ」

クラシック・バレエの登場人物は、男女ともにたいてい若くて美しい。
もちろん身体表現の美しさを競うわけだが、王族・貴族など「国民皆が憧れ、誇りに思う人々」を前提とした役柄を演じることも多い(たまに魅力的な踊り子だったり純朴な村娘だったりもするが)。

バレエにおける美とは、まさにプラトンのイデア的な、「この世を越えたところにある完全なる美」に少しでも近づこうとする終わりのない営み、あるいは業である。
目鼻の配置のバランスが良いといったような世俗的な基準など遠く超えたところにあるものだ。

しかし昔はわりと「女性の評価には容姿の美しさが重要」という考えが、無自覚に当然の前提とされていた。というかいまだに「○○美人コンテスト」と題されたイベントが日本のあちこちで行われているのが実情である。

●作られた「美談」

つい最近、しかもよりにもよって東京オリンピック・パラリンピックの開会式イベントの責任者が、太めの女性芸人を豚に例えた演出案を出したことが発端となって辞任する騒ぎになった。

その際に、他の芸人の側から「でもその芸人は太った身体のネタで売れてきたのに、今後はやりにくくなるのでは」という声もあった。
たしかにお笑いの世界では「チビ・デブ・ハゲ・ブサイク」など、外見を揶揄する言葉が飛び交ってきた。

しかもそれは長いこと、こんな「美談」として語られてきたのである。
「小さい頃からずっと容姿でいじめられてきたが、いまでは容姿を武器として使って笑いをとれるようになった」
逆境を跳ね返した、強くなった、素晴らしい、というわけだ。

●その異常さに気づけない

この「美談」が異常なのは、「いじめる側」のことを全く責めていないことだ。
「いじめられる側」だけが耐えて、努力し、加害者も含めた人々を楽しませることができたら居場所を与えていただける。そんなことが美談だろうか。
「武器」に変えられたごく一部以外の大多数の人々は、容姿を馬鹿にされても耐え続けていけ、ということではないか。

「残念だけど、いじめや差別は人間の本性なので、なくならない。しょうがないよ」という考えが基本にあるのだろう。
では攻撃欲や破壊衝動、他人の物を欲しくなるのも人間の本性なので、お前は自分より力の強い者からいきなり殴られたり身ぐるみを剥がれても「人間だもの」と笑顔で差し出すのか。

そんなことのないように人権という概念が生まれ、人権を守るために法律がある。
全ての人は平等に幸せに生きる権利があるからだ。
しかしなぜかいじめに関しては「いじめる側の理屈」が優先される。その要因のひとつに「アイツを見てるとイライラする」といったルッキズムが加担していることは否定できないだろう。

もっとも最近は笑いの世界でも、若い女性芸人が「デブやブスといった見た目のいじりはしてほしくない」とはっきりとメディアで発言するようになってきた。「そんなことを言っていたら、お笑いなんてできなくなる」という声もあったが、大きな漫才大会の決勝に残ったネタが、いずれも「他人を傷つけないネタ」だったりしている。

できなかったわけではない。
しなかっただけなのだ。

バレエ作品の「美しくない人々」

●「美しくなければ死ぬ」の法則!?

……いやべつに、この連載はお笑いを熱く語るものではないのだが、全く無関係というわけでもない。

美の結晶のようなバレエ作品では敵役すらスタイリッシュなため、主要登場人物が「美しくない姿」で登場することはあまり多くない。
歪んだ顔の人形の『ペトーシュカ』や、『ノートルダム・ド・パリ』のせむし男カジモド、といったところだろうか。

ミュージカルでも『美女と野獣』(デヴィッド・ビントレーがバレエ化している)や『オペラ座の怪人』など、姿が醜い者は人目を避けて暮らさねばならない。
もっとも『美女と野獣』のビーストは、グリム童話の『カエルの王子様』同様、「魔法で姿を変えられていたが、王子様に戻れた者」なので、最後はお姫様と結婚できる。

つまり、バレエにおいては「醜い者は死ぬ。ただし美しい姿に戻った者は生きる」の法則があるのだ(私見です)。

たとえば『ノートルダム・ド・パリ』(原作はユーゴーの小説)のカジモドはエスメラルダの無念を晴らすが、最後は骨となって発見される。『オペラ座の怪人』のファントムも、生きていることをほのめかしつつ死んだことになる。
舞台上のファントムは仮面が小さいこともあり火傷と思っている人も多いが、先天的な奇形である。とはいえカジモド同様、病気や先天的な疾患による症状を「醜い」と書くのは間違っているが、作品の中ではそういう位置づけで描かれている、ということでご容赦願いたい。

●フォーキンの『薔薇の精』『ペトーシュカ』

逆にいうと、外見さえ美しければ人形であっても(『コッペリア』)、人外であっても(『ラ・シルフィード』『薔薇の精』)恋の対象となる。

フォーキンが振付けた『薔薇の精』の初演は、椅子でまどろむ乙女をタマラ・カルサーヴィナ、乙女と夢の中でワルツを踊る『薔薇の精』を、不世出の天才ヴァツラフ・ニジンスキーが演じた。彼がこの作品で「最後に窓から去って行く跳躍がいつまでも落ちてこないように見えた」という伝説を生んだのは有名な話だ。

『薔薇の精』は、乙女の手から落ちた一輪の薔薇から匂い立つ香りが形を成した「中性的かつ官能的」という相反する役柄が要求される。この世ならざる者、まさに美の化身である。

衣裳は「全身タイツに薔薇の花や葉が縫い付けられた独特なデザイン」で、なかなかに着こなしが難しい。ダンサーに人間らしさが残っていると、見ているこっちが恥ずかしくなる。『薔薇の精』たる化身の域にまで達していなくてはならないのだ。

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『薔薇の精』タマラ・カルサーヴィナ、ヴァツラフ・ニジンスキー

こうして美の化身たる『薔薇の精』を見事に演じたニジンスキーが、同じくフォーキンの振付で踊ったのが、顔にゆがんだメイクを施した人形の『ペトルーシュカ』である。このふたつは現代も人気で踊り継がれている作品だ。

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『ペトルーシュカ』ヴァツラフ・ニジンスキー 

見せ物小屋にある三体の人形の物語。ペトルーシュカは美しいバレリーナの人形に恋をするが、彼女は屈強なムーア人の人形に惹かれている。ペトルーシュカはムーア人に挑みかかるが、あっけなく刀で斬られてしまう。

『ペトルーシュカ』は人形なので動きは不器用なものだ。思う通りに動くことができない姿は、日常生活で思うにまかせぬ観客の人生と重なる。
ペトルーシュカが斬られても、人形遣いは騒ぐ人々に対して「これは人形だから」と安心させる。

にも関わらず、最後にペトルーシュカは人形小屋の屋根の上へ幽霊となって登場するのだ。
人形なのに幽霊とは。
美しくもなくスマートでもない。愛する者から相手にされず、あげくにあっさり殺されるペトルーシュカは、『薔薇の精』のようなロマン主義から離れ、きわめて人間くさい、今を生きている人間そのものとして描かれている。
だからこそ人々の心を打ち、幽霊になって出てもくるのだ。

両作品を振付けたフォーキンは、手記の中で『ペトルーシュカ』におけるニジンスキーの演技力を褒めている。伝説となった跳躍の『薔薇の精』よりも、演技力を評価されるのが天才たる所以だ。
ただやはり「醜い者は死ぬ。美しい姿に戻った者は生きる」の法則に当てはまってしまうのだが……。

コンテンポラリー・ダンスは「美しさ」を疑う

●『魔女の踊り』と「ねじれ」

いっぽう「コンテンポラリー・ダンスは全てを疑う」ので、「美しさ」もストレートに受け取ることは少ない。なんならちょっと変わった容姿のほうが人気があったりする。

そもそもダンスは、若くて美しい人たちのためだけにあるわけではない。
しかしダンスでも芸術から娯楽まで「美しさ」は様々な形で称揚され、消費され、そこにはつねに「ねじれ」がついてまわった。

いまも伝説的に語られるのが、20世紀初頭、ドイツの新しいダンス(ノイエ・タンツ)の巨人マリー・ヴィグマン『魔女の踊り』だ。
映像も残されているが、恐ろしい魔女の仮面をつけて床に座りこみ指を奇怪に曲げ、虚空につかみかかるように踊る。

この作品の価値を語るには、前述した「ねじれ」について語る必要がある。
20世紀という新しく素晴らしい時代(ベル・エポック)の幕開けとともに、それまで禁じられてきた女性の裸体は、新しい芸術、新しい価値観の象徴としてもてはやされた

この頃欧米では紳士淑女が正装で食事をしながら楽しむストリップティーズやボードヴィルのショウが大人気を博した。そこにはジョセフィン・ベイカーやイダ・ルヴィンシュタイン、サラ・ベルナールといった綺羅星のようなアーティスト達が活躍した。モダンダンスの祖と言われるイサドラ・ダンカンやロイ・フラー達にしても、そういう舞台で活躍していたのだ。

しかし自由の象徴だったはずの女性の裸体は、次第に「若くて美しい裸体の鑑賞(女性のみならず、男性のボディビルが誕生したのもこの頃で、鑑賞の対象だった)」、つまり芸術性を言い訳にしたポルノグラフィに近い扱いになっていった
こうなることは珍しくない。
複製を重ねるうちに、よりわかりやすく伝わりやすい形に単純化される「劣化コピー」の現象である。

そんな流れの中でヴィグマンの『魔女の踊り』は、剥き出しの生命と情動を叩きつけて見せた。女性の存在は、若さや美しさだけで消費されるようなものではないと、時代の流れに敢然と立ち向かったのだった。

●肢体を封じるマギー・マラン

時代が下り、フランスのコンテンポラリー・ダンスの黎明期を切り開いたマギー・マランもルッキズムと戦ったアーティストである。
代表作『メイB』のダンサー達は、全身が白い泥を塗って固めた、軽めのゾンビのようだ。だからこそ時折差し込まれるセクシャルな仕草も、コミカルで痛々しく見えてくるのである。

マランがリヨン・オペラ座バレエに振付けた『サンドリヨン』は童話のシンデレラをモチーフにしたものだが、ほぼ全員に水死体のように膨らんだ肉襦袢、顔には不気味なフランス人形のような被り物を着せた。同団には他にも『グロスランド』を振付けているが、これもむっちりした体型のボディスーツを着せていた。せっかくのダンサー達の美しい身体のラインが見る影もなくなる。

本連載第6回の『ダンスと衣裳』でも述べたように、ダンサーに負荷をかける衣裳を着せて新しい動きを引き出すこともある。しかしこれは、鍛えられたなめらかな動きとは裏腹に、内面の醜さを先に視覚化しようというものだ。

それは衣裳ではなく、ダンスの表現としてやるべきでは?
じっさいダンサー達からも抗議の声がおこったという。
もちろんそうなのだが、あえて衣裳の効果を最大限に使ってやってみたいという気持ちも、わからないではない。

●舞踏はグロテスクさを内包する

いまでは世界的に高く評価され、アジアからヨーロッパへ「逆流」した数少ないコンテンポラリー・ダンスとなっている舞踏だが、はじめは「暗黒舞踏」と称していた。
異形や奇形や病気や老いなど、暗黒面やグロテスクさも内包した表現に挑んでいったからである。

軽やかで重力を感じさせない動きを体現するバレエからすると真逆のスタイル。
床に近く重力を感じてそれに抗う姿そのものがダンスになっていく。

美しさの基準に身体をはめていくのではなく、むしろ「全ての身体をユニークな存在としてとらえ、その身体ならではの真実を探る」のが舞踏の考え方だ。
とうぜん万人にとって好ましい物ばかりとは限らない。
そしてそういう「好ましくない部分」はダンスの歴史の中で棄てられてきた。
舞踏はそうした「美の追究の過程で棄て去られた動き」を回収し再評価していったことで、ある種の哲学的な意義を持ってヨーロッパのダンスに衝撃を与えたのだ。

大野一雄の『ラ・アルヘンチーナ頌』では、70歳過ぎの老人である大野が、若い頃に見た美しい女性ダンサーと同じ格好をして白塗りに化粧をし、花を手に遠く思いを馳せる。

土方巽の『疱瘡譚』は、身体中に水ぶくれができる疱瘡(天然痘)を病み、打ち棄てられた者が蠢(うごめ)く様だ。古く疱瘡は神の罰とされ、治っても痘痕が残った。

こうした舞踏のスタイルは、ある「伝説」を生んでしまう。
すなわち「日本の舞踏のグロテスクさも内包したスタイルは、原爆で焼かれた人たちや、そのケロイドの皮膚から生まれた」というもの。
これは完全な誤解だが、広く世界に広まってしまった。舞踏という不可解なダンスを外国人がなんとか理解しようとした結果なのだろう。折に触れて訂正しているのだが、いまだに時折耳にするのは残念なことだ。

●精神の不気味さ ピーピング・トム

外見だけではなく精神的なグロテスクさまでもえぐり出すような作品を作っているのが、ベルギーを代表するピーピング・トムだ。
第7回『ダンスと美術』では、彼らの舞台美術の特徴について説明したが、彼らの本領が発揮されるのは、人間のダークサイドをごっそりとえぐり出すその世界観だ。

初期の代表作『ヴァンデンブランデン通り32番地』は、最果ての地のトレーラーハウスに暮らす底辺の男女の愛欲と暴力が、様々な隠し事を抱えた登場人物達の間で繰り広げられる。
家族三部作のひとつ『ファーザー』は、閉ざされた老人ホームで展開される老人・家族・職員たち、それぞれが個性的に狂っている。しかもそれが老人の妄想と区別がつかなくなってきて、舞台全体が悪夢の様相を呈してくる。

とくに韓国人ダンサーのキム・ソルジンがグネグネした超軟体の動きで、歪む世界、淀んだ内面を視覚化しており、「うわあ……」と思いながら目が離せないのである。

●太めでも、ほっこりできる

ちょっとヘビーな例が続いたので、普通に身体の多様性としては、太めの身体でありながらルッキズムとはちょっと違う例を2つ紹介しよう。

福岡を拠点としている乗松薫と鉄田えみのユニット「太めパフォーマンス」
パワフルな身体をぶちかます作風で人気があったが、韓国の実力派チェ・ミョンヒョンが振付に参加した『The Ignited Body』では、太めの身体の各部分に刻まれた半生の思い出をたどっていく「体脂肪に歴史あり」な作品。
人生いろいろな積み重ねの果てに今の身体があることを示した。

現代イタリアダンスのホープ、シルヴィア・グリバウディSilvia Gribaudiの代表作『グレイシズ GRACESでも、ぽっちゃり体型のシルヴィア本人が活躍する。
シルヴィアは人なつこい笑顔でイケメンのギュッと絞った身体の3人の男性ダンサー達と踊るのだが、自分にできそうにない動きには無理をせず、「ま、私はこっちで休んでるんで。あちらのすごいダンサー達をね、見てやってくださいな」と任せ、多少手持ち無沙汰で立っていたりする。
もちろん一緒に踊ったりもするのだが、自らの体型を自嘲的に扱うことはない。
できないことはしないだけのことだ。しかしなんともいえない、コミカルで温かいコミュニケーションがある。

温かく、優しい世界である。

ハンディキャップのダンス

●全ての身体を、ユニークな存在とみなす

『ノートルダム・ド・パリ』が邦訳されるときは『ノートルダムのせむし男』と訳された。昔は身障者がまともな仕事に就くのが難しかったことも差別へとつながった背景にある。

美しさの基準が「過不足なく整っていること」であり、障害を持つ人はそうではない、という差別。
とくに医学が未発達だった時代、天然痘やペストなどの伝染病対策として村の外に隔離するのは有効な面もあった。しかし同時に病気や先天的な障害を天罰や業などとする誤った考えを生むことにもなった。

また障害者は「人に迷惑をかける存在」として、社会生活から疎外されがちだった。
健常者が彼らをそう扱うのみならず、障害者自身が自分を「他人に迷惑をかける存在」と思わされてきた歴史が長かった。
現在では社会のバリアフリー化など、全ての人々が平等に快適な生活があたりまえにできるよう、社会の体制を整えようとしている。

こういう社会の中で、コンテンポラリー・ダンスの最も素晴らしいところは、「全ての身体は、世界中に二つと同じものがない、ユニークな存在である」と考えることだ。

美しくバレエを踊れる身体は素晴らしい。しかし両足がない人は「バレエダンサー」になれるだろうか。
しかしコンテンポラリー・ダンスは、どんな体型でも、どんな障害を持った身体であろうと、踊ることができる。誰にも替えのきかない、唯一のユニークな存在として、全ての人は踊ることができる。
つまり「恵まれた身体性を持った人々だけが踊れるものだ」という思い込みから、ダンスを解放したのである。
全てを疑ってきたことの成果のひとつだとオレは想う。

●できる・ダンス・カンパニー

こうしたことにいち早く取り組んできたのは、イギリスのカンドゥーコというカンパニーである。正式名称はCANDOCO DANCE COMPANY。「できる(can do)」が名前のなかにあるところがよく内実を表している。
1991年に創立者のアダム・ベンジャミンは、このカンパニーを「障害者と非障害者の混成」で組織した。どちらかだけではないのがポイントである。両者とも等しくユニークな身体なのだから。

初期には腰から下がなく、手だけで歩き、踊る有名ダンサーがいた。彼は車椅子を手だけで軽快に上り下りし、最後には「片手倒立」までしてのけた。
これは腰から下があったら重くて不可能な動きである。
「障害があるのにこんなに動けてすごい」ではなく、「障害があるからこそできる動き」を開発して見せたのだ。

海外では、ときとしてドキリとさせられる作品がある。
20年くらい前に海外で見たのでタイトルを失念してしまったが、ヴェルティゴ・ダンス・カンパニーの公演で、舞台上には数脚の椅子と、車椅子の男性がいる作品があった。
長く使わない椅子にほこりがつかないように、次々と白いカバーを掛けていくのだが、最後になんと車椅子の男性にもカバーを掛けてしまうのだ。

コミカルなシーンだが、笑うことがためらわれる。そして「車椅子の人々は、現実社会でこのような(家具同然の役に立たない存在として扱われる)仕打ちを受けているのかもしれない」と思い至る。
すごいことをするなと思って振付家を見ると、アダム・ベンジャミンだった。

障害者のダンスについては第10回『ダンスで使う「物」たち』でも、車椅子を解体して車輪の上で踊るかんばらけんたや、片足ならではのダンスを見せる大前光市などにも触れているが、他にも、海外とのコラボレーションも多い森田かずよなどもいる。

カンパニーも、イギリスのストップギャップ・ダンス・カンパニー、アメリカのアクシス・ダンス・カンパニー、韓国のトラスト・ダンス・シアターなどがある。日本では「劇団態変」「インテグレイテッド・ダンス・カンパニー響-Kyo」など各地にあり、コンドルズが作った障害者ダンスチーム「ハンドルズ」などが活発な活動を続けている。

●キアラ・ベルサーニ『ユニコーンを探して』

もちろんプロとして公演するのなら、カンパニーに障害者がいようがいまいが作品の質は厳しく評価に晒されるべきだろう。
障害のある身体を個性として表現するのなら、アーティストとしてバレエダンサーとも対等な存在だからだ。
「障害があるのにがんばってる(だからクオリティが低くてもしょうがない)」というのは、むしろ失礼な話だ。

最近特に印象に残っているのが、イタリアのNIDフェスティバルで見たキアラ・ベルサーニの『ユニコーンを探して』である。
観客は細長いスペースの両側に並んだ椅子に座る。ベルサーニは脊椎側湾症で、居並ぶ観客の顔を一人一人見ながら、丸く縮んだ身体で床を躄(いざ)っていく。彼女の視線は床から、つまり赤ん坊や小動物の位置からのものなのだ。

無垢な笑顔を向けたまま、不自由な四肢を使い、たった一人で床を移動していく姿を見ているだけでも「ダンス」として充分だった。

しかしそれでもオレは「障害のある身体を見せるだけでは、見せ物小屋と変わらないではないか」と思った。懸命に生きる姿に感動して終わる、つまりかわいそうな人を「感動ポルノ」として消費することには加担したくなかった。
アーティストの作品なら、「それ以上の何か」を提示しなくてはならないはずだ。

すると最後、ベルサーニは床に置かれた小さなトランペットを手に取った。そして精一杯の力を込めて吹いたのである。
演奏などはできない。弱々しい音が出るのみだ。それでも傷ついた動物が仲間を呼ぶ遠吠えのように、何度もトランペットを鳴らした。

無音の空間を、細く渡っていくトランペットの音が、観客の胸に染み入ってくる。
観客は彼女の孤独を思い、思わず涙腺がゆるまずにはいられなかった。

そのとき。

スタジオの外から、大小様々なラッパや楽器を抱えた子ども達が、「ブオー!」とてんでに鳴らしながら入ってきたのである。
音にまとまりはなく、でたらめのきわみだ。しかし彼らは明確にベルサーニのトランペットに呼応していた。
孤独ではないのだ。彼女の遠吠えは、彼らに届いていた。
もはやオレは涙が出るのを止めようもなかった。

とかく障害者というと「障害に負けないで頑張っている強さ」をアピールしがちである。
しかし「ユニークであること」と「強いこと」は違う
障害者が、いつも強くある必要はない。健常者だってそうだろう。
弱さもまた、人間の魅力のひとつである。
弱くていいのだ。
人はただ存在しているだけで、みな等しく価値があるのだから。

「美しさ」の大きすぎる反動

●自分の墓の上で踊る

ルッキズムは、「ブス、ハゲ」といったマイナスだけではなく、「美人だ」とプラスに使われることもある。そのため「容姿を褒められて嫌な気持ちになる奴はいないだろう」と思い込みがちでもある。

実際には褒めているつもりの言葉で傷つくことはいくらでもある(「美人は得だねー」「若い子はいいねー」等々)。

またダンサーにとって、ルッキズムはときに暴走し、直接健康を害することもある。

たとえばバレエダンサーに対して過剰なダイエットを強いる、もしくは自らを追い詰めてしまうことは、しばしば問題になってきた。

『ダンシング・オン・マイ・グレイブ わが墓上に踊る』は、タイトルの通りスターダンサーだったゲルシー・カークランドの衝撃の半生を描いた自伝である。

バランシンの秘蔵っ子、バリシニコフとのパートナーシップと輝かしいキャリアを歩んできたが、無理な減量によって拒食症となり、やがて精神のバランスを崩してコカイン常習者になってしまう。コカインの吸引で鼻の粘膜がやられ、止まらない鼻水がピルエットの最中に弧を描いて飛んでいくなど、生々しい話が続く。

特にバランシンはダンサーのスタイルの維持には厳しかったと言われている。
オレはあまりにも手足がヒョローっと長いよりも、短めなくらいのほうが人間的でホッとするのだが。
舞台上でちょっとふくよかに見える人が、直接見るとぞっとするくらい細かったりする。となると舞台上で細く見える人はいったい……と思わざるをえない。

●「生理はたるんでいる証拠」!?

コンテンポラリー・ダンスは、あらゆる身体をユニークとするからダイエットなどはないか、というと、そうでもない。

特に学校のダンスは「運動部・体操」のノリで精神論が根強く残っている。
体脂肪が落ちすぎて女性ホルモンが減少してバランスを崩し、生理が止まるなど様々な障害を引き起こすことがある。
ひどいときにはそれが常態化し、「生理があるのは、たるんでいる証拠だ」と暴言を吐く指導者、あるいは生徒自身が「生理なんかないほうが面倒がなくていいと思っていた」という話も残念ながら耳にする。
思春期の身体を作る大切な時期に、そんなことをしていいわけがない。

同様の問題を抱えていたファッション業界では、モデルの過度なダイエットを防ぐため、BMIなど適正体重値を満たしていないとショウに出演させないなど、より積極的な対応に乗り出している。

●「ちょっと整形してきなさい」

知り合いの韓国人の男性ダンサーから、こんな話を聞いた。
彼は、年に数人しか適用されない兵役免除になるくらい優れたダンサーなのだが、大学の恩師にこう言われたという。
「君はダンサーとしては素晴らしい。しかし残念ながら顔がよくない。私が費用を出してあげるから整形手術を受けてきなさい」
整形大国と言われる韓国ならではカジュアルさだが、彼は恩師の温情には感謝しつつ辞退したそうだ。

実際韓国や中国のダンサーは、バレエはもちろんコンテンポラリー・ダンスでも、男女ともに高身長に長い手足に小さな頭、整った顔、という人がゴロゴロいる。もちろん技術も高い。

しかしオレが韓国の高校生のダンスの大会を見たときには背の低い人、太めの人、様々な体型の魅力的なダンサーがたくさんいたのだ。韓国のダンスは大学が中心なので、そうした体型では受験を突破するのが難しいようだ。

最近では韓国でも様々な体型のダンサーも見るが、同様の傾向は他の国でも少なからずある。コンテンポラリー・ダンスであっても、ルッキズムによって道が閉ざされてしまうことは、残念ながらある。

異質な者を排除する装置

●「引きこもり」が海外でダンスに

「醜い者を排斥する」というのは、ルッキズムあるいは迷信などの間違った偏見に基づくものもあるが、本来的に「我々とは違う、異質な者を排斥しよう」という共同体の心理でもある。

現代社会での差別はさらに巧妙になり、見えない天井、見えない壁という形で、異質な者を排除するようになっている。

深い考察の演劇的作品で評価されているファーム・イン・ザ・ケイヴというカンパニーが、数年にわたって日本の「引きこもり」をリサーチして発表した作品『Disconnected』には、感心させられた。
この公演はプラハの美術館で展示と特設舞台で行われた。

『Disconnected』は、引きこもりの若い女性ダンサー(ベトナム人らしいが、日本人に見えた)が、部屋を出て復帰しようとする。しかしスーツを着た旧共産圏のビジネスウーマン風の無表情かつ隙のない「完璧さ=共同体が認める美しさ」を体現したダンサー達に、無慈悲なまでに排除されていく、カフカ的な世界だった。

いまや引きこもりは、英語でもHIKIKOMORIで通じるくらい、世界的に問題となっている。
しかもこの作品は「引きこもる個人」を通して、「いちど社会から外れた者が復帰しようとしても居場所がなく、排斥されていく」という、社会の側の歪んだ論理にまで展開させており、じつによくできていた。
ぜひとも日本に呼んでほしいものだ。

ダンスにとって「美しさ」とは何か

●美しいものしか見たくない!?

さていろいろ見てきたが、それでも、「美しいものしか見たくない」「だからコンテンポラリー作品は見ない」というバレエファンに何度か会ったことがある。

たしかに新しい表現は、ときに暴力的な表現をする場合がある。露悪趣味のような底の浅い作品も、あることはある。
金を払って時間を使って、なぜそんなものを見なくてはいけないのか、という気持ちもわからないではない。

グロテスク(GROTESQUE)とはもともと美術の言葉で、15世紀に発見された暴君ネロ時代の遺跡が埋もれていて洞窟(グロッタ)のようだったことに由来する。そこの装飾に、過剰で奇怪なものが多かったのだ。
しかしそれは、同時に人の心を掴んできたのである。

人は完璧さを希求する一方で、完璧でないものも愛でる。
なぜなら人間自身が完璧な存在ではないからだ。

●「美しさ」だけでは不気味の谷に落ちる

あまりにも完璧なものに対する嫌悪感は、例えばナチスや共産主義国家が描き出す「完璧で健康で理想的な国民像」の過剰な端正さに胸がざわつくのに似ている。

正しさばかりでダークな面がないものは「不気味の谷(CGで人間に似せていくと、ある段階で不気味さを感じてしまうようになる)」に陥る。
「人間の形をしているが、人間ではないなにか」に見えてしまうのだ。
逆にナチスが「退廃芸術」の烙印を押したピカソやゴッホこそが、時を越えて人々の心に残っていく。

もしもバレエが美しさだけを求めていたら、時代を超えて人の心を打つことはなかったろう。
バレエは研ぎ澄まされた美の世界を創り上げながら、人間のダークな面も描き出してきた。
じっさいバレエで描かれる男性から女性に対するパワハラやモラハラは、けっこうエグいものがある。

そしてモダンダンスやコンテンポラリー・ダンスは、人間のダークな面とも直接的・間接的に関わりながら世界を構築し、観客と共有してきたのである。

●それは更新し続ける指針

そしてもちろんダークさの解釈や描き方については、つねに時代とともに考え続けていかなければならないだろう。
バレエでも、「みんな死んで終わり」のようなラストをハッピーエンドに変更したり、あるいは「当時は普通だったが現代では差別と見なされる表現」を変更したり、つねにアップデートの如何を問い直されている。

美は、醜さを内包することで強さを獲得する
「最も美しいもの」と「最も醜いもの」は、ともに人間の中にある。

しかし人間の本性だからといって、野放しでいいわけがないのは、冒頭に述べたとおりである。
もちろん芸術を「正しさ」が詰まっただけの空虚な骸(むくろ)にしてもいけない。
その清濁を図る基準であり続けることが、ダンスにおける「美」の役割なのである。

□ ■ □

さて多くの皆様にご愛読いただいているこの連載も、当初の予定通り、残すところあと3回となった。

様々な視点からバレエとコンテンポラリー・ダンスを比較し、それぞれの特徴を浮き彫りにするとともに、オレが見てきた世界各国の忘れがたい作品の数々を記してきた本連載の、ラストスパートにご注目いただきたい!

次回は、コンテンポラリー・ダンスが、なぜ「定義不能」になったのかに迫る、

第14回「多文化時代のダンス」

である。
お楽しみに!

★第14回は2021年6月10日(月)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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