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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第9回〉ダンスと映像 〜身体を視るための第三の眼球〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスと映像 〜身体を視るための第三の眼球〜

さて約束通り、先月書き切れなかった映像について書いていこう。

映像は現代の舞台において重要な役割を示している。
「舞台におけるダンスと映像の融合」は繰り返し試みられてきた。
が、なかなか簡単にはいかない。
たとえばサイズの問題だ。モニターに映すだけでは映像が小さすぎ、壁一面に投影すると身体が埋もれてしまう。

さらには実写かCGか、過去の映像かリアルタイムの映像か、創った映像か既存の映像か、身体を拡大するのか対立するのか……着眼点はいろいろある。

ここではそれらを見ていこう。

バレエと映像は……

●電気の時代のものだもの

……が、前回の照明同様、映像が使われるようになったのは、電気を普通に使えるほどに機材と電力が安定し、映画というテクノロジーが誕生した1895年以降のことである。

ちなみに戦前の日本でも都市部では、様々なショウなどの実演と映画の上映は、ひとつの劇場で行われていた。朝から晩まで続く大きなプログラムの中に組み込まれていたのだ。
いまでも古い映画館に舞台や緞帳が残っているのは、そうした時代の名残りである。

本当の意味で舞台が映像を使いこなせるようになるには、映画と並んで、ブラウン管時代のテレビを使った「ビデオ・アート」の存在も大きかった。
これによって「高級家電」だったテレビが、「バリバリ使い倒す映像機械」に変容を遂げたのである。
この「ビデオ・アート」で一躍有名になったナム・ジュン・パイクは、アイデアを思いついたとき、しめた! と思ったそうだ。革新性に疑いはない。なぜならダ・ヴィンチもミケランジェロもテレビを使ったアートは創っていないのだから。

さらに1980年代に家庭用ビデオ再生機が爆発的に普及すると、動画の編集が容易になり、アーティストが様々な試みをするようになった。
それ以前の映像メディアは基本フィルム映画しかなかったのだから、これはもう人類に火を与えたに等しい。さらにこの頃から映画でも実写+CGが実用化し始め、火にガソリンが注がれる結果となり今日に至る。

……と、今回ここまでバレエの話はない

もちろん最近ではクラシック・バレエでもプロジェクション・マッピングをはじめとする様々な映像効果を使っているものもある。しかし鮮やかに背景が変わることはあっても、なかなか映像が本質的な使われ方をしていることは少ない
映像表現の強みのひとつは幻想的なイメージなどだが、幻想や夢の世界はバレエにとっても本領発揮の場なので、あまり映像で見せる必要性を感じられないのだ。

そんななかでバレエダンサーが先進的な映像とからんだ作品をいくつか挙げよう。

●マッツ・エック×シルヴィ・ギエム『アジュー(Ajo)』

これはバレエ界の至宝シルヴィ・ギエムが引退を決意したとき、長年付き合いのあるマッツ・エックに依頼した作品である。東日本大震災後、ギエムが敢行した「HOPE JAPAN」ツアーでも上演された。

ギエムは地味なシャツによれよれのカーディガンに毛が跳ねまくった三つ編み……という人生に疲れた姿で登場する。
舞台中央に縦型の白いスクリーンがあり、様々な人が訪れては去っていく。彼らは死者なのか追憶なのか。実物と区別がつかないくらいの高精度の映像で、本当にそこに来て、去って行くように見える。そしてギエムもその中に入って去ってしまうのではないか……。

タイトルは「さよなら」の意味でスウェーデン語である。エックの故国スウェーデンで初演されたためだ。
映像の四角いフレームが異界との境として機能しており、映像の本質を見せられた思いだ。
バレエ人生において大劇場を圧倒する存在感を見せつけてきたギエムが、ひとりの人間、ひとりの女性として見せる哀惜の表情は、深く胸にしみてくる。

●ボリショイ、マルセイユ……有名バレエ団も次々と

最近は世界のバレエ団も積極的に映像を使った作品に取り組んでいる。

ロシアが誇るボリショイ・バレエすらもだ。
バレエ団の振付家アンナ・アバリキナと、NY在住の3Dマッピングが得意なビデオ・アーティストのシーラ・スヴェタの協働で作ったのが『LEVITATION』
ロシアの芸術文化のテレビ局『РоссияКультура(ロシア・クルトゥーラ=ロシア・カルチャー)』による制作である。

舞台上に座っているダンサーの周囲にある映像は、本当に立体物が立ち現れているように見える。
いっぽうそこで踊るダンサーは無重力のような動きで、空中に留まったりする。
これは撮影のトリックで、カメラが90度回転していて、床と壁が逆転しているのである。
3Dマッピングで目の錯覚を利用しつつ、ダンスの側からもひとつ仕掛けがあるのがニクいところだ。

それにしてもボリショイが……と思うかもしれない。
いずれゆっくり述べたいが、じつはここ数年、ロシアが本腰を入れてコンテンポラリー・ダンスに挑んでいるのである。

さてかつてローラン・プティが拠点としていたフランスの名門マルセイユ国立バレエ
もともと革新的なことには積極的なバレエ団だが、現在の芸術監督は振付家のマリーヌ・ブルティ、ビジュアルアーティストのジョネトン・ドゥブロウイ、俳優で映画監督のアチュール・アレルが作った「(LA)Horde」(ラオルド)というグループが務めている。

さらにフレンチ・エレクトロニカの鬼才エルワン・カステックスが進めている「Rone (ローン)」というプロジェクトがマルセイユ国立バレエ団とともに手がけた『Room With A View』は本来2時間公演の予定だったが、コロナ禍でツアーが中止になったため、4分半のビデオ作品を創った。

前半は普通に劇場でダンサー達を撮っているのだが、3分を過ぎたあたりから、とんでもないことが起こる。劇場の外へ我先に出て行く人々の身体がペラペラな紙のようになり、「縛ったまま茹でてしまい、くっついてひとかたまりになったスパゲッティ」のようになって、劇場を転びでていくのだ。

ちょっとグロい。
ただこれは映像だからできる表現で、実際の舞台ではどうするつもりだったのかわからない。
ぜひ本公演を見られる日を待ちたい。

舞台における映像 4つの役割

コンテンポラリー・ダンスでも、映像を使う使わないの好みは結構分かれる。使わない人は徹底して使わない。
一方で、日本でもすでに1990年代から、ダンサーだけではなく映像作家など様々なアーティストが参加するコレクティブな方向性を打ち出すカンパニーもでてきていた。
レニ・バッソ(主宰:北村明子、映像:兼古昭彦)やニブロール(主宰:矢内原美邦、映像:高橋啓祐)などはその代表的な存在だろう。レニ・バッソは2010年に解散しているが、その関係性は続いている。

ここでは、舞台における映像の役割を、以下の4つの点から見てみよう。

〈舞台における映像 4つの役割〉
  • その1:大きさ 舞台空間を埋めるか、部分か
  • その2:時間 既成の映像、ライブの映像
  • その3:身体・キャラクターの抽象化
  • その4:身体性を拡張するか、対抗するか

その1:大きさ 舞台空間を埋めるか、部分か

●状況を説明したり

「光(映像)はスクリーンとの距離に応じて拡大する」という特性がある。
広い空間を容易に埋めることができるし、簡単に取り去ることができる点、舞台美術よりも扱いやすい。
ただ光の方向は重要で、前方から映像を投射すれば自分の身体にも映像が映り影ができる。
スクリーンの後ろから投影すれば映像に自分の影が落ちることはないが、自分を正面から照らす光によって映像を弱めてしまう。

英国ロイヤル・バレエのウェイン・マクレガー初の全幕振付作品『ウルフ・ワークス』は、ヴァージニア・ウルフの代表作『ダロウェイ夫人』『オーランドー』『波』をモチーフに創られた大作。とくに3幕は広い舞台の左右いっぱいに広がる巨大なスクリーンに、荒々しく打ち付ける海の映像が広がる。
ベタと言えばベタなのだが、1幕2幕と綴ってきたダンスと、3幕でウルフを思わせる主人公の死を迎え、大画面・高精度の映像による海の存在感は圧倒的で成功していた例である。

●観客の視線を強制する

本連載の第4回「ダンスにおけるセンター問題」で論じたように、コンテンポラリー・ダンスでは、どこを見るかは観客の自由だ。
しかし映像は観客の視線を半ば強制的に見せたいものへ誘導できる
舞台上のセットの一部やダンサーの身体の一部を、拡大して観客に見せることもできる。

コンドルズが人形劇など小さな演目をやって大きなスクリーンに投影しているのはその好例だろう。「大劇場の観客が、目の前の小さな出来事に集中するのが面白い」からだというが、観客の視線の誘導・強制それ自体が狙いのひとつなのである。

また舞台上から客席を撮影してスクリーンに映し出す演出もある。
これにより観客は「安全な場所から一方的に観る側」から不意に「観られる側」へと引きずり出されることになる。観客は自分たちに向けられた自分たちの視線を意識せざるをえない。
映像が持つ「視線の強制」を利用して「視線の圧力」を可視化するわけだ。
作品のテーマによっては、非常に有効な手段になるやり方である。

映像は映されたものだけが重要なのではない。
観客の視線をどこに向けるのか、それ自体が意味を持つこともあるのだ。

その2:時間 既成の映像、ライブの映像

●用意した映像か、リアルタイムの映像か

映像の時制もまた重要である。
舞台で映像を使う場合、映像作家が創った映像を必要な時に流すことが多い。
つまり「過去」に創った映像を流すわけだ。
しかし中には「今」の映像、さらには「未来」の映像と踊る挑戦をしている場合もある。

ちょっとひねった使い方としては、「楽屋や舞台裏でダンサーを撮影した映像が流れる。ダンサーは楽屋を出て廊下を歩き、だんだん劇場に近づいてくる。ついに入ってくる映像が流れると、本人が本当に舞台上や客席の扉を開けて入ってくる。手にはカメラ。じつはすべてライブで撮っていた映像をリアルタイムで流していました」というもの。

これはバリエーションとして「劇場の近くを歩いている」「劇場の外で踊っている」というのもある。手の込んだものだと「自宅でくつろいでいる映像」を見せておいて、じつは舞台の一部に自宅の部屋と同じセットを作ってライブ放映していたりする。

「撮影」と「上映」の間にはタイムラグがある、という思い込みを利用した演出である。

●既成映像……創ったものか、流用したものか

映画やニュース映像といった既成の映像を使うこともある。

核爆発のキノコ雲や環境破壊で傷つく動物たちなどの映像は多い。
だがそういう作品は、だいたいそこに至るまでに環境のことを語っていて「ああやっぱり出たね」という感じを抱いてしまう。
言っていることが正しすぎて、誰にも反論されない安心感に酔っている心根が透けて見えると、「事実の重さに乗っかっているだけだろう」と逆に反感を買うことになる。

ダンス公演として充分面白く内容があり、堪能させた上で(しかも途中で映像などは一切使わないまま進んでいながら)、最後に「現実は、これをさらに上回ってるんやで」と言わんばかりにガンと映像を使われると、これは感心するしかない。

チェコのDOT504『Collective Loss of Memory』は、まさにそんな作品だった。
男5人が総合格闘技のマウントの取り合いをキャッキャしながらやっているなど、全編に男性的なマチズムが漂う。ひとたびユニゾンで踊り出せば、声を掛け合い体育会系の一体感が生まれる一方で、差別やイジメもある。
そして股間から立派だが作り物のペニスを取り出すが、これは「暴力を正当化し賞揚する『男らしさ』など、しょせんフェイクに過ぎない」と象徴しているわけだ。

ここまででも明確な主張と力強いダンスとユーモアで、充分に満足していた。
しかし最後に、実際に起こった凄惨な暴力事件の映像が流される。街の監視カメラ映像と思われるそれは若者同士の喧嘩で、すでに倒れて意識もない相手を執拗に蹴り続けるものだ。
この映像の使用に関しては、世界のダンス関係者と話していても賛否があった。

ちなみにオレは肯定的だ。長いあいだ男社会が「たいしたことない」「悪気はない」「愛情表現だ」として、薄笑いを浮かべながら暴力を容認し続けてきたこと、それが今も続いている現状を思えば、暴力の現実を突きつけるのは、単なる露悪的とはわけが違うからである。

この作品は「映像を出す前の作品で充分に主張があり、身体表現も優れていた」「映像の力に頼るのではなく、むしろ反対者が出るリスクのある映像を選んでおり、事実の重さの上にあぐらをかいているわけではない」という点、作り手としてしっかりしている。

実写の映像を使う場合は、くれぐれもこの2点には留意しておくべきである。

その2の追加:『音脈』における映像の時制

●音楽をリアルタイムで視覚化する

さて「用意した映像を流す」「(じつは)リアルタイムで撮っている映像を流す」「ニュースなどの映像を流す」と見てきたが、技術の進歩によって「リアルタイムで生成された映像を流す」ということもできるようになっている。そこを補足しておこう。

この分野ではアイドルユニットPerfumeとの協働で一般にも広く認知されているデジタルアート集団ライゾマティクスが世界でも高く評価を得ている。

そのライゾマティクスが協力した『音脈』は、様々な意味で挑戦に満ちていた。
コンテンポラリー・ダンスの白井剛、ピアニストの中川賢一、ビジュアルアーティスト・プログラマーの堀井哲史(ライゾマティクス)の共演である。

「ピアノとダンス、それぞれの演奏や身体のデータを読み取って、リアルタイムに映像を生成し、音とダンス映像が一体化した舞台を作る」というもの。

たとえば鍵盤の一つ一つにセンサーのついたMIDIピアノを演奏すると、打鍵の記録だけではなく、タッチの強弱まで読み取ることができる。音や強さのデータをもとに、コンピュータによって棒の長さや球の大きさにしてどんどん映像を創り出していく。

ピアノを弾く、というデータをコンピュータによって映像に変換しているわけだ。
現代作曲家の巨匠オリヴィエ・メシアンは、音を色彩として感じる「共感覚(シナスタジア)」の持ち主だったが、これは「音として入ってきたデータを、脳が色彩に変換してしまう」という状態で、コンピュータがやっていることと非常に似ている。

そこでメシアンの曲を弾く中川に脳波センサーを装着し、演奏中の脳波(「緊張」「弛緩」など)を変換して3Dの山脈のように大きく映し出した。
共感覚で「音が見えて」いたメシアンの曲を、ピアニストの「脳がどう聞いているか」をコンピュータによって映像化したわけである。

非常に面白い試みなんだけど、えーとみなさん、ついてきてますか?

●未来の自分と踊る

ダンサーの白井剛も面白かったので、『音脈』の話、もう少し続きます。

白井が使ったのはスティーブ・ライヒの『ピアノ・フェイズ』。前回書いた、ローザスの名作『FASE』にも使われている曲だ。
あちらは二人で踊り、その間にできた影が三人目のダンサーとして出現する。

しかしこちらはソロだ。
正直言うと、ローザスの歴史的な名作に対抗するのは難しいのではと思われた。

踊る白井の身体の映像を取り込んですぐスクリーンに投影する。白井は、数秒前の自分自身の残像、つまり「過去の自分」とデュオを踊ることになる。
さらにいえば「現在」の動きは数秒後に投影されるので、「今」の動きは「数秒後の未来の自分」と踊ることを想定している。

つまりどの一瞬も「過去でもあり現在でもあり未来でもある」という、まるで「シュレーディンガーの猫」のようなダンスを生み出していた。

新しい技術を使ってみました、ではなく、技術を越えて何を見せられたか。
それが重要なのだ。

その3:身体・キャラクターの抽象化

舞台上では描ききれない、または、伝えきれない部分を映像に託す場合がある。
モロに説明的なものもあるが、舞台上を抽象化した表現で、さらに作品世界を深めるものがたまにある。

●ニブロール『コーヒー』

良い映像は、舞台装置であり、共演者でもある。
ニブロールの高橋啓祐は、まさにそんな存在だ。

ニブロールの特に初期作品では、とにかく矢内原は怒り、当たり散らす「Angry Girl」であり、エネルギーの塊だった。しかし決して孤独に逃げ込むことはない。常に自分が抱えている怒りを通して世界を理解しようとする姿が、アーティストの姿として際立った魅力だった。

『コーヒー』で高橋が作った映像はゲーム画面のようであり、街を歩き回りながら次々にUFOを打ち落としていく。廻りは異物に満ちて常に攻撃している。さらに世界は分解して大量の鳥になる……など矢内原のダンスの身体性とキャラクターと世界観を映像の世界へ解き放ち、さらにダンサーの身体に還元していくのが見事だった。

ダンスにとっての映像が挿入でも追加でもなく、コーヒーに入れたミルクのように溶け合っている。なるほどダンスの舞台で映像を使うならこういうことだなと初めて得心させられたひとりだ。

●束芋と森下真樹

ダンスの森下真樹と現代美術家の束芋(たばいも)のコラボレーション『錆から出た実』は、束芋のビデオ映像が随所に使われる。
初演は森下のダンス作品の中に束芋がいる、という感じだったが、再々演では、束芋を中心に再構築された。森下は振付で出演ダンサーは鈴木美奈子のみ。

ホワイトボードに投影された人影。その後ろに立つ鈴木本人の足が、影と繋がるように伸びている。両者が完璧にシンクロして動くため、ひと続きの影のように踊る。
別のシーンでは舞台奥の紗幕に大写しで部屋のイラストが投影されたかと思うと、歩み出た鈴木のシャツに鳥籠が投影され、中の鳥は飛び去っていく。部屋の中は際限なく伸びていく木の枝や根に浸食されていくのだが、鈴木は木の生命力に屹立するほどのエネルギーを宿して激しいダンスを見せる……ときに視覚トリックも使いながら、ダンスと映像はぶつかり、融合し、さらにイメージが重層化し、思わぬ深度で結実していた。

これは束芋と森下が創作と公演を通して互いの実力を熟知していたからこそだ。一回こっきりのコラボレーションとはこうまで違うものかと思わされた。

ちなみに身体に投影する演出はしばしばある。
急成長を遂げる北欧のコンテンポラリー・ダンスの牽引者フィンランドを代表するテロ・サーリネンの出世作『HUNT』も『春の祭典』をモチーフにしたもの。過度に発達したマスコミの犠牲者として、自身に大量の目の映像を投影する作品で高い評価を得た。

その4:身体性を拡張するか、対抗するか

●圧倒的な映像に立ち向かう梅田宏明

映像は大きい。容易に空間を埋めることができる。しかしその反面、身体が埋没してしまい、見えなくなってしまうデメリットもある。

映像を大きく使う場合、舞台を支配しているのが映像なのか身体なのか、ダンサーは常に問い続けなければならない

だが何事も、突き詰めると反転する。「身体が映像に埋もれてしまう」ことで、逆に身体の存在を示したのが梅田宏明である。
舞台全体を塗りつぶすようなノイジーな映像と音のなか、強烈な身体性で屹立する圧巻の舞台である。

「音と映像のデータは全て自分のパソコンに入れてあり、リターンキーを押したらあとは流しっぱなし。世界中どこでも二台のパソコンを持って行けば上演できる」
という梅田のスタイルは世界のディレクターの間でも有名である。梅田はいま最も海外に招聘されているダンサーのひとりだ。

テクノロジーにめっぽう強い山口県のYCAMと梅田が作った『Holistic Strata』では、縦横無尽に飛び交う光の粒や軌跡の中、梅田の身体もまた粒子に還元されたように見える。
梅田の作品世界をさらに先鋭化させていった。

そして韓国の光州に梅田が招かれて、アジア各国の伝統舞踊のダンサー達に振り付けた作品『4. temporal pattern』では、芯が強く粘りのある伝統舞踊の身体に、加速し続ける梅田のスタイルが加わる。文法が違う身体との出会いは、梅田のスタイルにさらなる可能性を感じさせた。

●映像による身体性の拡張『LUNAR HALO』

映像と身体の関係性を考えるとき、先述した「物理的に小さいものを拡大して見せる」他にも、重要な要素として「身体性の拡張」がある。
台湾を代表するクラウドゲートダンスシアターの巨匠リン・ファイミンの後継者チェン・スンロンの新作『LUNAR HALO』は、映像の使い方に驚かされた。

もともとカンパニーのダンサー達の身体性は強い。群舞も一人ひとりが眼を引く存在だ。
終始暗い舞台の後方に裸体の男が映るのだが、上下いっぱいに身体が引き延ばされていて山奥に住む巨大な妖怪か何かに見える。男たちが力強いダンスを踊ると、上空から腕が伸びてくる。女性ダンサーが踊っている足元には美しい花が咲いているが、よく見るとそれらは人間の手首から先の映像なのだ。

映像を舞台美術として使っている。だがそのことごとくが人体を拡張し、ときに歪めたものである。
舞台上には身体的にはエリートコースを歩んできた美しい生身の身体たち。
物理的な大きさ・多さで迫る「映像の身体」と、生身と強さとエネルギーで立ち向かう「生身の身体」の対比になっている。
凡百の、「ただ大きな身体を映しただけ」の作品とは、格段の違いを見せた。

●映像とダンスの新しい地平 スー・ヒーリー『ON VIEW』

出演するダンサーの映像をあらかじめ撮っておき、舞台上で流す……最もオーソドックスな使い方だが、この根っこの部分を問い直したのがオーストラリアの振付家・映像作家のスー・ヒーリー『ON VIEW』である。オーストラリアと香港、愛知(上演は横浜も)で、現地のダンサーを使って撮影とクリエイションをしている。

『ON VIEW』が特徴的なのは、事前に撮影する映像を「ダンサーのポートレート」と位置づけていることだ。ダンサーは好きな私服、好きな場所、好きな動物を選んで一緒に踊る等々の「課題」を出される。これに応える形でダンサーは能動的に映像の撮影に関わり、かつ自分の内面をさらけ出していくことになる。

さらにこの映像を使って、生の舞台を作る。同じダンサーの「映像の身体」と「生身の身体」が競演するわけだ。しかも映像と違って人間は年を取る再演を重ねるたびに「昔の自分の身体」と新しく出会うことになるのである。

その他の映像表現について考える

さて一般的な舞台芸術における映像について語ってきたが、ここでちょっと特殊な、独特な使い方の映像についても触れておこう。

●映像における「フレーム問題」

まず映像を考えるうえで押さえておかなければいけない本質的な問題が「フレーム問題」である。
映画の画面、テレビなどのモニター等々、基本的に映像は四角いフレームのなかで展開する。
つまり「フレームの中は別の世界であり、別の時間が流れている」という約束が我々の中にはあり、このおかげで安心して見ていられるのである。

映画が誕生した頃、こちらに向かって走ってくる汽車の映像を見て、観客は轢かれると思って逃げまどった、というエピソードがある。
そんな馬鹿な、ちょっと大げさでは、と今の我々は思う。
当時の観客だって、それが映写されたものだということはわかっていたはずだし、なにより無声映画の時代である。迫ってくる汽車の音がするわけではない。

だが映像というものを初めて見たような人々にとって、「フレームの中は現実世界とは区切られたもの」という認識は不充分だった。それでも迫ってくる汽車を前にジッとしていることは出来なかったのである。
今の我々はフレームの中で起こっていることは別の世界のことだと認識できる。
それは逆にいえば、「フレームの中の映像に対しては、つねに一歩引いて見ている」ということになるのである。

エックの『アジュー』で、フレームの中に現れては消えていく人々がこの世ならざる者のように見えるのも、こうしたフレームの効果を充分に活かした演出といえる。

だがもちろんフレームの垣根を越えようという努力はされてきた。
梅田宏明のように舞台全面、なんならプロセニアムの外にまで及ぶほど広範囲に映像を投影することもある。
あるいはフレームの存在そのものをぼかす。『ON VIEW』では、「間隔を空けて吊るされている、大きな3枚の薄い紗幕」へ投影した。紗幕を透過する映像は淡く像を結んで重なるため、空間に浮かぶホログラムのように見え、映像のフレームの存在は曖昧になって意識させなかった。

さらには最近では、技術によってこの「フレーム問題」を越えていこうとしている。
VR(バーチャル・リアリティ)など、様々なフレームのないイマーシブ(没入型)な作品が大きなジャンルになってきているのだ。

●VR、イマーシブ(没入型)

VRに関してはそれこそ1980年代からいろいろ努力はされてきたが、いかにせんパソコンのパワーと周辺機器の発達を待つ必要があった。
厳密に言うと、VR(バーチャル・リアリティ=仮想現実)とAR(アーティフィシャル・リアリティ=人工現実・拡張現実)はちょっと違う
ざっくりいうと全く架空の世界を創り出すのがVRで、現実を拡張させるのがARである。HMD(ヘッド・マウント・ディスプレイ)を装着してゲームの世界に入るのはVR。スマホで自分の顔を映すと目がマンガみたいにキラキラになったり猫耳がついたりするアプリはAR、ともいえるだろうか。

近年よく使われる「イマーシブ(没入型)のパフォーマンス」は、VRやAR、あるいは単に観客参加型のパフォーマンスを指すこともあり、きわめて広い意味で使われている。

日本ではダンスの方面からDAZZLEなどは色々な試みをしているが、イギリスではもう20年くらい前からイマーシブ・シアターが盛んに行われている。オレもしばしば海外のフェスティバルで体験しては感心していた。

2020年、AΦE(エーイー)というカンパニーの『WHIST(ウィスト)』公演があった。イギリスで有名なパンチドランクというイマーシブ・シアターのグループで活躍していた中村葵エステバン・フォルが創ったカンパニーである。中村はダンサーなので、全体にダンス的な展開となっている。

HMDを装着して360度VR。挙動のおかしな人々の世界で、悪夢が現実と入れ替わる恐怖感はなかなか。
感心したのは、鳥かご・鏡・ナイフ等々、観客が選んだ視線の動きを検知して、次に展開していく話が決まっていくことだ。監修にはロンドンのフロイト博物館がついていて、深層心理や無意識を拾っていくのである。

「観客の視線を強制的に導くのが映像の特徴だ」と述べてきたが、ここでは逆に「観客が選んだ視線」がパフォーマンスの流れを決定づけていくのである。
まさに本連載第4回の「舞台上は等価で、どこを見るかは観客が選ぶ」というコンテンポラリー・ダンスの特徴そのものではないか。

●「上から」の恐怖感 ドーム映像。あの大御所も

スイスを代表する振付家で普通に来日公演もしていたジル・ジョバンが、いきなりVR体験型の作品『VR_I』を持ってきたときは驚いた。
HMDを装着した五人ほどが完全にバーチャルな空間に入る作品で、それぞれは老若男女の全く違うアバターに変身している。
入った世界は部屋だったり荒野だったりするのだが、このVRの世界に、身の丈10メートルくらいある巨人がやってくるのである。

人間、3D映像でナイフが飛び出して見えたとしても、リアルな危機感は抱かないだろう。
しかし「単純にデカい、上から来る存在」に対しては想定外で、反射的に恐怖感を感じ、ドキドキする。その瞬間にリアルとVRの垣根を越えて、一気に世界に没入した。これは新鮮な感覚だった。

同じような感覚を、HMDなしで、全く違う方法で味わったのが飯田将茂監督のドーム映像作品である。
「ドーム映像」とはその名の通り、プラネタリウムなどのドーム空間に投影する映像である。
ドームなので「フレーム問題」はない。境目のない、視界に入りきらないほどの圧倒的な映像を裸眼で見ている。なかでも『HIRUKO』という作品では、そこに舞踏家の最上和子(アニメ監督の押井守の実姉)が登場する。
それが「上から」くるので反射的な恐怖感に近いドキドキを感じ、没入感が半端ない。
これは味わったことのない映像体験なので、ぜひ試してみることをオススメしたい。

じつはいま世界的に「ドーム映像」は注目を集めており、フェスも行われている。ほとんどは疾走感のあるCGでドガーン! みたいなものだが、飯田のようなスタイルは高く評価され、『HIRUKO』は2019年にはアメリカのジョージア州で開催されたマコン・フィルム・フェスティバルのフルドーム部門で最高賞を受賞している。

これは新しい鉱脈である。
……と思っていたら、じつは1970年に大阪で開催された日本万国博覧会の演し物で、直径30メートルの巨大ドームで『誕生』というダンス映像が上映されていたという。
しかも監修・音楽は黛敏郎、脚本が谷川俊太郎、踊っていたのが、なんと舞踏の創始者・土方巽という驚きの座組み。

舞踏が世界的にブレイクしたのは1980年だから、その10年も前は日本でもアングラ扱いだったはず。国家事業の場で、おそらく今にして「億」の予算をかけて(『アストロラマ』と名付けた巨大上映システムそのものを開発しているのだ)、土方巽を上映するとは、気骨のある時代である。慶應義塾大学アートセンター・土方巽アーカイブにその調査映像が残されている。

最新技術のVRから注目されているドーム映像が舞踏の身体性に着目する一方で、その半世紀前にやはり当時最先端の技術で捉えようとしたのが舞踏である、というのは、面白いではないか。
巨大ドームいっぱいに土方巽の研ぎ澄まされた身体が踊ったのかと思うと鼻血が出そうである。

身体が技術の進化を越える一例といえるだろう。

●ビデオダンス×ダンスビデオ

冒頭に述べたように、本稿であつかうのは「舞台上で使われる映像」だ。記録映像や、ダンスを使った映像作品、映像ならではのダンス表現を盛り込んだ「ビデオダンス」は基本的に除外しているが、ちょっと触れておきたいのが吉開菜央である。

カメラもソフトも充分に高性能で廉価になってきているので、いまでは自ら映像を撮影するダンサーも増えてきた。ガチで映画を撮って受賞している菊沢将憲などもいる。
だが吉開の映像は、舞台公演と同じくらい「踊る身体」に対する執着に満ちているのである。

吉開は自らも踊り、振付もする。有名なところでは米津玄師の大ヒット曲『Lemon』のPVで、一人踊っている女の人が吉開である。
映像ではカンヌ国際映画祭に短編『Grand Bouquet』が正式招待されるなど、いずれも高く評価されている。

とくに素晴らしいのが『ほったまるびより』という映像作品だ。小暮香帆・後藤ゆう・菅彩夏・矢吹唯といったダンサーが出演する。少女のようなダンサー達に内在する生き物としての生々しさや触覚や嗅覚までも訴えてくる。
ほとんどが古い一軒家の中で撮られているのだが、家のあちこちから角質化した皮膚の破片や抜け落ちた髪の毛などを集めてきて(本物)、「小さな人形を作る=人体を再構成する」のには、ちょっとゾッとした。

同時に「映像というフィルターを通すことで、初めて顕れる人体のリアリティ」というものが確かにあると思わせられた。

吉開は、その核心をいきなり掴んで切り取ってくる精緻さと容赦のなさがある。それは映像作家の才能だが、同時にダンサーとして身体への愛情と愛着も共存しているのだ。
これからの身体による映像表現、映像による身体表現を考える上で、大きな可能性を手にしている存在だ。

Dance New Airでは吉開菜央の「ダンサーのための映像ワークショップ」などもやっているので、ダンサーはぜひとも受けてみると良い。

ありがちな、駄目な映像の使い方

さて最後に、これはやめとけ、という映像について。

●ただの背景

本連載第7回「ダンスと舞台美術」でも述べたが、舞台装置を節約するために映像を使うパターン。
アメリカのカンパニーに多い。近年では天才ラスタ・トーマス率いる「バッドボーイズ・オブ・ダンス」の公演ですらこれだった。
ツアーが続くときなど荷物の負担を減らすために映像を代用するのは理解できる。
しかしだからといって「綺麗な背景の前で踊る、カラオケの背景のような使い方」では、ダンスに魅力があってもやはりガッカリさせられる。

●関係性がない

まあソロ公演で、衣裳直しのつなぎとして使うのはしょうがない。

しかしコラボレーションを勘違いしている連中がやりがちなのが、「今回は映像のスゴい奴にも声かけてるんで! 楽しんでもらえたらうれしいっす!」というね。映像と身体はそれぞれ好きなことをやっているだけ、作品全体を構築する力がなくツギハギなのを、「狙ってやってます☆」と居直るたわけ者がたまにいる。

アーティストとして、自分の作品の制空権を他人に明け渡して平気でいられるダンスなら、袖に引っ込んで二度と出てこなくていい。映像だけ見ている方がなんぼかマシだ。
他人が創った映像作品でも、たとえそれが過去の名画の引用であっても、観客がその映像の中に振付家の息づかいを感じ取れなければ、作品としては見るに価しない。

●映像と身体の関係

映像の文化は、影絵や幻灯から始まり、映写(投影する)、モニター(自ら光る)、さらにHMDへと進んできた。
また内容も、実物の撮影、アニメーション、CGへと変化している。

技術は、あっという間に古くなる
いまやCDもビデオテープもブラウン管も過去のものだ。
アーティストも、「創っているときの技術は、上演時には過去のものになっている」という前提で創らなければならない。

大切なのは、「技術を使いつつ、技術を越えた内容を創ること」である。
百年前の名作映画を、現代も普通に楽しめるように。
そのためには、技術以外の着眼点が重要になる。

映像を「手軽な舞台美術」「気分転換」「にぎやかし」程度にしか考えていない者は、つまるところダンサーの身体についてもその程度にしか考えていないものだ。
スケジュールや予算は言い訳にはならない。
舞台上の要素をひとつでも忽(ゆるが)せにしている作品には、なんともいえない腐臭が漂っているものだ。

人には「人の身体を見たい」という根源的な欲求があるのだ。
映像は、身体の真実を違う角度から見るために造られた、もうひとつの眼球である。
「人間の身体」と「映像の身体」との関係は、今後も常に問い直されていくだろう。

しかもいまやコロナ禍によって、動画の配信の問題を含め、映像と身体の関係が根底から変わっていくことは避けられない。
我々は、考え続けなければならないのだ。

□ ■ □

さて次回は『ダンスと小道具』である。
身体ひとつで踊るもよし。
しかし小道具を使うとしたら、それはなぜなのか……等々を考えていきたい。

★第8回は2020年12月10日(木)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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