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バレエファンのための!コンテンポラリー・ダンス講座〈第6回〉ダンスと衣裳〜すごく近くて、ものすごく深い〜

乗越 たかお
“Contemporary Dance Lecture for Ballet Fans” 

Text by NORIKOSHI TAKAO

ダンスと衣裳〜すごく近くて、ものすごく深い〜

今回はダンスと衣裳について語っていこう。
まったくの偶然なのだが、現在発売中の「ダンスマガジン」9月号でも特集が「バレエ衣裳の世界」なので、ぜひとも合わせてご覧いただきたい。

さて衣裳は舞台芸術にとって付加的な存在だと思われるかもしれないが、衣裳がダンスに与える意味と影響は実に大きなものだ。
それはバレエ・ファンの方が深く実感していることかもしれない。
なぜならトウシューズとチュチュの発明が、今日のバレエという芸術のスタイルを決定づけたといっても過言ではないからである。

バレエの衣裳は、それだけで展覧会が開かれるほどに人気がある。
公演のたびにオペラグラスで衣裳のデザインを隅々まで観賞されるファンも多いだろう。
同じ演目・同じ役柄であっても、時代によって、あるいは役柄の解釈によって意匠が様々に変わってくるので、見比べるのも楽しい。

歴史や作品が変わったり、振付を生みだしたり、衣裳には様々な力がある。
衣裳を中心に見てみると作品がまた違った顔を見せることもある。
「物語」「役割」が希薄なコンテンポラリー・ダンスの時代、衣裳の意義は変わってくるのか。
そして全裸は衣裳か?……などなど。今回は、身近なようで底抜けに深い、衣裳について掘り下げていきたい。

衣裳がダンスの歴史を変える

●衣裳によるバレエの革命『ラ・シルフィード』

フィリッポ・タリオーニが娘マリーに振付けた『ラ・シルフィード』(1832年)は、ロマンティック・チュチュとトウシューズによる様々な技法を見せた。儚さ・浮遊感・妖精・異界といったロマン主義との完璧な合致は、ロマンティック・バレエの幕開けを告げたと言われる。

マリーが演じた風の妖精シルフィードは、結婚を控えたスコットランドの農夫ジェームズを誘惑する。現代よりも長めの釣鐘型のチュチュが揺れるたびに風を感じさせ、ジェームズと戯れながらも、スルリとその腕から抜け出てしまう軽やかな浮遊感は、新しい感覚で観客を魅了したのである。

この『ラ・シルフィード』の凄まじい成功から、チュチュとトウシューズはバレエの代名詞として定着していった。
そしてルイ14世の時代から男性が中心だったバレエは、これ以降、女性ダンサー中心の芸術へと転回していくことになったのだった。

時代が下って1900年代初頭にイザドラ・ダンカンがバレエに対抗する形で「新しい(モダン)ダンス」を提唱したときに、攻撃の対象としたのもやはりチュチュとトウシューズだったのである。

彼女はチュチュではなくギリシャ・ローマ時代の彫刻のようにゆるやかな衣裳をまとい、トウシューズを脱ぎすてて踊る彼女の姿は「裸足のイザドラ」として、人々の記憶に永く刻まれることになったのだった。

イザドラ・ダンカン Everett Collection / Shutterstock.com

●マシュー・ボーンの白鳥は猛禽化する

これ以降、バレエの古典に挑戦する者は、まずチュチュとトウシューズというバレエアイコンと戦わなくてはならなくなった
その強固さには歯が立たず、ほとんどの作品が消えていったが、みごと一矢報いたのがマシュー・ボーンの代表作『白鳥の湖』(1995年)である。

女性美の極致と思われていた白鳥を、なんとすべて男性が踊ったのだ。
しかもいまだに世界中でヒットし続ける、驚異的な作品となった。

「男が『白鳥の湖』を踊る」というアイデア自体は特に目新しいものではない。トロカデロ・デ・モンテカルロバレエ団などは、長く人気を博している。
しかしやはりパロディ以上のものには、なかなかならない。
ボーン版『白鳥の湖』が、お笑いでなく正統な読み替えの芸術作品として成立させるうえで、衣裳デザインのレズ・ブラザーストンの功績はきわめて重要である。

なにより革新的だったのは、男が踊る白鳥(ザ・スワン)を、まるで猛禽類のような激しさと野性味に溢れた姿として描いたことだ。
ブラザーストンがデザインした衣裳は、上半身は裸で下半身は白い羽根で覆われている。ただし腿の部分がガッツリ大きく膨らんで、細く伸びた脛がむき出してキュッと締まっている。

これは白鳥ではない。鷲や鷹といった、獲物を捕まえる鋭い鉤爪を持った猛禽類の脚である。

またバレエでは、伸ばした腕で白く長い白鳥の首を表現したりする。
ボーン版ではかわりに額へ黒い逆三角が描かれており、遠目で見ると猛禽類の鋭いクチバシに見えるようになっている。どう見ても黄色く平たい白鳥のそれではないのだ。
ポスターによく使われている「男性が正面を向いて中腰になってポーズを取っている写真」をみると、その腕の形は、獲物を見つけた猛禽類が一直線に滑空するときの翼の畳み方になっている。

「ザ・スワン」は、ボーン作品の定番である「平穏をかき乱す粗暴で魅力的な闖入者」が、気弱な王子とその周辺を、男も女もいろんな意味で食い散らかしていく(そしてラストは屍肉に集まるハゲタカのような衝撃のシーンがある)。まさに猛禽だ。

並の衣裳デザイナーならば「ザ・スワン」の衣裳を「黒一色のダークスーツでちょっと黒い羽根がついている」ようなデザインにするだろう。いわば抽象化だ。無難だし、じっさいそういう舞台を何度か見たことがある。具象的な白鳥に寄せていっても、せいぜいドナルドダックみたいになってしまうだろう。

しかしブラザーストンは抽象と具象の両方をあきらめなかった。
新しい想像力の地平で両者を一致させてみせたのである。

演出振付の革新的なコンセプトが、衣裳によって具体的なイメージに変換され、強烈に観客の目に焼き付けられる。
これは稀に見る成功例といえるだろう。

●役割をミニマルにするレオタード

話を戻そう。
モダンダンス、コンテンポラリー・ダンスにおいても、衣裳はやはりダンスのスタイルと共に変化してきた。

モダンダンスは文学や神話など物語性のある作品を得意としたので、衣裳もストーリーの役柄を演じる上で重要な役割を果たしてきた。
しかし本連載第3回「ダンスと音楽」で見たように、ダンスを解体したマース・カニングハムの作品やポスト・モダンダンスでは、物語や役割が重要ではなくなり、「ダンスは動きによって語れ」となってくる。

装飾をできるだけ排除し「純粋に踊る身体を提示」する必要があり、レオタードで踊る作品が増えた。
カニングハムの作品では、「振付を忠実に遂行する身体」が重要なので、性別やキャラクターといった個別の身体の情報は、最小限(ミニマル)にする必要があったのである。

●ファッション・デザイナーによる舞台衣裳

衣裳デザインは専門のデザイナー以外にも、美術家やファッション・デザイナーが手がけることも多々ある。

コンテンポラリー・ダンスの初期、三宅一生のショウにフランクフルト・バレエ(ウィリアム・フォーサイス芸術監督時代)のダンサーがモデルとして登場したことが話題になった。

最近もクリスチャン・ディオールのショウ(2019年)にL-E-V(バットシェバ舞踊団の芸術監督も務めたことのあるシャロン・エイアール主宰。柿崎麻莉子も所属)のダンサー達がモデルとともにパフォーマンスをする映像が話題となった。

ほかにもパリ・オペラ座バレエにはクリスチャン・ラクロワカール・ラガーフェルド。モーリス・ベジャール・バレエにはジャンニ・ヴェルサーチ等々、挙げていけばきりがない。

三宅一生は本連載第4回で触れたフランクフルト・バレエの『失われた委曲(The Loss of Small Detail)』に衣裳デザインとして参加。このときに使用した、動きやすさとデザイン性に優れた素材をもとに、1994年に大ヒット・ブランドとなる「プリーツ プリーズ イッセイ ミヤケ」を立ち上げたのである(プリーツ素材自体は1988年に発表している)。

尋常ではない可動域と運動量を誇るダンサーの身体は、デザインや素材にとっては最高の「実験場」かもしれない。

●パンクバレエにも貢献

コンテンポラリー・ダンス黎明期に「元祖パンク・バレエ」と呼ばれたマイケル・クラークは、英国ロイヤル・バレエ・スクールで将来を嘱望されながらも性的・同性愛的・暴力的なエネルギーに満ち満ちた作品で1980〜90年代最大のトリックスターだった。

多くのアーティストと協働し、蛇腹のようなズボンや、若い女性ダンサーが全裸でハイヒールを履き、貴婦人が持つマフに両手を入れてゆっくりと歩いてくる(当然にマゾッホの『毛皮を着たヴィーナス』が想起される)など、良識を逆なでするような作品を次々に生んだ。

こういう振付家とデザイナーの主張がバチバチぶつかるような作品は、とにかく楽しい。

とはいえ、その源流はすでに1909年に始まったバレエ・リュスに見ることができる。
ココ・シャネルのようなファッション・デザイナーはもちろん、レオン・バクストピカソマティスキリコといった美術家をもバンバン採用していたのも、当時は舞台美術と衣裳をひとりのアーティストがデザインすることが多かったからだ(イギリスではいまもそうだという)

若くて評価が固まっていないアーティストも率先して使ったのは、絶対的な審美眼をもったディアギレフならではの慧眼であり、プロデューサーとして腕の見せ所でもあったろう。

衣裳の役割を6つの視点で考える

●衣裳の役割を、あらためて

ただ、前回まで見てきたように最近のコンテンポラリー・ダンスでは「明確な物語やストーリーのない作品」が増え、「役割を演じるよりも、ダンサー個人のキャラクターを尊重する作品」も増えてきた。
そのためわざわざ統一したデザインの衣裳を着ることは減り、かわりにほとんど普段着? てかそのジャージは練習着なのでは? という作品も多い。

衣裳のこれからを考える前に、衣裳が果たす役割を以下の6点から考えてみたい。

〈衣裳の果たす役割〉
  • 衣裳は身体を包む
  • 衣裳は身体に役割を付与する
  • 衣裳は身体を強調する
  • 衣裳は身体よりも舞台美術に近づく
  • 衣裳は身体の機能と存在を拡張する
  • 衣裳は身体と対立する

●その1 衣裳は身体を包む

身体を衣裳で包むことで何が起きるかといえば、
「ダンサーの身体が、個人のものから舞台の世界の一部になる」
ということだ。

物語的な役割ではなくても、身体を包むことによって、演出家のコンセプトを具現化する。
逆に演出上必要のない身体的特徴は隠され、ある種の画一化、フォーマット化されているともいえる。

また勅使川原三郎森山開次のように美術や衣裳のデザイン全般を自ら手がける振付家もいる。

●その2 衣裳は身体に役割を付与する

物語的な作品であれば、衣裳によって性別・社会的地位・人間関係・性格など、役柄に必要な情報を観客に伝えることができる。
それは同時に、ジェンダーや様々な差別の問題も背負わざるをえないということでもある。

バレエを含む古典全般にいえることだが、差別表現や人種ジョークなど、作品が創られた時の「常識」が現代社会の基準では「非常識」にあたる場合、しばしば論議が起こる。
「子どもも見るし、差別を助長するものはやめるべき」「いや時代によって常識が変わるのは当然。勝手な変更は古典への冒涜だ」などなど、慎重な対応が必要になってくるだろう。

逆にいえばジェンダーを変えることができるのも、衣裳がもつ重要な役割だ。
ダンサーは、否応なくまず「女性/男性の身体として見られる」ことから逃れられないが、身体を覆うことで様々な形で舞台上に存在することが可能になる。
歌舞伎の女形や、神事で男女を入れ替えるなど、表現様式として磨かれてきたものもある。

ジェンダーの問題については、いずれ一章を割いて語りたいが、衣裳に関してもうひとつだけ挙げておきたい。

舞踏の創始者のひとり大野一雄の代表作『ラ・アルヘンチーナ頌』(1977年)は、大野が若い頃に見て衝撃を受けたスペインの舞姫ラ・アルヘンチーナを讃える作品である。
大野はスペイン舞踊のドレスを身につけ、アルヘンチーナを思って踊る。ただ大野は、初演の時点ですでに70歳を超えていた。おじいさんの異装と白塗りのメイクは、グロテスクにも映る。
しかしあの美しい舞姫と一体化したい、そのためにすべてを捧げて踊る大野の純粋な姿は、やがて崇高な光を放ち、世界中の人々を魅了したのである。

美しい舞姫の記憶と、純粋な老いた身体が、性別も年齢も超えてスペイン舞踊の衣裳の中で出会い、一つに重なる。
この作品における衣裳は「奇跡を生む装置」として機能しているのだ。

●その3 衣裳は身体を強調・拡張する

先ほどレオタードは身体の情報を抑えると述べたが、本来は身体のラインの美しさを強調する衣裳である。

レオタードはもともとは19世紀に活躍した、空中ブランコを得意とするサーカス・アーティスト、ジュール・レオタール(Jules Léotard)が発明したもの。空気抵抗が少なく、身体の線を美しく見せるなどの長所があって広まった。

現在は印刷技術も発達して、派手な柄のレオタードもお手の物だ。シルク・ド・ソレイユ(コロナ禍で破産が報じられた)でおなじみだが、イスラエルのダンスカンパニーもよく使っている。

イデビアン・クルー井手茂太は、初期の頃、男女のダンサーともに「黒レオタードに白いブリーフ」という姿で踊らせていた。ブリーフの尻の部分には極太サインペンで「佐藤」等、本名が書かれている。
当時はお笑い的に受け止められることも多かったが、井手は「レオタードはダンサーの身体の動きが一番はっきりと見えるから。名前は、観客にダンサー達の名前を覚えて欲しかったから」だという。

森山開次はもともと物を作るのが好きで、昔は衣裳や仮面などの小道具も自分でデザインして作っていた。しかも衣裳は布を染めるところから始めるという徹底ぶりだった。

最近は自らデザインする機会は減ったが、2020年に新国立劇場で浦島太郎に材を採った初のバレエ作品『竜宮 りゅうぐう』では、振付・演出の他に、久々に舞台美術や衣裳のデザインを手がけている。
「御伽草紙」の浦島伝説などもミックスされ、「亀は姫が変身した姿で、最後に太郎は鶴に変身して、二人は結ばれる鶴亀ハッピーエンド」という、じつにバレエ的な構造だ。チュチュの表面が亀甲文様になっていたり、竜宮城での「鯛やヒラメの舞い踊り」など、森山自身による各種の衣裳デザインが実に楽しかった。
とくにバレエが得意とする浮遊感の表現を、森の妖精ではなく海洋生物に活かしたのはなかなかのものだった。

●その4 衣裳は身体よりも舞台美術に近づく

衣裳の中には、個人を飾るより、むしろ舞台美術のひとつとして機能している場合もある。

たとえばモダンダンスでは物語を語る上で、「火」や「風」などの群舞を「動く背景」として使うため、そろいの衣裳を使うことが多い。
これは個人のキャラクターよりも背景としての役割を優先させたものだ。

森山は、アーティストのひびのこずえの衣裳デザインとの協働も多い。『Live Bone』では、バルーンを含んだ巨大な衣裳で人体の内蔵や骨格などを作り、全長4メートルはあろうかという舞台美術並の大きさの衣裳を着る。最後はほぼ実物大の恐竜(の衣裳。着られる)まで登場していた。

NDT時代のイリ・キリアンが日本のかぐや姫伝説をモチーフに作った『輝夜姫』(1988年)がある。かぐや姫が月へ昇天するシーンで、金色の布が舞台の上下左右いっぱいに張られており、その中央でかぐや姫は布越しに後ろから抱えられる。

金の布をまとうようにして足が床から離れ浮遊する姿は、溢れるような金の光に囚われ月に向かって連れ去られるかぐや姫を、地上から見上げている者どもの視点になっているのだ。切なくも美しいシーンだった。

衣裳が、作品のテーマそのものになる場合もある。
ジェローム・ベル『シャートロジー(Tシャツ学) Shirtology』(1997年)では、モコモコに着た大量の既製品Tシャツを着脱しながら、プリントされている絵や文字の意味に即応して動く。
コミカルだが記号論的な考察としても優れている代表作である。

●その5 衣裳は身体の機能と存在を拡張する

いかにダンサーが動きやすい衣裳を作るかは重要なことだ。
ダンサーの意見も様々に反映され、ダンサーの動きを最大限に引き出すために素材やデザインの細かい変更など、目立たない部分にも細かい技術革新が積み重ねられている。
……はずなのだが、それでも納得したものがないと、ダンサー自身が衣裳デザインに乗り出す場合もある。

2012年にドレスデンのゼンパーオーパー(ザクセン州立歌劇場)でフランクフルト・バレエ時代のウィリアム・フォーサイス作品を見た。舞台で活躍していたプリンシパルの竹島由美子は、このときフォーサイスとともに衣裳デザインをも手がけていたのである。

じつは竹島は「踊るデザイナー」としてつとに有名で、ダンサーの側から踊りやすい衣裳を研究し、実際に作ったところ、機能性とデザイン性の高さがダンサー間で有名になっていった。評判はますます高まり、ついにNYに自分の店を出し、映画『ブラック・スワン』の衣裳デザインを手がけるまでになる。
2014年にダンサーを引退したが、衣裳デザイナーとして活躍の活躍は続いている。

「衣裳が身体性を拡張する」という意味では、森山開次&ひびのこずえ『不思議の国のアリス』が印象的だった。
スペードの女王を演じた下司尚実がふくよかな体型なのに加えて、半径1メートルくらいあるスカートをはいているのだ。しかも中には風船がたくさん入っており、歩き回るたびに誰かにぶつかるソーシャル・ディスタンス的なスカート。
見た目のコミカルさはもちろん、「存在自体が邪魔、誰かを傷つけずにはいられない」という、女王の性格を視覚化する衣裳デザインだったのである。

●その6 衣裳は身体と対立する

前項で見たとおり、衣裳デザインといえば「ダンサーの邪魔にならない動きやすさが大切」なはず。
しかし中には、あえて動きづらい衣裳を着せる場合もある。これはどういうことだろう。

たとえばフィリップ・ドゥクフレ『コデックス』は、足ヒレのような靴を履かせて、ぺたんぺたんと歩かせる。
インバル・ピント『オイスター』では、腕部分を塞いでダンサーを腕のない状態で踊らせる。逆に何人もの袖をつなげてしまい、一列になって踊らせたりもする。『ブービーズ』ではタイトル通り、様々なバケモノの着ぐるみ的衣裳が登場した。
二人とも自分で絵を描いて舞台全体や衣裳までデザインするタイプだ。

現代サーカスでも身体を吊したり、強いゴムに引っ張られながら踊ったりと様々な負荷をかけるような衣裳が多々ある。

この「動きにくい服」によって、一体何が起こるだろう?

基本的にダンサーは、滑らかに身体をコントロールする訓練を積んできたエリート達である。
そんな彼らの身体に負荷をかける。とうぜん身体は負荷に抗って動く。
結果として、通常では決してやらないような動きが生まれる、というわけである。

コンテンポラリー・ダンスの振付は、動きを与えるだけではない。
「何かを動かすこと」「動きを生み出すこと/生み出させること」も振付だと考える。

つまり負荷をかける衣裳によって、振付を生み出しているのである。

●日本舞踊の場合

……と綺麗に締めくくりたいところだが、衣裳と動きについては、まだまだ奥が深いのだ。

身体のラインを重視する西洋のダンスからすると、日本の女性の着物はまったくダンスに向いていないことになる。手や腕の動きは長い袖に吸収されてしまい、裾は筒状なので足の動きは大きく制限されるからだ。

日本のモダンダンスの開拓者である石井漠によれば、戦前の帝国劇場にバレエとオペラの教師として呼ばれたジョヴァンニ・ヴィットリオ・ローシーは、日本舞踊を「芸術の不具」とまで酷評していたという。
むろん石井は、制限された中に無限の広がりがあるのだと反論している。
じっさい可動範囲の狭い着物でも、内股で腰を下げるなど、女性の美しさの表現が生み出されているわけだし、これも着物という「制限のある衣裳」が動きに影響を与えた好例だろう。

……と、思っていた。

しかし日本舞踊でも、じつは女性が振付けた踊りは内股ではないものが多い。
また以前、伝統舞踊に詳しい舞踊評論家の阿部さとみ氏と対談したとき、「歌舞伎より古い時代に成立した能や狂言では、性差を意識した表現、つまり『女らしさを追求した表現』というものはない」と言っていたのだ。

つまり「日本舞踊における女性の内股表現」は、歌舞伎の女形たちが「より女性らしく見える表現」と考えに考えて完成され継承されてきた「型」なのである。

「衣裳による動きの制限から女性が生み出した必然の動き」ではなく、「着物という衣裳が表象する女性というジェンダー」に寄り添って、いわば「男が考える女らしい動き」だった。
じっさいの女性舞踊家は、もっと自由な動きの表現をしているのである。

そういえば神事の舞などで身につける衣裳も、動きやすさよりそれぞれに込められた意味や由来の方が重要だ。
演者が動きを通して「衣裳が表象する世界」に寄り添っていく。演者は衣裳を通して神と合一し依り代として舞うことになる。

大野一雄の例でも見たように、優れた衣裳とダンサーは、精神のレベルでも一体化するのである。

裸は衣裳か? の問題

●裸に必要性はあるのか

何かを着せるのが衣裳なら、何かを脱がせるのも衣裳の仕事だ。
では裸体とは? 全裸は衣裳か? そもそも人はなぜ裸になるのか?
舞台芸術における裸は、何のために必要なのか?
そのへんを少し考えておこう。

社会通念として「全裸を人前に出すべきではない」というのは、今でも変わらないだろう。
しかし裸体が今よりももっとタブー扱いされていた時代には、裸自体が旧弊な価値観への挑戦であり、勇気ある行為と評価された。

拙書「ダンス・バイブル」に詳しいが、1920〜30年代に「男女の裸体/半裸を見せる行為」すなわちストリップとボディ・ビルは、「新しい芸術的なダンス」が成立するうえで極めて重要な役割を果たしたのだ。
このあたりは非常に面白いので、是非とも読んでみて欲しい。

●秘密のない時代の裸体

ただもはや裸体に秘密のなくなった現代では、舞台に出したところで芸術的にはなんの驚きもない。
じっさい現代の日本では裸体を出す作品はあまりない。
海外ではカナダのマリー・シュイナールやフランスのボリス・シャルマッツなど「裸がデフォルト」みたいな振付家もいる。ヨーロッパに多いのは、エロティシズムやタブーを犯すというより「身体を晒す」という感覚のものだ。

もちろん馬鹿が裸になったところでどうということもないが、自分自身の存在をどこまでも突き詰めるような作品で、最後の最後に繕いようのない、剥き出しの、ありのままの身体で立たれると(それが演出であっても)、やはり観客の胸を打つだろう。

以前も書いたが、コンテンポラリー・ダンスにおいて重要なのは「どう動くか、ではなく、舞台上にどう存在するか」なのだから。

また個人的な感想だが、2019年にレッジョ・エミリアで取材したNID(ニュー・イタリアン・ダンス)というダンスフェスで、昨今勢いを増しているイタリア人のダンス作品をまとめて見たが、やたら裸体が出てくる作品が多かった。
身体へのこだわり方が、ヨーロッパの中でも独特な気がする。継続して研究していきたい。

●白塗りは衣裳か?

白塗りなどのボディ・ペイント(化粧・刺青)の効用も、衣裳と同じ「違う何かに変身する」行為であり、世界中の文化に見られるものだ。

そして「半裸の身体に白塗り」は、日本の舞踏のアイコンとして有名だ。
もっとも人によって、やっている意義も込める意味も違う。いまでは普通の格好で踊る人も多く、なかなか奥の深い問題なのである。

現役で白塗りを使う舞踏カンパニーとしては山海塾大駱駝艦が有名だ。どこまでも隠逸の静寂を体現するような山海塾、猥雑さも含んだ生命のエネルギーを見せる大駱駝艦。作風としては静と動だ。
しかし両者とも、着る衣裳にも大いに力を入れている。

とくに大駱駝艦の主宰者、麿赤兒の人気キャラクター「マロス」は秀逸である。「マロス」とは、「麿+アリス」で、バケモノの親玉のような迫力の顔に、少女のようなかわいらしい衣裳とリボンを施したもの。
どんな舞台でも、だいたい最後に全部かっさらっていく反則のようなキャラだ。

これも「アリスの衣裳が麿の凶々しい顔面を異化した結果」であり、衣裳の力の重要性を、あらためて示している。

●伝説のH・アール・カオス

現在は活動中止状態だが、かつて日本のコンテンポラリー・ダンスの黎明期を支えたH・アール・カオス(えいちあーるかおす)というカンパニーがある。振付演出の大島早紀子、メインダンサーの白河直子の二人が中心となり、『春の祭典』『カルミナ・ブラーナ』など驚異的な作品の数々を生み出した。

カンパニー全体のレベルが鬼のように高く、後に独立して活躍するようなダンサーがゴロゴロいた。そんな中にあっても全作品のメインを踊った白河は特別な存在だった。
バレエをベースにした超絶技巧と表現力、視認できるほどに全身から放出するエネルギーと、まさに異次元のダンサーだったのである(2015年、笠井叡『今晩は荒れ模様』のゲスト出演で久しぶりにソロを踊ったとき、白河を知らない若いダンサーたちは「ああああの人は誰!?」とどよめいていた)。

作品の最後は大島が巨大なスケールで描いてきた物語の全てを受け止め浄化するように白河のソロで締めくくられる。白河のソロはほとんど半裸で胸も露わになってはいるのだが、表現の強さと深さゆえに性差はまったく意識されず、下賤な感情など浮かんでくる余地もない。

身体について回るジェンダーのレッテルも無力化するほどに、ダンスそのもの、人の形をしたエネルギーの塊を見るようだった。

衣裳はジェンダーを背負うが、脱いだところで逃れられるわけでもない。
そこを凌駕するほどのダンスがどれほどのものだったか、なんとか伝えていきたいものだ。

2016年には愛知芸術劇場で久しぶりに大島早紀子振付演出で白河直子ソロダンス『エタニティ』が上演され、その健在ぶりを示した。
過去の名作を踊り継ぎ、次世代に伝えるという意味でも、彼女たちの本格的な活動再開を望みたい。

●通報しました

もちろん日本の法律では公衆の面前で全裸になってはいけないことになっている。
芸術的な作品にまでピーピーいうな、と思っても、日本で自主的に公演プログラムを組める劇場はほとんどが公立なので、なかなか強くは言いにくいようだ。

しかも中には観劇のあと(公演前でも噂を聞いただけで)クレームを入れたり警察に通報し、市民の義務を果たしやがる同調圧力の方もいらっしゃるとか。

これはあくまでも噂話だが、とある公立劇場で、男性ダンサーが全裸で踊る作品があった。さっそく「けしからん!」とクレームの電話が入ったそうだが、その劇場スタッフはしれっと、
「いえわかりにくかったかもしれませんが、しっかり下着を着けていますよ。え? 男性ダンサーの股間に付属物が見えた? いやいや、あれはすべて模造品なんですよ。本物そっくりでしたか。そうですか。美術スタッフが力を込めて作りました。ありがとうございます」
と答えたという。
これは有効だと思うので、ぜひ全国の劇場のみなさんと共有したい

●これからの衣裳デザイン

……というわけで、衣裳の役割の深さをいろいろ見てきた。
単に身体を飾る、役割を示すという以上に、様々な使命があり、ときにダンスのあり方自体までも変えてしまう力があることをわかってもらえただろうか。

最後に、これからのコンテンポラリー・ダンスの衣裳について考えるうえで、衣裳デザインの第一人者、堂本教子氏の話をしよう。
いまや演劇・ダンス・オペラと幅広く活躍している堂本氏は、もともと陶芸をやっていたという。しかし大駱駝艦の舞台を見て舞台芸術に目覚め、イスラエルのバットシェバ舞踊団で衣裳デザインの研修を積んだ、なかなかダンスに縁のある人なのだ。

筆者がアドバイザーをしている国際ダンスフェス『踊る。秋田』では、山川三太芸術監督の発案で堂本氏を招いて衣裳デザインのセミナーを開催した。
そこでオレは、少し意地悪な質問をしてみた。
昨今は、まるで普段着や練習着のような格好で舞台に乗るダンサーも珍しくない中で、衣裳デザインの仕事は今後どうなっていくのだろう。

堂本氏は答えた。
「衣裳デザインは、舞台全体を理解した上で見た目や機能性を考えることも大切ですが、衣裳デザイナーのフィルターを通すことから始まります。まずは衣裳になり得る素材選びから、すでにある着物をばらして創ることもあるし、裏地にそっと作品のテーマと重なるような柄や模様を施して使うこともある。衣裳が演者のエネルギーになることが大切で、それは一見普段着のように見える衣裳でもかわることはありません
とのことだった。

冒頭に述べたように、衣裳は決して付加的な存在ではない。
ときにコンセプトを視覚化し、ときにダンスの本質を動きやすさや動きにくさによって支え、ときに演者のエネルギーを内側から助ける、心強い味方なのだ。

7月には、老舗のバレエ用品製造・販売会社が破産するなど、コロナ禍の影響はダンスを支える周辺の人たちも浸食し始めている。
その大切さを、もう一度見直してみてほしいのである。

□ ■ □

さて来月は「ダンスと舞台美術」である。
度肝を抜くような素晴らしい伝説の舞台美術、もしくはあきれかえるほど陳腐な舞台美術はもちろん、これからの予算がない時代、またエコの時代の舞台美術の可能性も探っていく。乞うご期待!

★第7回は2020年9月10日(木)更新予定です

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作家・ヤサぐれ舞踊評論家。株式会社JAPAN DANCE PLUG代表。 06年にNYジャパン・ソサエティの招聘で滞米研究。07年イタリア『ジャポネ・ダンツァ』の日本側ディレクター。19年スペインMASDANZA審査員。 現在は国内外の劇場・財団・フェスティバルのアドバイザー、審査員など活躍の場は広い。 『コンテンポラリー・ダンス徹底ガイドHYPER』(作品社)、『ダンス・バイブル』(河出書房新社)、『どうせダンスなんか観ないんだろ!? 激録コンテンポラリー・ダンス』(NTT出版)、『ダンシング・オールライフ〜中川三郎物語』(集英社)、『アリス〜ブロードウェイを魅了した天才ダンサー 川畑文子物語』(講談社)他著書多数。

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