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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第10回〉ダンスで扱う「物」たち〜 舞台の上に無駄なものは何ひとつない〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスで扱う「物」たち〜舞台の上に無駄なものは何ひとつない〜

今回はダンスで使う、様々なたちについて語っていきたい。先月の告知では「小道具」としていたが、扱う範囲がとてつもなく広がってしまったので、大道具小道具含めて述べていこう。

今日のダンスではありとあらゆる物を使う。単なる新奇さから使う物、説明として必要な物、中には新しい動きを生み出す物や、作品のテーマを左右する物もある。

扱い方も、

  • 手に持ち操作しながら踊る物
  • 踊りの相手として使う物
  • 目に見えない物

など様々だ。
それではダンスにおける物の使い方と意義について見ていこう。

バレエにおける重要な小道具

●『ドン・キホーテ』キトリの扇子

バレエでは出演者やシーンを代表する印象的な小物が効果的に使われている。
編集部に軽い気持ちで聞いたところ、たちどころに「『眠れる森の美女』なら薔薇を王子たちから受け取りながら踊る〈ローズ・アダージオ〉があり、『ジゼル』ならばヒナギクの花で恋を占い、第2幕ではウィリとなった自分の存在を白い花で知らせます。『ラ・フィーユ・マル・ガルデ』では恋人たちがピンクのリボンで〈あやとりの踊り〉を踊り、『コッペリア』では〈麦の穂の踊り〉を踊ります。『ラ・バヤデール』のニキヤには〈花かごの踊り〉があり、『シンデレラ』には〈ほうきの踊り〉があり、『ライモンダ』や『ラ・シルフィード』には〈ヴェールの踊り〉があり……」と、怒濤の答えが返ってきた。
いやもうホントすんませんでした。
様々な象徴を小道具に託して効果的に使うのは、たしかにバレエの醍醐味のひとつといえるだろう。

なかでも『ドン・キホーテ』 のキトリが扇子を手に持って踊るのは印象的だ。
開閉の時の「シャラン!」という音は、遠く離れた客席にいても鮮やかに脳内へ響きわたる。

扇子を持って踊るダンスは日本舞踊やスペイン舞踊など珍しくはないが、キトリのダンスは独特の効果を生み出している。

というのも、バレエは基本的に身体、腕、脚のラインを見せることに主軸が置かれているので、踊りながら手のひらを使う表現は極めて限定的だからだ。

バレエで手指を使うのはほとんどマイムの表現のときであり、日本舞踊のように踊りの最中に表情を生み出すことはほぼない。

バレエの手指は、肩から腕に伸びてきた美しいラインを完成させ、さらに無限の彼方へと連結させるためにある。ちょこまかと動いては、せっかくのラインが崩れてしまうだろう。

筆者の場合「手のひらを全開にして踊るダンス」で真っ先に浮かんでくるのがモーリス・ベジャールである。逆にいえばそれ以前の振付で、手のひらを正面に見せるダンスが思い浮かばない。

これは私見であり詳細な検証が必要だが、クラシック・バレエの振付で、「観客に手のひらを見せる表現」は、(『コッペリア』など人形振りを別にすれば)ほとんどないのではないか。
それは近代以前の西洋美術(ギリシャ・ローマの彫刻でも)でも、手のひらが巧妙に隠されていることと関係しているかもしれない。

西洋では信頼を示すために握手をする。つまり手のひらとは本来、信頼を置ける相手以外には見せるべきでない大切なものだった。それがやがて「秘すべき身体の部分を大っぴらに見せるのははしたない」という感覚に育っていったのかもしれない。

で、長くなったが、キトリの扇子である。
バッと音を立てて広がる色鮮やかな扇子は、「本来は開かれることのないはずの手のひらを拡張するもの」として、極めて独特である。

「腕から伸びた先の扇の丸み」は、じつは日本の美意識にも多く見られる。
女性の和服で、背中の直線から帯への丸み、うなじの直線から日本髪の丸み。あるいは枝の先にある松の葉の丸みなどなど。
つまり腕からの直線を扇の丸みが受け止め、本来は先細りする手指を、華やかに開いていくのである。

さらには隠されるべきものを自らの意思で開いていくキトリの意志の強さ、自信満々で自らの魅力をアピールする能動的な女性の姿は、じつに魅力的だ。
むろん扇子は『ドン・キホーテ』の舞台であるスペイン舞踊でポピュラーに使われるものだが、バレエの文脈の中では、重要な役割を果たしているといえるだろう。

●スカーフとガラスの靴

他にも重要な役割を果たす小道具はある。
愛憎うずまくバレエでは、ナイフに剣に毒蛇・毒薬……と、殺傷武器も豊富である。
なかでもボリショイ・バレエの『スパルタクス』は剣奴とローマ軍の戦闘シーンで男性ダンサーの魅力が爆発する。

『ラ・バヤデール』の「影の王国」ではソロルが阿片の夢の中でニキヤのシフォンのヴェールの端をにぎり、長さを調節しながら踊りを支える。儚げなシフォンの質感が、二人の再会がかりそめに過ぎず、間もなく潰えてしまう未来を象徴するようだ。

ボリショイ・バレエ「ラ・バヤデール」ザハーロワ&ラントラートフ(新書館)

ちょっと面白いのは『シンデレラ』のガラスの靴だ。
プロコフィエフの名曲と共にアシュトン、ヌレエフ、ノイマイヤーなど数々の振付家が名作を生み出してきた。

だがバレエにおけるガラスの靴の表現は、ちょっと面倒である。
トウシューズは簡単に着脱できないし、かといって上にガラスの靴を履くわけにもいかない。銀色のトウシューズとは別にガラスの靴を用意したり、いろいろな表現が生み出された。

その点、モンテカルロ・バレエのジャン=クリストフ・マイヨーは、ユニークな方法を生み出していた。
銀色のスパンコールがたっぷり入った容器の中にダンサーの素足を入れて付着させ、銀色のガラスの靴を連想させたのである。

うまい手だが、ガラスの靴そのものが存在しないため、後の「シンデレラ探し」をするわけにはいかなくなってしまう。
どうしたか。王子は「シンデレラの足そのもの」を覚えており、素足を見てシンデレラだと見抜くのである。
王子は外側ではなく本人そのものを見る慧眼なのか、とんでもない足フェチなのか、どちらかなのだろう。

ダンスにおける「物」を4つに分けてみる

さてコンテンポラリー・ダンスにおける「物」について、以下のように分けてみていこう。

ダンスで扱う「物」
  • その1:手に持って踊る
  • その2:対象と共に踊る
  • その3:落ち物
  • その4:目に見えないもの

その1:手に持って踊る

●手で直接操作する

小道具と聞いて頭に浮かぶのはこれだろう。だが印象的な小物は意外に少ない。
いかに突飛なものを使っても、作品の本質に深く関わるものでなければ、記憶には残らないからである。

まず手などで操作してダンスに活かす「操作系」を見てみよう。

先に述べた扇や剣舞などは世界中にあるし、タップダンスやフラメンコなど、音を出すダンスでは、手に持ったステッキなど棒状のものやカスタネット、鈴などの小さな楽器を演奏しながら踊るものも多い。インドの伝統舞踊のカタックなど鈴を足に巻いて使うダンスもある。

カンパニー・デラシネラの小野寺修二はマイムとダンスと演劇を融合させた独特なスタイルが持ち味である。ダンスの中で小道具を扱わせたら随一の腕前だ。
机や椅子コップから帽子、テーブルや椅子が出演者の手によって縦横無尽に移動し、配置を変えていく。
流れるような美しさは独特のルールを持っており、たいていの場合、そのルールを一人だけ理解していない。そのため何が起こっているのか理解できずに戸惑うことになる。

この「ルールがあり、その外に置かれる疎外感」によって、安定していた世界が急によそよそしく感じられてくるのだ。
さらに周囲の人々の動きが、思わず見入ってしまうほどオリジナリティと精巧な美しさをもっている。それがさらに世界への不安と疑念を深めていく。

このような小道具によって世界の認識を変容させていく手腕は、なかなか真似できるものではないのだ。

●動きに直接作用する

小道具が、動きそのものに影響を与える作品もある。

かつてラ・ラ・ラ・ヒューマン・ステップスのメインダンサーとして世界中を魅了した金髪の美しき獣ルイーズ・ルカヴァリエのソロ『《I》 Is Memory』(ブノワ・ラシャンブル振付)は、胸に迫る作品だ。

座っているルカヴァリエが履いている靴はちゃんと履けておらず、おかしな方を向いている。立って歩こうとするがうまくいかず、靴のせいで足首から折れているかのように見える。
が、それでも立とうとすることを止めず、何度も挑むその姿がダンスになっていく。

かつて強靱なダンスで世界を魅了しながら、怪我が蓄積して退団。しばらく遠ざかっていたが、ダンスへの炎は消えず、再び踊りを始めたルカヴァリエの人生と重なるのである。

●身体を拡張する・変容させる

カナダの怪人マリー・シュイナールはもともと様々な小道具を使う&全裸の作品が多いが、『bODY_rEMIX / gOLDBERG_vARIATIONS』は松葉杖・鉄棒・ロープなどなど、ひときわ多くの小道具を使う作品である。

松葉杖といっても上腕に装着する金属製のタイプで、四つ足で歩いたりする。あと額にも着けて角みたいにしたりする。過去にも頭からビローンと大きな触覚を生やかした作品があるが、こういう身体のメタモルフォーゼはシュイナールの大きな特徴である。

これらを駆使して通常ではできない身体の動きを生み出す。
思いつきでちょっとやる人は多いが、ここまでがっつりとやる人は少ない。

ただ日本では「身体が不自由な人が使うものをそんな風に使うなんて不謹慎だ」とクレームが来ることがあり、招聘しにくいという意見を公立劇場の関係者から聞いたことがある。
そんな馬鹿な、と思うか、マイノリティへの配慮は必要と思うか、これは社会全体で考える問題だ。

●障碍者が使うダンスとは

もちろん障碍者自身が様々な介護ツールを使ってダンスに挑むケースも増えてきている。
しかも単に「頑張っている」レベルではなく、「その身体でしかできない表現」を実現しているのである。

かんばらけんたは先天性二分脊椎症の車椅子ダンサー。車椅子で踊る人は他にもいるが、かんばらはなんと踊りながら車椅子を分解し、外した車輪を重ね、その上に自ら乗って回転するという「車椅子との新しい関係性」を見せた。

また交通事故で左足の膝から下を失った大前光市は、紅白歌合戦で平井堅の『ノンフィクション』をともに踊って一躍「義足のダンサー」として認知が広がった。
義足は着けるが「健常者のように」踊るのではなく、むしろ長さの違う足で踊る独自のダンススタイルを開発・確立している。
さらには切断面を保護するためのカバーの表面を加工して、床でこすれると火花が出るようにするなど、小道具の開発にも余念がない。
この二人はともにパラリンピック・リオデジャネイロ大会の閉会式で踊っている。

★再生すると大前光市・かんばらけんたのダンスシーンに飛びます(大前光市 02:04:30~/かんばらけんた 02:07:39~)↓

視覚障碍者は杖の先で細かい道路の状態までわかるという。スポーツなどでもそうだが、熟練すると道具は身体と一体化し、知覚がその道具の隅々まで延長されていくのである。同様のことは、もちろん身体的な不全や欠損を抱えた人にも起こるだろう。

もちろん身体だけでダンスを追求する障碍者もいる。
健常者同様、障碍者も様々なスタイルでダンスという芸術を豊かにしていけば、それでいいのだ。

●コンセプトに関わる小道具 

さて動きよりもコンセプトに深く関与する小道具もある。

NYで見たサラ・ジュリ『マネー・カンバセーション』である。
観客は小さなスタジオのなかでジュリを取り囲むように座る。ジュリは観客に話しかけながら、現金を次々に渡していくのだ。おもちゃの紙幣かと思うと、本物である。それも結構な額で、チケット代よりも高額の紙幣を渡したりする。

なぜそんなことをするのか。秘密は、タイトルの「カンバセーション(対話)」にある。
じつはさかんに観客に話しかけるものの、ジュリは吃音でうまく話すことができない。
しかし金を出し、それを受け取った相手に対しては流暢に話し始めるのである。

金銭がからむことでしかコミュニケーションを取れない現代社会の縮図とも、金が関係の優位性を決定づけてしまい、優越感を感じる相手としかコミュニケーションを取れない等、様々なメタファーとなっている。
現実社会における金の機能を舞台に持ち込んで成功した例だ。

ちなみに紙幣は衣裳のあちこちに仕込んである。
オレが見ていたとき、たまたまマザコン風の男性が母親と共に来ていたのだが、ジュリは自分の下着の中からホカホカの紙幣を取り出し、男に対して「欲しい?」とひらひらさせていた。「マザコンの男を挟んで、母親と若い女性(金を持ってる)」という構図が会場の空気をピリつかせていて最高だった。

とはいえこんな公演を重ねていたら相当な出費で赤字のはずだが、ジュリは親戚が亡くなって入ってきた遺産をつぎ込んでいたという。なかなかに男前である。

その2:対象と共に踊る

小道具は手に持つだけではない。
ときにデュエットの相手になることもある。

伝説的なのはフレッド・アステアがミュージカル映画『恋愛準決勝戦』で、背の高い帽子掛けと踊るシーンだろう。傾けたり回転させたり、生きているかのように美しいデュエットを踊る。不安定な回転で床を移動させた帽子掛けをエレガントにエスコートする様は、ただただ見惚れるほかはない。

「無機物とのデュエット」という意味で言えば、シルヴィ・ギエムにモーリス・ベジャールが振付けた『ラシーヌ・キュービック』もある。
ギエムが身長よりちょっと低いぐらいの立方体の枠だけのオブジェと踊るのである。
このオブジェ、中に入れば部屋のようでもあり、傾けて頂点の一つを床につけて支えれば容易に回転する。初演時はエネルギーに満ちあふれたギエムのソリッドな(ときにサイボーグのような)身体が、この空間を鋭角に切り取り構成する無機質なオブジェと想像以上の相性を見せた。

その3:落ち物

●砂・水・花……

手には持てないが舞台美術ともちょっと違う道具に「落ち物」がある。
砂・水・花びらなどを、舞台全体に、もしくは局所的に降らせるものだ。
桜の花びらは日本の舞台芸術には山ほどある演出なので、使うにはよほどのセンスが必要である。

北九州芸術劇場で北九州出身の詩人とダンサー達を合わせたトリプルビル『詩、踊る』というイベントがあり、「高橋睦郎×田村一行」「平出隆×鈴木ユキオ」「宗左近×浅井信好」が取り組んだ。それぞれにダンスと言葉との取り組みがあって面白かったのだが、なかでも田村は『深きより』という高橋の詩を選んだ。稗田阿礼から始まる日本文学史上の魂を呼び起こす作品だが、最後に田村が降らせたのが葉っぱだった。「言の葉」「葉書」など、言葉を託す象徴として使ったのだ。

砂や水は小さい規模なら珍しくないが、舞台全体に大量に落とすとなると、装置および後始末が大変になる。とくに砂は意外に粒子が細かく舞って劇場の機材や客席にまで達してしまうのだ。
これまで見た中で、屈指の量の砂を降らせたのはH・アール・カオスの『砂漠の内臓』と、キブツ・コンテンポラリー・ダンス・カンパニーの『Bein Kodesh Le’Hol (聖と俗の間) 』である。

『砂漠〜』のほうは劇場側を説得するために毎日公演が終わるたびに通路から座席から自前で用意した掃除機をかけまくったとか。『Bein〜』のラストではずっと落ち続ける砂の中でのソロが続くので、「これぜったい吸い込んでるだろ」とダンサーの健康が心配になったほどだった。

Noismは日本唯一の公共劇場のレジデンス・カンパニーだが、新潟市の助成継続をめぐり、カンパニー自体の存続問題で揺れていた。そのさなかの2019年に上演された『Fratres Ⅰ』は、ダンサーたちが、細かい落下物(豆か米)を身に受けながら踊り続けていた。
世間の視線、カンパニーの責任、ダンスへの愛情……様々な思いを一身に受けて力強く踊り続けるダンサーたちの姿は、カンパニーを取り巻く状況と重なり、それでも踊り続けていくのだという決意の表明に見えた。
結果として無事に事態を乗り越え、カンパニー名をNoism Company Niigataと変更し、3ヵ年の支援を勝ち取ったのである。

●衝撃の落下物

物は落ちれば音がする。意表を突かれれば驚く。
たまに、ただ驚かすためだけに大きな音をたてて物を落としたり、逆に大量のボール(カラーボールやピンポン球やゴムボールやパチンコ玉など)を落として床を埋め尽くすといった演出もあるが、これもただの虚仮威(こけおど)しだとイラつくだけなので、よくよく考えてやったほうがいい。

だが現代美術のアーティストながら数々の舞台作品を発表しているヤン・ファーブル『時間のもうひとつの側』は衝撃的だった。
ウィリアム・フォーサイスが芸術監督をしていた時代のフランクフルト・バレエのダンサーたちを起用した作品。同じフレーズを執拗に繰り返させることで、当時最強と言われたダンサー達の動きが綻びはじめる。そして最後、大量の白い皿が轟音と共に落ちてきて粉々に砕けるのである。

むろん驚いたが、この盛大な崩落によって、美しいダンサーの苦行のような運動が終わり、どこかホッとする、不思議な感覚を味わった。
そして砕けた皿の破片の上を、トウシューズを履いたダンサーがわたっていく。

上空にある皿には位置エネルギーが内在している。引力によって落ちることで運動エネルギーに変換され、床と衝突した瞬間に衝撃となって皿を破壊する。
つまり皿が割れる衝撃は、エネルギーが可視化された瞬間なのである。

同じように、人の身体にも過去と未来のエネルギーが内在している
ダンスは、その身体に内在され折りたたまれた時間のエネルギーが放出され、その瞬間に可視化していく芸術といえるかもしれない。皿が割れる瞬間をどこまでも拡大していくような、あるいは果てしなく割り続けていくような、「永遠の一瞬」なのである。

●串刺しにされるかも

さてヤン・ファーブルと同じベルギーのアントワープを拠点にしているヴィム・ヴァンデケイビュスにも、衝撃的な落下物がある。
『7〜決して語られない秘密』というタイトルはアイルランドの童謡で、カササギが「1羽で嘆き、2羽で喜ぶ……」と増えていき、最後は「7羽は秘密 決して言ってはならない(7 for secret  Never to be told)」と謎めいた雰囲気で終わる数え歌である。

この数え歌が流れる間、ダンサーたちは舞台上で踊っているわけだが、そこへ上空から1.5メートルほどもあるカササギの羽を模したオブジェが降ってきて、結構な重量感でドン! と舞台の床に何本もブッ刺さるのである。

もちろん安全には配慮されているわけだが、当たったら刺さるよね、という串刺し必至の殺傷力は明らかだ。
童謡に恐ろしい意味が隠されているのは世界各地に共通している。
殺しに来る羽根の下で踊るダンサーを思うと、こちらの心臓も縮み上がる……ことも含めて、丸ごと作品の中に取り込まれてしまうのだった。

脅かすのなら、それ以上の作品世界を構築してからにしろよ、という教訓である。

その4:目に見えないもの

●音もなく忍び寄り心を掴む物

道具は、目に見える物ばかりとは限らない。視覚では捉えられない物がある。
たとえば匂いだ。

関かおりは特別に調合した香水を客席に噴霧する作品をかなり前から発表している。
「香りのデザイン研究所」の吉武利文とのコラボレーションだ。

それも「世界を表す匂い」「体内の匂い」「死を連想させる匂い」等、まず歌謡曲には使われることのなさそうな香水を、作品のために特別に調香する。

関の舞台では、音にしても微かな水音や吐息など可聴領域ギリギリのもので、繊細な動きが積み重ねられていく。観客は、自分の五感を総動員して作品に対峙している。そこへ微かな、そして嗅いだことのない香りが漂ってくるのだ。他ではなかなか味わえない体験である。

ネットのダンス動画全盛の現代でも、匂いだけは無理だ。
「劇場まで足を運び、空気を共有しなければ受け取れない物」へのこだわりも、関のアーティストの矜持なのである。

●作品のコンセプトを体現する小道具

ロメオ・カステルッチは広く舞台芸術に衝撃を与えてきた巨人である。
オペラ『タンホイザー』では真っ白い舞台上に、次から次に様々な物が持ち込まれる。ただ持ってきて、去って行く。淡々としている。
最後は亡くなったタンホイザーの死体が徐々に朽ちて骨になっていく過程のオブジェを順繰りに持ち込んでは去って行く、という「小野小町九相図」さながらの演出もあった。

カステルッチの初期代表作『Hey Girl!』は初来日作品だが、すでに並々ならぬ才能を強烈に印象づけた。

闇の中から長テーブルが浮かび上がり、その上にある「正体不明のゲル状の何か」が、デロデロと落ち続けている…… と、やおら全裸の女性が立ち上がるのだが、その表情は暗く、まるでレイプ後を思わせる。
さらに女性は剣を持ち出して床上にある小さな台の上に置く。
そしてシャネルの香水を手にする。
剣は暴力や男性性、香水は女性性の象徴だろう、くらいのことは皆思う。
しかしカステルッチの演出は、その先を行っていた。

女性がシャネルをドボドボと剣に注ぎかけるのだ。
しかも台に置かれていた剣はいつの間にか加熱されていて、注がれた香水は一瞬で蒸発し、強い香りが観客を襲うのである。

嗅覚とは、いきなり入ってきて防ぎにくく、かなり暴力的な存在である。
本作ではその暴力性すらもテーマのなかに取り込んだ上で使っているのだ。

現代社会で暴力は重要なテーマだが、舞台上で単純な暴力を再現して悦に入っている馬鹿は、「安全な加害者」になれる立場に酔っているに過ぎない。自ら暴力の誘惑に呑み込まれ、アートの威を借りて正当化しているだけだ。暴力は深く人間の本性に根ざしている。暴力を描くときに必要なのは、暴力の本質を見据え、自らの表現に変換して提示する「繊細な豪腕」なのである。

その「物」を、いつ、どう使うのか

●ガッカリする瞬間

さて「物」は、いつ、どう使うかも重要だ。

たとえば服でも靴でも帽子でもいいが、開始早々、舞台上にずっと置かれているとする。
作品が進んでいき、いよいよダンサーが、たとえば靴を手に取る。
そこで普通に履いて踊り出したら、オレはガックリきてしまうのだ。

常々言っているように、作り手は、観客の思考を先読みする必要がある
作品の意図や作者の狙いをくみ取ろうといろいろ考えながら見ている観客の、さらにその先を読んで鮮やかに意表を突いて見せ、観客をグイグイと引っ張っていく必要がある。

なのに。

履くだろうなと観客が思っている靴をそのまま履いたら「まんまじゃねえか!」と思われる……という意識自体がないということは、コイツは観客の心理に無頓着な、ただやりたいことをやれればいいシロウトさんなんだなと思われてもしょうがない。

黒田育世の『花は流れて時は固まる』は、その点、さすがの作品だった。
再演ごとにバージョンがあるが、舞台の前面に細い水路が横切っている。
女性ダンサーたちが裸足で踊っている間、舞台前面に赤い女物のヒールのある靴が置かれている。
無尽蔵のエネルギーを放埒なまでにまき散らしたダンスが展開したあと、いよいよ黒田は赤い靴を手に取るのだ。
「ここで履いて踊り出したらガッカリだな……」
と思ってみていたのだが、さすがに黒田はそんなことはしない。

ここで読者も考えてみて欲しい。
裸足で踊っていた女性ダンサーが、赤い靴を手にして、足に履く以外に何をするだろうか?

黒田は大量のツバを靴の中に垂らしたのである。
そして床にバンバンと叩きつけながら踊った。

「赤いヒールの靴」という、世間が認識している「大人の女性の象徴」に対して、よだれを垂らして床に叩きつけ、無心に遊ぶ子供の衝動とエネルギーをダイレクトにぶつけて観客を圧倒したのである。

これ自体は作品全体からすると小さなシーンではある。
だがダンスでも長い作品を創れる人は、無意識にでも観客の先読みを外す流れを創っている

それは、創りながら、絶えず自分の作品を客観的に見る視線が併走しているからだ。
自分が見せたいことを詰め込むだけで精一杯で「先に出しておけば便利」ぐらいにしか頭が回らないうちは、まだまだ先は長いぞ。

だが今できなくても、諦めることはない。
まずは道具を使うタイミングと使い方を常に考え抜くことで、作品を客観視するトレーニングにもなる。あとからでも身につければいいだけのことだ。

物を使うプロ 現代サーカス

●物が動けば、すべてジャグリング

小道具……といえば近年の舞台芸術で熱い注目を集めているのが現代サーカスである。
その躍進には、大きなコンセプトの革新が関係している。

「いかにも」のジャグリングのアイテム……ボールやスティックや、最近ではヨーヨーやけん玉、ディブロなど様々ある。
しかしそんな大仰なものではなく、日常にあるどんな物でも操作すればそれはジャグリングとする「オブジェクト・マニュピレーション」という考え方が浸透するに従って、現代サーカスは表現の枠を広げ、新しい領域を獲得していったのである。

コンテンポラリー・ダンスが「何かが動けば、それはダンス」「なにかを動かせば、それは振付」とすることで表現の範囲を広げたように、「何かに触れれば、それはジャグリング」となってきたのである。

どんどん溶けていく氷のジャグリングとか、小さいテーブルの上でコーヒースプーンに角砂糖を載せてカップに飛ばすとか、プラスティックバッグを風で飛ばすとか、生卵の黄身を身体じゅう這わせるとか、どえらい自由度を得てきており、目が離せない存在になってきている。

●なぜ我々はそこに「ダンス」を見るのか

独特の身体哲学と軟体にジャグリングがミックスした作品で世界中に招かれている渡邉尚などは、「ジャグリングとは物と身体の関わり方すべてを指す。服を着ても歯を磨いてもジャグリングといえる。たとえばダンスは床を使ったジャグリングだ」という。

ジャグリングはダンスの領域と深く溶け合っている。
その代表的な存在がヨアン・ブルジョワだ。階段から落ちては戻ってくる動画で日本でもブレイクし、初来日したSPACの『Scala –夢幻階段』は全公演売り切れになった。
これなどはまさに「床(に設置したトランポリン)を使ったジャグリング=ダンス」といえるだろう。

階段から落ちた身体が戻ってくるのは下にトランポリンが置いてあるからだ。
しかし考えて欲しい。
たとえば体操のトランポリン競技では、もっとすごい技が繰り出されるわけだが、我々はそこに「ダンス」を見るだろうか?
なぜ我々はヨアン・ブルジョワの階段落ち(から戻る)に「ダンス」を感じてしまうのだろうか?

これは「何がダンスか」というコンテンポラリー・ダンスの重要な命題と深く関わっている。

様々なアプローチがあるが、今回のテーマに即して言うのなら、ヨアン・ブルジョワには「身体と、階段と床(トランポリン)との関係性」が見えてくるからである。

トランポリン競技で重要なのは、空中での技だ。身体とトランポリンの関係は、ただの「作用と反作用」に過ぎない。

しかしヨアン・ブルジョワの「階段落ち」に我々が見るのは、「階段から落ちた身体」「床から戻ってくる身体」「何事もなかったかのように階段の元の位置に戻る身体」といった、ひと連なりの関係性が、身体を通して綴られる様である。
我々はその連関の中に「ダンス的」なものを見るのだ。

このことは、よくよく考えてみるべきポイントである。

●徒手空拳を基本としてみる

床も含めた「物」を使うのなら、その身体との関係性を問い直すべきだ。

ただ持って振り回すだけでは、「身体→物」という関係性でしかない。
物によって身体の機能や動きが拡張されたり、身体の質が変わったり、作品のコンセプトが宿ったりというように、物からも「物→身体」「物→空間」へと関係性が流れてくるようになってはじめて物を使う意味があり、作品の中で光り輝いてくるのである。

まずは身体ひとつで踊ることを基本に考えてみるといい。
そこを突き詰めた上で本当に物を使う必要があるのか、身体との関係を作れるものなのか、身体にとってこの物をどう影響させられるのか……と考えると、安易な選択をしなくなる。

●文化的な文脈も考える

もうひとつ、物は文化の中で様々な「意味づけ」がされていることも忘れてはならない。

香港でカナダ人と中国人のカップルが、大量の米をオブジェとして使い、土足で踏んだり上で踊っている作品を見て微妙な気持ちになったことがある。
コンテンポラリー・ダンスで食材を扱う作品は珍しくもないし、日本人の米に対する特殊な心情を理解してもらおうとも思わない(一応終演後にダンサーたちには説明し、日本で公演するときは気をつけた方が良いよ、とアドバイスはしたが)。

しかし経済状態が悪く食糧事情が悪い国で食材を無駄にする作品は受け入れられないだろう。
また銃火器なども、平和な国ではフィクションとして気軽に使えるが、紛争地や政情が不安定な国では配慮が必要だ。
国によっては、大きな音を立てると観客がテロと勘違いしてパニックを起こす可能性があるので控えてくれと言われる場合もある。

ダンスはいまやかつてないほど世界に向けて開かれている。
物を使うなら、その文化的な意味づけを知った上で、かつ作品を根底から支える使い方を考えていきたい。

そこで初めて物は、作品のなかで息づくことができ、身体や作品の可能性を、さらに広げてくれるだろう。
舞台上にある物は、棒ひとつ、布一枚、自らの身体の一部となるまでは、安易に使うものではないのである。

□ ■ □

さて今回で「舞台を構成する様々な要素を分解するシリーズ」は一段落となる。
この連載も折り返し点を過ぎた。
これからはラストスパートである。
より広くダンスや舞台芸術のあり方を考察していこう。
そこで次回は劇場を飛び出して公演する「サイトスペシフィックな作品」について。
乞うご期待!

★第8回は2021年1月10日(日)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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