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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第12回〉物語と抽象〜「よくわからない」とは、何がわからないのか?

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

物語と抽象〜「よくわからない」とは、何がわからないのか?

さて今回は「物語ダンスと抽象ダンス」についてみてみよう。

ダンスが苦手だという人に理由を聞くと、しばしば「何をやっているのか、よくわからないから」という返事が返ってくる。
「よくわからないものを楽しむのがダンスだろう」も真理なのだが、それだと話が終わってしまうので、もう少し考えてみよう。

といっても、たとえば社交ダンスやストリートダンスを見ていて、「何をやっているのか、よくわからない」という人はいない。はじめから動きを楽しむものだと思ってみており、ストーリーや意味があるとは思っていないからだ。

ということは、コンテンポラリー・ダンスを見ていて「何をやっているのか、よくわからない」という声が出るのは、その逆、つまり「ダンスにはストーリーがあるはずで、個々の動きは何かを表しているはず」だと思っているからだ、と見ることができる。

だがそのセリフ、本当に額面通り受け取っていいのだろうか?
なにか裏があるということはないだろうか?
それはおいおい見ていこう。

何をしてるか、わかりたい!?

●テレビ番組の特集で

少し前、朝のニュース番組でコンテンポラリー・ダンスの特集をする珍しい機会があり、筆者にも電話取材が来た。しかし話していると、徐々に不安になってきた。
どうもこの担当者は「コンテンポラリー・ダンスとは、いまの日本のエンタテインメントの世界で流行しているステップの名前」ぐらいに思っているようなのだ。

これではいかんと、コンテンポラリー・ダンスが1970年代に西ヨーロッパを中心に始まった新しいダンスの総称であることなどを簡単に説明すると、衝撃の答えが返ってきた。

「すると……あれですか、コンテンポラリーって、けっこう海外でも流行ってる感じですか?

耳、もげるかと思いましたね。

この番組内では都内の有名なダンススタジオでも収録していたのだが、タレントがやってきて、

  • ダンサーがひとしきり踊ったあと「いま、何を踊ったでしょう」とクイズにした(正解は東京タワー)
  • 「みんなで『夏休み』をテーマに踊ってみましょう!」といって踊った。

当然ながらダンスというよりゼスチャーゲームのような有様になったのだが、ひとつわかったことがあった。
それはこのテレビ作者(が想定する視聴者)にとって「いいダンスとは、何をやっているかがわかるダンス」なのだろうということだ。

●そっくりなのはスゴイこと

これは一概に馬鹿にしたものでもない。絵だって最初のうちは「本物そっくり!」が褒め言葉なのと同じことだろう。
人は、何かと比較することで価値を計る。「本物そっくり=なにを表現しているのか正しく伝わった=すごい!」という展開である。

本連載では「説明」に寄せすぎると「表現」が薄くなることを見てきたので、今回は作品としての「わかりやすさ」についてみてみよう。
「何をしているのかわからない」のは、抽象的な作品だからだろうか。
明確な物語があれば「わかりやすい」のだろうか。

通常「抽象」の対義語は「具象」だが、ここではダンスにおける「抽象」に「物語」を対置させて、ダンスにおける物語の描き方、そして「ダンスにおける抽象」とは何かを考えてみよう。

物語バレエと抽象バレエと筋のないバレエ

●不自然なドラマ、整合性のあるドラマ

バレエにも、物語のある作品と、動きと構成で見せていく作品がある。

もともとオペラとの関わりで発展してきたバレエだが、クラシック・バレエには基本的に物語があり、音楽・舞踊・美術・文学(ドラマ)の全てが溶け合った総合芸術としての醍醐味を堪能できる。

しかし本筋には関係なく、ディベルティスマン(余興)と呼ばれる、様々なダンスを坦懐に楽しむ時間帯がある。

『白鳥の湖』の舞踏会での各国の踊りや、『眠れる森の美女』で童話の主人公たちがお祝いの踊りを踊ったり、『くるみ割り人形』ではお菓子の国で民族舞踊等が踊られる。「お祝いの席で、当時のヨーロッパにとってエキゾティックな魅力と思われた国々の舞踊」が採り入れられる。
これは当時の大国による植民地主義の拡大が背景にあり、現代の目から見ると偏見や蔑視と取られる表現も含むため、上演に際しては議論を呼ぶところではある。

ロマンティック・バレエは伝説や詩がモチーフになっているものが多い。
バレエは、物語のなかにディベルティスマンのような多様な踊りを含みながら展開させていく構造が全体のバランス的にもちょうどいいので、伝説や詩がもつ、ゆるやかな構成との相性がいい。

しかし現代に生きる人々を描こうとすると森や魔法というわけにはいかず、紡がれるドラマにも整合性やリアリティが求められ、複雑化していくことになる。
現代のバレエでは、ケネス・マクミランジョン・クランコのように、ぎっしり詰まった物語を紡ぐ「演劇的(ドラマティック・)バレエ」の名作を数多く生み出している。

また最近では、そういうリアリティの視点からロマンティック・バレエを見直す作品も増えてきている。
バレエはその歴史の中で、ダンス部分を重視するあまり、物語が省略されたり構成が入れ替わったりしてドラマ的に不自然な箇所が出てきても、「まあそういうものだから」として放置されてきた作品が少なからずある。
現代でもボリショイ・バレエのユーリ・グリゴローヴィチのように、マイム部分をどんどん削ってダンスを増やす演出もあった。

しかしそれらをもう一度見つめ直し、必要ならばドラマを補って、物語の因果関係や登場人物の感情の移り変わりと行動の動機付けなどを肉付けしていく演出も増えてきている。
ドラマが整合性を持つことで、より深く作品に入り込むことができ、バレエを見慣れていない観客を掴むことにもつながるだろうからだ。

バレエの進化が、止まることなく続いている証左である。

●バランシンの『シンフォニー・イン・C』、ロシアへ

さてバレエにはもう一つ、重要な流れがある。

物語のない、動きとフォーメーションの美しさで見せるバレエだ。
もちろん先述したディベルティスマンは、その意味が「余興」であるとおり、ドラマを語るわけではなく動きの面白さを見せるためのものだが、それでも物語全体のなかに存在する意義がある。

物語のないバレエは「アブストラクト(抽象的)・バレエ」などと呼ばれていたが、その第一人者であるジョージ・バランシンはこの言い方を嫌い「抽象などではない。たんに物語がない(プロットレス・バレエ)だけだ」と言っていた。

バレエ・リュス解散後アメリカに渡ったバランシンはニューヨーク・シティ・バレエ(NYCB)の芸術監督になる。
そして1962年、ついに故国ロシアに凱旋公演を行ったが、その際に『シンフォニー・イン・C』などのプロットレスな作品がロシアのバレエ界にどう受け入れられるか、最後までハラハラしていたという。

なぜならこれら物語のないバレエを「形式主義的だ」と批判する人もいたからだ。
そしてこれはバランシン以前、「バレエには物語があるのが当然」が共通認識だったことを表している。
バランシンが所属していたバレエ・リュスのディアギレフが、どれほど革新的なことをやろうとも根底に「総合芸術」という信念があったことからも、それはうかがえよう。

しかしそんな心配をよそに公演はロシアの観客にも受け入れられ、大成功の内に幕を閉じたのだった。

本連載第2回「ダンスと言葉」の回でも述べたように、ダンスが物語を「説明」するのはつまらない。たんなる音ハメも退屈だ。
だが『シンフォニー・イン・C』は振付と音楽の構造が分かちがたく結びついた、感嘆すべき作品である。音楽が視覚化され、ダンスが曲を奏でる。

時代的にはマース・カニングハムが「ダンスに物語は必要ない」とダンスを解体していた頃である。しかしバランシンはカニングハムのようにバレエを「解体」しようとしたわけではなかった。むしろ音と光と衣裳と身体の一体感という、バレエが実現する美をさらに蒸留し、純粋化していったのである。

●「物語を描け」vs「踊りだけで語れ」

ここでちょっとバレエ史的なことを見てみよう。

自らバレエを踊ったルイ14世など貴族自身が踊る時代が過ぎて17世紀になると、プロのダンサーの活躍が活発になってくる。
19世紀にバレエはロマン主義と出会い、物語性が深く根を下ろしていった。トゥで立つ技術とロマン主義との融合がバレエに革新をもたらし、マリー・タリオーニの『ラ・シルフィード』に結実したことは言を俟たない。

しかしこれに先立つ18世紀には、ダンサーであり振付家のジャン=ジョルジュ・ノヴェールが、公演の前にあらすじを書いて観客に配っておくべきと主張していた。これはダンスにおける物語の重要性と、伝えることの困難さの両方を物語っている。
「物語を描け」「踊りだけで語れ」という論争は、ずっとバレエについてまわっていたのである。

また抽象的ダンスの表現についても、バランシンに先立つ1920年代、戦前のドイツでは芸術学校ながら一大芸術運動を展開したバウハウスのオスカー・シュレンマー「アブストラクター・タンツ(アブストラクト・ダンス)」を提唱している。
ご存じの通り彼は様々な幾何学模様のコスチュームをダンサーに被せて、反復や回転といった様々な運動体の挙動をダンス化した「トリアディック・バレエ」で有名だ。これなどはまさに「抽象のダンス」というにふさわしいかもしれない。

コンテンポラリー・ダンスに物語と抽象は存在するか

●抽象よりも「コンセプチュアル」!?

ではコンテンポラリー・ダンスでの物語と抽象の問題をみてみよう。

物語性のある(ナラティブ)な作品はもちろん様々ある。
一方マース・カニングハのように、練り上げたコンセプトを具現化するための作品もある。しかしこれにしても「コンセプチュアルな作品」とはいわれても、あまり「抽象的な作品」とはいわない。

ジャズダンスやストリートダンスも動きとフォーメーションが中心だが、やはり「抽象的な作品」とはいわない。これらはむしろだんだん体操的な感覚に近寄っていくからかもしれない。

●わかりやすさをセリフで計ってみる

ではコンテンポラリー・ダンス作品が物語を盛り込む方法を見てみよう。
「ダンスには物語があるはず」という一般の人の思い込みに従い、ここでは作品における物語が占める割合を「わかりやすさ」のゲージとして使ってみる。

もっとも連載第2回「言葉とダンス」で述べたように、コンテンポラリー・ダンスにおける言葉の使い方は多様である。言葉を純粋に音として使うなど、物語を語るために使うわけではない手法も多い。
そこでここでは「ストーリーを推し進めるセリフの扱い」として見ていこう。

[ダンス中の物語とセリフの扱い]

  • その1:物語のセリフOK
  • その2:物語のセリフとダンスを分離並行
  • その3-1:物語のセリフを使わない(筋を周知)
  • その3-2:物語のセリフを使わない(マイム的ダンス)
  • その3-3:物語のセリフを使わない(エッセンスを描く)

物語と言葉の割合 その1:物語のセリフOK

●それは演劇ではないのか

物語の中の要所要所に状況を説明したり進行のためのセリフ、あるいは部分的に芝居が入るもの。曲に合わせればミュージカル風、演劇側からダンスへのアプローチでこういうスタイルになることもある。

このスタイルが難しいのは、「『ダンスシーンが多めの演劇』とどう違うのか問題」があるからだ。セリフ部分が下手ならばやらない方がいいし、上手ならば「芝居をやればいいのに(そのほうがわかりやすいのに)」と思われてしまう。

これはもうバランスとセンスなのだが、チャイロイプリン主宰のスズキ拓朗は独自の感覚でセリフや歌を使った作品を切り開いてきた。坂口安吾の作品をダンス化した『桜の森の満開の下』なども、原作が本来持つ残酷さをしっかりと描きつつ、全体にポップなテイストで重くなりすぎないまま見せきっていく。

「演劇側からダンスへのアプローチ」としては、山本卓卓が脚本・振付・演出、北尾亘が振付・ソロ出演した『となり街の知らない踊り子』がよくできていた。
劇団「範宙遊泳」主宰の山本と、ダンスカンパニーBaobabを主宰する北尾とのコラボレーション。北尾はミュージカル出身なので、セリフもかなりいけるのだが、90分間、話しっぱなしの動きっぱなしの作品である。

人が死んでも気にしないような街で腹を刺されて死んだダンサーの話だが、次々と役柄が変わっていき(無機物にもなるし)、それをモノローグと身振りで演じ分けていくのだ。
おまけにセリフと動きの一体感がハンパなく、相当に時間をかけて作り込んでいったことがわかる。2019年のNY公演ではベッシー賞にノミネートされた。

物語と言葉の割合 その2:物語のセリフとダンスを分離並行

●それぞれを、それぞれに

ダンス部分とセリフ部分を、もっと明確に分離することもある。芝居は芝居で、ダンスはダンスでガッツリ固めて行うスタイルだ。
これは「ダンスと芝居の往還を違和感なくできるかどうか」が分かれ目になる。連載第2回「言葉とダンス」で紹介した、山田うん『ディクテ』や、「ダンス劇」を標榜している熊谷拓明などがこのスタイルである。

物語と言葉の割合 その3-1:物語のセリフを使わない(筋を周知)

●みんな大好き『ロミオとジュリエット』

さて今回のメインはここからだ。
物語のある作品を全編ダンスのみで綴る場合について考えてみよう。

わかりやすいのは「みんなが知っているストーリーをダンス化する」ことだ。
観客は前もって完全に物語を理解した上で鑑賞するので、「説明」にかける部分を最小限にしてダンスの表現に集中できる。

ロミオとジュリエット』などはその最たるもので、バレエにもコンテンポラリー・ダンスにも数々の名作がある。

古典の神髄は人間の普遍的なテーマなので、それがそれぞれの時代の社会においてどう作用するかは繰り返し問い直されてきたし、またそれだけの強さを持っているのが古典の古典たる所以でもある。

ただ「名作だが、ストーリー全部が知られているわけでもないもの」もあるので、有名作品といえども油断はできない。
なんといっても『ジゼル』や『白鳥の湖』に関してすら、バレエを見慣れていない「ダンスファン」の中にはぼやっとしたイメージしか持っていない人が結構いるからだ。

●『オネーギン』『リリオム─回転木馬』

オネーギン』は、数々のドラマティック(演劇的・バレエを生んだジョン・クランコの代表作で、今でもよく上演される。原作はプーシキンの小説『エヴゲーニイ・オネーギン』。

子供っぽい恋心を寄せる娘タチヤーナをオネーギンが冷たくあしらうせいか、たまに日本のダンサーの中にはオネーギンを気難しい冷徹な性格として演じる人がいる。

しかしそれでは、2幕のパーティでオネーギンが友人のレンスキーをからかって恋人のオルガとイチャついて踊るシーンの整合性がとれない(その結果、決闘でレンスキーを殺すことになってしまう傲慢さと短慮さも)。
オネーギンは、快活で傲岸、気鬱で茶目っ気、賢くて愚か、という極めて複雑な人物造形が必要とされるので、ぜひ原作も読んでほしい。

ジョン・ノイマイヤーは、ジョン・クランコのドラマティック(演劇的)・バレエの継承者であり、多くの名作を残してきた。
とくに『リリオム─回転木馬』では主人公のリリオムが、「屈折した愛情のゆえの暴力を振るう」という、今日では描きにくい性格だ。

しかしダンスの力を熟知したノイマイヤーは、暴力的なシーンもほどよく様式化して毒抜きし、観客を嫌悪感なく物語に誘った。とくにハンブルク・バレエの公演でリリオムの妻ジュリーを演じたアリーナ・コジョカルのダンスと演技の素晴らしさは特筆に値する。

物語と言葉の割合 その3-2:物語のセリフを使わない(マイム的ダンス)

●あらゆる小説をダンスに 小野寺修二

物語的なダンス、といえば、突出して活躍しているのがカンパニー・デラシネラの小野寺修二である。現在放映中のNHK大河ドラマ『晴天を衝け』の振付(特にオープニングの徳川家康とのからみ)では毎回重要な役割を果たしている。

小野寺はもともとマイム的ダンスのカンパニー『水と油』で活躍していた。
演劇作品との協働も多いが、自主公演も精力的に行っており、ともに高いクオリティを保ち続けている。

映画や小説をモチーフにした作品は、ザッと挙げても(振付含む)『異邦人』『変身』『点と線』『耳なし芳一』『かもめ』『カラマーゾフの兄弟』『NORA(人形の家)』『サイコ』『ふしぎの国のアリス』と数多い。他にもタイトルにはしていないが、『太陽がいっぱい』『脂肪の塊』などがモチーフになった作品がある。

加えて舞台の定番『ロミオとジュリエット』『オイディプス』『カルメン』『椿姫』『ペール・ギュント』『中国の不思議な役人』、さらには『赤い靴』『人魚姫』『竹取』『はだかの王様』がある。

長大なロシア小説から不条理小説、はては怪談に推理小説と、ちょっとどうかしている質と量だ

作品ごとに様々なスタイルを試みており、言葉を使うこともあるが、基本ダンスのみで作品を創る。
ただマイム的ダンスといっても、決して説明過多ではない。
動きは精密に計算されていて、役が次々に入れ替わっても速やかであり、椅子や帽子や小道具のやりとりなど、独自のテンポと展開は、見ているだけで快感がある。

そしてなにより、動きと動きの間に生まれる「空白」の使い方が、うまいのだ

一瞬、視線が合う。振り向いたときに、いるはずの人がいない。身の回りで何かが起こっているのだが、自分だけが理解できない等々。
説明くさくならず、登場人物同士の関係性、心理的な揺れを一瞬で伝えるのが小野寺の手腕だ。
物語をうまく語るには、「語らない部分の引き算」のほうが実は重要なのである。

●マシュー・ボーン『プレイ・ウィズアウト・ワーズ』二重の意味

物語的なバレエといえばイギリスのマシュー・ボーンも旺盛な活躍をしているが、いまではけっこう「ミュージカルの人」という認識になってきている。

しかし『白鳥の湖』の白鳥達が猛禽のイケメンになる代表作や、カルメンを自動車修理工場の男達に置き換えた『カー・マン』、『ラ・シルフィード』がヤク中の若者になる『ハイランド・フリング』など、若い頃はバレエの名作にパンキッシュな演出で挑みかかる作品を連発していた。

印象に残っているのが『プレイ・ウィズアウト・ワーズ PLAY WITHOUT WORDS』である。ロビン・モームの小説『召使』(のちにジョゼフ・ロージー監督で映画化)のダンス化作品だ。

タイトルはもちろん「言葉のない(ダンス)公演」という意味で、サミュエル・ベケットの戯曲『Act Without Words』が響いているのだろう。しかし「アクト」を「プレイ」に変えたことで、「言葉を必要としないお楽しみ」という、ちょっとオトナな意味合いも出てきており、実際そういう内容の舞台である。魅力的な若い女召使いが裕福な家庭の男を誘惑し、破滅させていくのだ。

特徴的なのは「三人一役」で描かれること。主人公も召使いも三人いるので、一人の心象を様々な角度から描くことができ、さらにダンス的な描き方も豊かになる。舞台上にある家の螺旋階段が回転し続け、深みにはまっていく主人公を描くのに効果的に使われていた。
ダンスのシーンは美しく、全体の話はスリリングに展開し、愛と欲に揺れ動く登場人物の心理が深く描かれて伝わってくる。ボーンの才能にあらためて刮目させられた作品である。

物語と言葉の割合 その3-3:物語のセリフを使わない(エッセンスを描く)

●三東瑠璃『ヘッダ・ガーブレル』の内面凝視

物語を語るのだが、ストーリー全体を追うのではなく、最も描きたい部分を抜き出したり拡大してダンス的に描いていく手法もよく使われる。

最近では三東瑠璃『ヘッダ・ガーブレル』がそのタイプで秀逸だった。
原作はイプセン演劇の代表作だが、物語を追いつつも、ヘッダの内面の葛藤を視覚化することに焦点を当てていた。
主要な3人の男は映像で登場し、ヘッダを演じる三東は黒いドレス、5人の「コロスダンサー」たちはその名の通り灰色のボディタイツと後ろに縛った髪型で、ひとかたまりの存在として舞台上にいる。つまりほとんど三東のソロの舞台なのである。

舞台は奥に向かってかなりの急角度で傾斜しており、作品中のヘッダがひとつまちがえば転げ落ちそうな状況に置かれることとリンクしている。

原作でヘッダは男達への企てが露見してひとり拳銃自殺をするのだが、ここではそういう直接的なシーンはない。
そのかわり舞台前面から白い布をスカートに引っかけ、斜面を登っていくように下がると富士山のように白い布が広がっていく。
人生の幕引きのようでもあり、自分の愛情の潔白さを訴えるような最後だった。

まとめ:すべてのものに物語はある

●美しさとは、動く姿のことではない

以上、ダンスにおける物語のパターンを見てきたが、では「抽象的なダンス」はどうかと考えると、バランシンの項で述べたとおり、そもそも「純粋に抽象的なダンス」はなく、プロット(筋、ストーリー)のあるなしでしかない。

「抽象バレエ」というとまるで「抽象的な何かを踊るためのバレエ」なるものが存在するかのようだが、人間の身体そのものが自然の一部の生命体で、抽象などということがありうるのだろうか、という疑問がわいてくる。バランシンが違和感を感じたのも無理はない。

なぜなら人間は、動きだけ、フォーメーションだけのダンスでも、美しさを感じたり感情を動かされたりするからだ。
つまり舞台上から演者が提示するものだけではなく、観客の内部に、勝手に湧き上がってくる「物語」もある

なぜかといえば、美しさとは動く姿のことではなく、そこに息づく生命のありようのことだからである。
日常においてすら、赤ん坊が思いきり手を伸ばす姿や、公園で静かに腰掛ける老人の佇まいにでも感情が動いたりする。
つまりどんなダンスでも濃淡の差こそあれ「物語」は見ている者のなかに生まれてしまうものなのである。

●その言葉は本心じゃない

……とここで締めくくれば、なんとなく煙に巻いたラストになるのだが、やはり最初の疑問に戻らなくてはならないだろう。
コンテンポラリー・ダンスを見ていて「何をやっているのか、よくわからない」というリアクションについてである。

一見これは、さっき書いたことと矛盾しているようにも見える。
「観客の中に物語が湧き上がってくる」のなら、「何をやっているのかよくわからないからダンスを見るのが苦手」という人などいないはずではないか。

なかには
「今の観客は何でも説明してくれないと駄目な人が増えた」
「観客にわかりやすく阿(おもね)るのは表現の堕落だ」
と息巻く人もいる。

オレは観客の質が低下したとは思わないし、「より多くの人に伝わるような努力」は最低限するのが当然だと思う。
しかしながら、無理にわかりやすくする必要があるとも思わない。

なぜなら、本当のポイントはそこではないからだ。
観客が「何をやっているのか、よくわからない」というとき、おそらく本心はそこにはない。
その観客は、本当はこう言いたかったのだ。

「いろいろ動いていたけど、つまらないダンスだったな」

つまり魅了される瞬間がついに訪れないままに終わった作品に対して、観客がいちばん角の立たない言葉を選んでくれたのが「よくわからない」なのである。
なぜならそのダンスに「よくわからないけどすごい!」と感じさせるだけのパワーがあったら、「なんだかよくわからなかった」とはまず言わないだろうからだ。

気遣われているんだよ。

なのにそんな言葉を真に受けて「わかりやすくするべきかどうか」を悩んでいるたあ、おめでたいことだ。
まずは圧倒的に観客を魅了するだけのパワーが自分のダンスにあるのかどうか、自ら問い直してみるべきだろう。

●閉じるな。流れよ

そのうえで、物語とは何かを、あらためて考えてみよう。

良い「物語」は、単に起こっていることを説明するのではなく、作品全体を推し進める「流れ」の役割を果たしている。
そしてそうした「流れ」は、プロットのない作品にも存在するものだ。

たとえば地上から雲を見上げると自由気ままに流れていくように見えるが、遙か上空から見下ろせば、巨大な気圧による大きな流れの中にあることがわかる。
ダンスにおける物語性とは、それに似ている。個々のダンスは自由に見えるが、全体として大きな流れが全体を貫いているのだ。

ことに若いダンサーは、練習の時に思いついた面白い動きをストックしておいて、あとで組み合わせて作品を創ったりする。しかし流れが通っていない作品には観客は引き込まれず、退屈することになる。

また、面白い動きを創るのが上手く演劇や音楽で幅広く活躍している人が、自分自身の本公演になると途端に全体がバラバラな印象になり、作品全体の満足感がいまひとつ、ということがある。

これはなまじ個々の動きの魅力が強ければ強いほど各シーンで完結してしまい、「閉じている感」が強まって全体の流れを断ち切ってしまうからだ。そのためバラバラな印象を与えてしまうという皮肉な逆転現象がおこるのである。

●揺さぶってなんぼのダンス

物語であれプロットレスであれ、大切なのはこの「流れ」だ。

バレエは究極の美の実現のために削ぎ落とし磨き上げた、完璧というしかない高みへの絶え間ない挑戦だ。しかしその中身は今生きている我々と同じ、人生の不完全さと複雑さ、雑念の多さ、切り捨てられたものへの愛情など、諸々を包括している。

コンテンポラリー・ダンスでも、そこは変わらない。投げ捨てたくなるほどの矛盾を抱え、それでも踊らないではいられない根源的な衝動を、現代社会に解き放ち、硬直した場を揺さぶっていく震源であることだ。
「わかる、わからない」は頭で考えること。そんな相手の身体を丸ごと揺り動かしてこそダンスというものだろう。

□ ■ □

さて次回のテーマは「ダンスにおける『美しさ』問題」
美を表現する芸術、しかも身体芸術とルッキズムは背中合わせだが、のほほんとしてきたわけじゃないってところを、ひとつ!

★第13回は2021年5月10日(月)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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